彼の遺剣
深山あづ
故人
――低く垂れ込めた暗い空、不吉なことが起きるのは決まって今日みたいな空だ――
窓の外の空模様に不安を覚えながら、レイは剣を磨いていた。
一年前、魔女狩りに出かけた親友の、唯一帰ってきた彼の証。騎士であった彼に相応しい、無駄な装飾のない美しい剣。 正義感の強い彼に相応しい純白に輝く剣。ずっとこの剣と、それを振るう彼の姿に憧れていた。
彼の父から形見として譲り受けて、幾度となく、共に死戦をを切り抜けてきた。
「よし。」
鏡面の如く世界を写す両刃の刀身を、軽く拭って鞘に納める。銅製の胸当てを付け、牛革の外套を羽織り、ボタンをきっちり止める。最後に革製のベルトを巻き、鞘入りの剣を下げる。袋にはわずかな食料と、水筒だけを入れ、いよいよ朝の準備が終わった。
「行ってきます。」
寝静まった家に静かに告げて、家を出た。
「さぶっ、」
鼻先を冷たい風がさらった。いつもなら仄かな太陽が心地の良い光を届けてくれるが、今は厚い雲がそれを邪魔していた。街道をまっすぐ、松の森に向かって、未だ雪の残る雪原を横目に歩いていく。
剣を振るう手がかじかみで鈍らないよう、手に息を吹きかける。今日の獲物は松の森で発見された、人の三倍はあろうかという人喰いの白狼だ。通りがかった旅人が、街道で四人の亡骸を見つけた。その後、別の旅人が森で白狼を目撃したという。
小さな村ではそういった話はすぐに伝わり、レイの所属する、村の自警団に討伐依頼がなされた。
暫く歩くと、森の入口に2人分の人影を見つけた。
「遅えぞ、レイ。雪に埋もれちまったかと思ってたところだ。」
熊のような体躯の、戦斧を担いだ大男、ディークが言った。自警団の先輩で頼りになる。
「すいません、剣の手入れをしていました。」
「ふん。」
「心配してくれたんですか?」
「......さぁな。」
ぶっきらぼうで優しいこの男のことをレイは気に入っていた。
「おはようございます、レイ君。」
「おはようございます、隊長。」
「調子はどうですか?」
長髪の、狩猟弓を持った男、自警団の隊長リモンが声をかけてきた。
「悪くないです。少なくともこいつは万全です。」
そう言って刀身を少し晒す。冷気に触れてギラリと光った。リモンはそれを一瞥して言った。
「それは結構......。ですが、手が赤らんでますね。ほら、私の手袋を使いなさい。」
「いえ、あの―」
「遠慮は要りません。どうせ私は手袋をしていては弓は引けませんし。君の剣が鈍るかもしれない。」
そう言ってリモンは付けていた手袋を預けてきた。断ろうかとも思ったが、ディークが後ろで首を横に振った。素直に受け取れとのことらしい。
「ありがとうございます。」
そう感謝を述べて、ありがたく手袋を頂戴した。手袋には弓を扱いやすくするためだろう細工がいくつもあった。
「以前お伝えしたように、横に広がって、満遍なく警戒できるようにしましょう。私が中央、レイ君は左側でディークが右側です。今日の獲物は、狡猾な狼ですから。どこから襲ってくるのかわかりません。とにかく油断はしないように。」
「それから」そう言ってリモンは続けた。
「レイ君はくれぐれも私から離れすぎないように。君はまだ危なっかしいですから。」
「たしかにそうだな。よし、いざとなったら構わず大声で俺様を呼べ、どこにいようと守ってやる。」
「はい。ありがとうございます。」
頼りになる先輩二人の顔は満足げだった。
「それでは行きましょうか。」
そうして三人は森に入った。
「すこし暗れぇな。気を付けろよ、二人共。」
陽の光が届かない雪の松の森は暗かった。どこから飛び出てくるかもわからに敵に備え、森の闇の中に目を凝らした。
森が深くなるに連れ、樹木の密度が高くなって、気づけば先輩の姿は見えなくなっていた。今まで仕事をするときは常に仲間と一緒だった。当然人間は一人では無力だから。
――早く合流しないと――
そう思って先輩の名を呼ぼうとし、
やめた。
足元の雪が鮮血で赤らみ、熊の毛が散らかされていた。森の闇に気配を感じた。
――獣が近くにいる、目立つな、身を隠せ――
人の生存本能がレイを地に組み伏せた。
地に這ったまま、剣を抜き、静かに当たりを見回したが、
獣の姿はなかった。
呼吸することを忘れた体が、一応の安全に気がづいた。
汗がどっと吹き出し、久しぶりの冷気が肺をさした。
心臓の鼓動がなかなか収まらない。
深呼吸をなんどもして、自分の心臓を諌めた。
ようやく落ち着いた体でもう一度当たりを見回した。
血は森の奥へ続いていた。
森の闇に潜む獣に、殺されかねない恐怖が、後を追うことを引き止めていた。
それでも自分に親友の、純白の剣が、レイに勇気を与えた。
レイは追って森の深みへ入ることを選んだ。
身を低く地面を這うように血の跡を追う。リモンから手袋を預かっていなければ、辛かっただろうと思った。そんなことを考えられるくらいには、落ち着きを取り戻していた。
