2.


「……ねぇ、久しぶり。私のこと、憶えてる?」


 そんな僕に気付いた彼女が最初に発した言葉は、とても信じられないものだった。同時に体から一気に何かが抜け落ちたように感じた。

 勿論初対面だ。こんな人、一度見たら忘れられるわけがない。


「君は……誰?」


「また会えるなんて思わなかった。忘れちゃった? エリだよ、エリ。小さい頃よく遊んだんだけど……憶えてない?」


 エリ。そんな名前に聞き覚えはない。


「ごめん」


「いいよ、謝らないで」


 そう言いながら、彼女の口角が優しくスッと上がる。胸がドキッとする。

 小さい頃によく遊んだ――流石に人違いだろう。きっとそうに違いない。でも、もしもその言葉が嘘でないとしたら?……僕は本当にこの人に会ったことがあるのか?


 見知らぬ幼馴染なんて存在し得るのだろうか。


 そんなの、夢のような話だ。炭酸の抜けたソーダのような甘い甘い夢。

 座敷童子とか妖の類いだと言われた方が納得できる。

 いや、本当にそうなんじゃないか。この不思議な掴みどころのない雰囲気といい──。


「ねぇ、ここで何してるの?」


「……ただの暇潰し」


「わざわざ外に出て?」


 彼女は畳み掛けるように語りかけてくる。初対面の相手に話すにしては異様な距離感。

 彼女は本当に僕と初対面だと思っていないのか?


「ねぇ、じゃあさ、ちょっと付き合ってよ」


「えっ?」


 そう言った瞬間、急に目の前がまばゆい光に包まれた。かと思うと、彼女の手にいつの間にかランタンが一つ、握られていた。暗闇に優しく光が広がっていく。

 暖かな色に照らされた彼女もまた暖かな表情で僕を見つめていた。


 ──怪しい。

 だけどそれは夜の自販機のようで。その明かりは不思議とどこか惹きつけられる魔力を持っていた。


「ついてきて」


 次の瞬間、僕は無意識的に頷いてしまっていた。


 公園を出て見慣れない道を往く。

 他人の背中を追うことなんて久しくなかった気がする。経験してなかった気がする。

 僕には何故か、小さい頃迷子にならないようにと僕の手を握っていた母の背中と彼女の背中が重なって見えた。


 そんなことを考えながらボーッとついていくと彼女が足を止めた。どうやら目的地に着いたようだ。

 目の前には少し崩れたブロック塀。どこか見覚えがある、が暗くてよく分からない。

 彼女はまた歩き出した。そして都合良く男子高校生ほど空いた隙間からその塀を抜けていく。僕は一瞬躊躇ためらいつつも、その躊躇いはすぐに消えて彼女を追った。


 塀を抜け、行手を阻む植物を押しのけ、辿り着いたのは草むら。月の光が上手く差し込んでいた。だけど流石にそれに用があるわけじゃないようで、彼女はまたぐんぐん進んでいく。

 そしてランタンの明かりと背中をそのまま追っているうちにいつの間にか僕は、建物の中に居た。


「こ、ここは?」


 暗い建物の中、僕の声だけがはっきりと響く。

 正直聞く前からその答えは分かっていた。床の中心に入った白線。そんな床が長く長く続く廊下。


「波高小。廃校になったんだって」


 話には聞いたことがあった。廃校になったらしいと。いつ聞いたかは忘れた。

 僕は別にここの生徒だったわけでもない。近所の小学校が?そんなに廃れてたのか……。

 廃校になるという話を聞いた時の最初の感想はそんなだった。


 でも、その景色を見て僕は思い出なんてないのにどこか懐かしい気持ちになっていた。小学校には元々そんな機能が備え付けられているのだろうか。

 何故か非常ベルを見て無性に嬉しくなっていた。夜が深くなってきた感覚が僕を包む。


 実はここは行ってみたかった場所だった。でも、勿論入ってはいけないし、入っていけないと分かってなお、侵入する勇気なんて僕にあるわけなかった。

 ブロック塀を前にして覚えた既視感はそれだ。以前ここを通り過ぎた時、入ってみたいなって、この隙間から……なんて想像していたんだ。


 まさか同じことを考えてた人がいるとは思わなかったが。


 僕と同じくらい馬鹿な彼女は勢いそのままにどんどん進んでいた。扉一つ一つに手をかけ、開かない、と小さく声を洩らしながら。

 そして学校でしか見ないような大きな階段を一つ上って、やっと鍵のかかっていない教室が見つかった。


 扉を開けると彼女はまた、よし、と小さく声を洩らして小学生用の背の小さな机の上に腰掛けた。儀式的に僕も同じような形で机に腰掛ける。

 カーテンのない窓から真っ直ぐ月の光が入ってくる。それはランタンの明かりに負けないくらい強かった。優しかった。


「夜の学校っていいよね。こういう雰囲気好き」


 彼女はお淑やかに、でもどこか子犬のようにコロコロと笑う。


「そうだね」


 それ以外返す言葉は見つからなかった。でも、それがその時一番心のこもった言葉だった。


「で、何でここに連れてきたの?」


「えー、理由とかは別にないよ。ただ一人で入るのは怖かったし、ダメなことって誰かと一緒にやった方が楽しいでしょ?」


 彼女はずるい微笑み方をする。


 彼女の声はとても聞き心地が良かった。スッと耳に入ってくる。

 透き通った、とかいう使いまわされた表現しか思いつかないのが恥ずかしい。


「ダメって分かってはいるんだね」


「もし怒られたら一緒に怒られてよ」


「……まあ、僕も何も考えずついてきたしね。その時は一緒だよ」


 僕のその言葉に何故だか彼女は嬉しそうに笑った。そして、彼女は少し脚で勢いをつけて立ち上がると教卓の上にドンとランタンを置いた。

 パァッと黒板がほのかに照らされる。黒板の緑がそれでやっと認識できた。


「見て見て、チョークあった」


 黒板のレールに付いたチョーク入れを覗き込み、そう無邪気に彼女は笑う。


「あったところで、でしょ」


 気持ちが高揚している彼女に対し、やけに冷めた言葉を送った僕。彼女はそれにどうやら少し腹を立てたようだった。

 顔を反対側へしゅんと向けると、彼女は何か黒板へ描き始めた。夜の学校にチョークの音が鳴り響く。


「それは……何?」


 かろうじて動物と分かるくらいの線の集合体に僕は質問を投げかけた。


「ひどい。カエルだよ」


「蛙?」


 何と言うか……言われたら見えなくもない。


「君も描いてみてよ」


 不満気な声と共に僕の右手にチョークが置かれる。何度も床に落とされたのが分かる欠片のような小さなチョーク。

 黒板に絵を描くなんて、きっと小学校の休み時間以来だ。少し描きづらいこの感覚に懐かしさを覚える。

 そういえば僕が小学生だった時、一番好きな教科は図工だった。描きながらそれを思い出した。


「え、すごい。素敵。今にも飛び出てきそう」


 僕にはデフォルトされた絵っていうのは描けなかった。でも、物の輪郭を捉えるのは上手かったようで、リアルな絵は昔から得意分野だった。

 蛙は一度中学校時代、理科の授業でスケッチしたことがある。それを精一杯記憶の隅から引き出しながら描いた。


「絵描くの好きなの?」


「いいや、ちょっと上手いだけ」


「そうなんだ」


 聞いた割には興味なさそうだった。まあ、それもそう。そもそも描いた絵もウザいだとか言われるだろうと思いつつ描いたから、素直な褒め言葉が返ってきたのはちょっと予想外だった。


「勉強は? 得意?」


「得意だけどあんまり好きじゃない」


「一番得意な教科は?」


「英語かな」


「へぇー」


「君は?」


「国語?」


「へぇー」


 そんなつまらない会話も夜の学校に忍び込んでいるという状況がどうしてか少し特別なものに感じさせた。

 と言っても僕は、という話で相手がどう思っているかは分からない。


 しばらくそんな互いに気を使うことのない会話が続いた後、そろそろ出よっか、と彼女が言って今日はお開きになった。

 長居しては見つかるリスクが高まるだけだし、賢明な判断だと思った。でも少し名残り惜しさもあった。知らぬ間にこの夜の雰囲気に僕も浸っていたのかもしれない。


 ただ、今日ここに来れて良かった。そう心から思った。


「どのくらい得意なの? 外国とかいける?」


 ずっと静かに歩いていた中、急に彼女はそう言ったもんだから、体が少しビクッと震えた。

 多分、得意な教科の話の続きだ。


「それは……どうなんだろ。ただ、この前のテストは92点だったよ」


「えっ! すごいね」


「ただtheを付け忘れたりしてたけど」


「勿体ない。英語好きなの?」


「一時期、この海の先のどこかに行きたいって思ってた時があってね。好きなわけじゃない」


 そう言いながら、ふと彼女の青みがかった瞳を見る。小川のようにキラキラとささやかに光って見える目。

 そういう血筋なのだろうか。親のどちらかが外国人?


「ねぇ、僕と君が幼馴染だって話、絶対嘘でしょ」


 僕はずっと思っていた疑問を遂に口にした。


「あー。……んー、そうだね。嘘だよ」


「案外すぐ認めるんだな。……で? なら君は何者なんだ?」


「それは、まだ秘密。……明日また公園に来てよ」


「……わかった」


 正直その答えに期待はしてなかったというか、はぐらかされるだけだろうと思っていたから、また答えを探るチャンスを与えられたことに内心ちょっとワクワクしていた。

 ミステリーは謎が謎のままである時が一番面白いものだと僕は思う。だから僕はいつも答えを探らないようにしていた。きっと現実にある謎の答えは大概つまらないから。


「じゃあ、また明日」


 彼女はそう言ってランタンの明かりを消し、手を振って去っていた。

 パーティーが終わった時のよう。蛍の会合の後のよう。案外、終わりはサクッとしていた。正体不明の少女の姿は、もう見えない。


 夜風が帰り道を歩く僕の背中を押す。今度はその風を追って行く。

 今日は久しぶりに意味のある日だった、とそう思う。ピーターパンのような一夜の大冒険。


 気付けば僕は家に着くまで、また明日、と初めて言われたその言葉を何度も反芻していた。

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