血痕の量は段々と減っていったが、鮮やかさは増していた。そして血が途絶え、視界は低木に阻まれた。仕方なくレイは長く伏していた体を起こした。
開けた視界には、白狼がいた。
また、体が呼吸を忘れた。
恐怖心からではなかった。その狼のもつ純白な毛並みに美しさに見惚れていた。
森の闇の中で雪のように輝いていた。突然に出逢えば、雪の精だと思ったに違いない。......ただしその口元には赤色をたたえて、足元には息絶えた熊が倒れていた。
血の赤に、呼吸を取り戻した。心臓は猛っていたが、今度は落ち着いて剣を抜いた。
――勝てるわけがない、逃げろ――
本能が慟哭していたが、黙らせ、正面に向かった。自分は死ぬだろうが、牙の一本でも、もいでやろうと思った。どうして自分にそんな覚悟があるのかと思ったが、どうでもよかった。
緊張が、両者の間にあったと思う。その緊張を破ったのは白狼だった。その狼は突然に、人の言葉を用いて、こう嘆願した。
「僕だ!!気づいてくれ......レイ。」
これまで自警団の仲間と、何度も狼を殺してきた。しかし、人の言葉を話す狼などであったこともなかった。
「レイ、僕なんだ。ジャンだよ。」
『ジャン』
それは、この剣の本来の所有者で、一年前に死んだ親友の名前だった。
「はは、」
狼に親友を重ねるとは。自分に、笑ってしまった。
死を身近に感じると、ここまで意識と言うのは狂ってしまうのか。
いや、人の言葉を話す特異な狼なのかもしれない。
はたまた、死者の国からの使いなのかもな。
「もうお迎えか?もう少しあの世で待ってて欲しかったよ。ジャン。」
「レイ。違うんだ、僕はあの世に行ってないし、君にお迎えが来たわけでもないんだ。僕は正真正銘のジャンなんだよ。」
......なんなんだ、この狼は。親友の名を語って、何がしたい?
「ずっと会いたかったんだ。君に、家族に。まさか君の方から会いに来てくれるなんて思いもしなかったけど......。とにかくあえて嬉しいよレイ。君は全然変わってないね。」
話し方、立ち振舞。ジャンだ。そう思った。
けど親友のように振る舞っても、でも、どうしたってこいつは狼だ。狡猾な生き物だ。四人は殺した、悪い狼だ。それにあいつは......
「死んだ。あいつは一年前、魔女狩りに行ったっきり帰ってこなかった、死んだんだよ!!そうやって狡猾に俺を、親友の名を使って騙そうとしている。やめろ。俺の、俺のジャンを穢すな、穢さないでくれ。」
「そいつは死んでない!!そいつは確かに魔女狩りに行った。そして魔女に敗れたんだ。魔女はそいつの仲間を動物に変えていった。兎、鹿、虎、熊。そして最後にそいつを狼に変えた。」
「......そんな作り話、誰にだって出来る。」
「本当に、僕なんだよ。信じてくれ......。」
気持ちが揺らいでいた。俺のも揺らいでいたし、あいつのも揺らいでいるように見えた。言葉にも嘘は感じなかった。確かにこいつはジャンだ。
だとしたら、なんで。なんでなんでなんでなんで!!
「なんで、人なんか、殺した。」
――ジャンが人を殺すわけがない――
あいつは、正義感が強かった。
誰かを助けたくて騎士になったんだって信じてた。
あいつの意思を組むために、あいつの剣を譲り受けて戦っていた。
――なのに、どうして?――
「どうして人なんか殺すんだ。」
「違う、僕は――」
「俺もジャンに会いたかった。君に会いたかった。」
「でも殺しはダメだ。君が誰かを殺したのなら、君を殺さなくてはいけない。」
「なのに、どうして......。」
最後にこぼれたそれは、自分でも驚くほどに、生気のない声だった。
「違うんだ、レイ聞いてくれ!!」
狼の目は誠実に俺を見ていた。
俺も狼の目を見た。精一杯誠実に。
俺を見た狼は、俺が瞬きをする間に、地に倒れた。
首に矢が刺さっていた。
いつの間にか空は晴れて、森は明るくなっていた。
木々の間からこっちに駆けてくる先輩たちの姿が見えた。
「この矢、リモンさんか。相変わらず上手いな。」
ジャンは純白の毛を血で染めながら言った。
「何が言いたかったんだ、早く言えよ!!」
二人が来てしまったら、殺されてしまう。
辺りの雪がどんどん赤に染まっていく。
せめて、親友の理由を考えを知りたかった。
「お前が無実だって言えよ。お前の言い訳を。間に合わなくなる。」
「......そうだね。でもその前に伝言を頼むよ。僕の両親と村のみんなに。魔女は確実に討ったぞ、って。」
「まかせろ。」
「そして言い訳だけれど、いいや。それは。」
「ふざけんなよ。」
「ははは、ごめんよ。でもふざけてない。僕の時間は全部を話すには少なそうだし。代わりに遺言。」
「なんだよ。」
「君に恥じるようなことは絶対にしてない。約束する。それに僕は君に信じられてるようだし、それで十分だよ。君に会いにこれてよかった。」
そういって白狼は動かなくなった。
剣は純白に輝いていた。
彼の遺剣 深山あづ @aaddzzuu
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