第19話 あなたの〝最愛〟を奪ったりしないから


「一ヶ月の、いとま……」


 唖然としていたアルトはぐっと唇を引き結ぶと、毛布の上に出ていた手を握りしめる。

 確かに、責任感の強いアルトにとって従僕としての立場から強制的に離されるのは、重い罰かもしれないなぁと考えながら、私は部屋にあった椅子を運んできて彼のそばに座った。


「今日はもう、このままゆっくり休んでね」

「……ありがとうございます」


 もふもふの狼耳がへなりと元気をなくす。



 ふたりきりの部屋で沈黙が降りる。

 私は後悔と罪悪感でいっぱいの胸をぎゅっと押さえつけながら、重い口を開いた。


「……ごめんなさい。アルトが魔力中毒になったのは、きっと私のせいだわ。魔力中毒は、魔力の使いすぎが引き金になるんですって。だから、固有魔法のこと……本当に、ごめんなさい」


 彼が魔力の使いすぎを引き起こしたのは、ほかでもない私が固有魔法の可能性を勝手に考察して、原作のアルト以上の彼の幸福を願ったせいだ。


「お嬢様。どうか謝らないでください。それなら、完全に僕のせいです。鍛錬の時間外にも魔力を使い続けていたのは、自分の意思ですから」

「でも……!」

「お嬢様のせいではありません。絶対に」


 強く言い切られて、口をつぐむ。

 従者として私に罪悪感を背負わせないためにそう言ってくれているのだろう。彼のまっすぐな優しさが、今は少しだけ苦しかった。


「魔力中毒で意識が朦朧とする中、ずっとお嬢様の呼びかけが聞こえていました。お嬢様の声が僕の名前を呼んでくれるたびに、意識を保つことができた。本当に、ありがとうございました」

「ううん。呼びかけというより、慌てていたところもあったけど……」


 少しでも役に立っていて良かった。

 照れ笑いを浮かべる私をアルトはじっと見つめながら、切なそうに目を細める。今にも泣き出してしまいそうな表情で、「だというのに」と喉を震わせる。


 彼は瞳を揺らし、思いつめたような表情でわずかに沈黙する。


「どうしたの?」

「……一瞬、夢を見ました。お嬢様のうなじに、噛み付く夢です」


 彼の瞳の中が揺れ、仄暗さを帯びる。

 もしかして、私の意識が朦朧とした時のことだろうか。けれども、それは言ってはいけない気がして、私はただ静かに「そう……」とだけ返す。


「そのせいか、意識が朦朧としてくるとお嬢様の姿を見ているだけで渇きを覚えて、喉が、鳴りました。衝動が、身体を支配するようで…………恐ろしかった。僕が未熟なばかりに……お嬢様を」


 その時の渇望を思い出してか、アルトの喉がごくりと上下する。

 長い睫毛が彼の美貌に影を落とした。

 後悔や絶望やさまざまな激情が彼の胸の内で渦巻いているのがわかる。


「――従僕でありながら、お嬢様を危険にさらしてしまい、……大変申し訳ありませんでした」


 アルトはそっと顔をあげ、私の目を一度見てから深く深く頭を下げた。

 私はゆっくりと首を横に振る。


「結果的には、誰も危険にさらされなかったわ。アルトは悪くない。その衝動だって、頑張って抑えてたじゃない。……ありがとう」


 けれど。


「きっと、私が『許します』と言っても、アルトは気にしちゃうのよね?」

「もちろんです」

「それなら、私もお父様に習ってアルトに罰を与えます」

「……はい。なんなりとお申し付けください」


 顔を上げたアルトは緊張した面持ちで、こちらを見つめてくる。

 私は本物の『毒林檎令嬢』らしく、悪い笑みを浮かべた。


「ふっふっふ! 罰として、アルトの狼耳をもふもふさせなさい! 以上です!」

「……えっ、は?」

「だって、もう一年よ! アルトのもふもふをなでなでしたかったけど、失礼かな? とか、嫌がらせはしたくないし……、とか色々と悩みに悩んで……。一年間、ずーっと我慢してきたんだからっ!」

「嫌がらせにはなりませんが、その……人生で一度も耳を撫でられた経験はないので、その」


 アルトはうろたえながら視線を彷徨わせる。

 私はそんな彼に「それなら今日が運の尽きね。覚悟なさい、えいっ」と両手を伸ばした。


「うっ」

「ひゃぁぁっ、もふもふ……っ!! 想像以上の柔らかな毛質! サラサラ! もふもふぅぅ」

「う、あ、……お嬢様……っ」

「ふふふっ」


 アルトが頬を染める。

 尻尾が少しパタパタしては、ぎゅうーっと感情を抑えているみたいにピタリと固まるのが可愛い……!


 私はついつい前世で飼っていた愛犬を思い出して、「いいこ、いいこ」と言いながら彼の狼耳を堪能した。

 前世で培ったなでなでスキルが発揮されているのか、アルトは時折気持ち良さそうにしては眉根を寄せて、「うう」とか「ぐう……」とか唸りながら堪えている。



「……でも、本当に。アルトの身体に魔力中毒の後遺症が残らなくて、良かった」


 やっと明るい日常が戻ってきた実感に、改めてほっとした。


 今、こうして私とアルトが笑いあえているのは、私の固有魔法が原作の悪役令嬢わたしとまったく同じで〝毒林檎〟だったからだ。

 もし他の固有魔法が発現していたら、この結末は迎えられていなかったかもしれない。


 それは、決して見落としてはいけない事実を知らしめていた。


 この世界にはバタフライ効果はあるけれど、決して変えてはならぬ重要な事象が確かに存在するのだと。

 そして、原作通りに進んだ方がより良い未来を――〝最善〟を導く可能性もあるということを。


 だけど……。これから先に起きるかもしれないアルトを不幸にする『番契約』だけは、必ず阻止しなくちゃいけない。

 アルトの人生に決して変えてはならぬ重要な事象があるとすれば、それはきっと私との最悪な『番契約』ではなく、聖女様との出会いと、聖女様とのハッピーエンドだ。


 ……大丈夫。それだけは必ず、〝最善〟を導いてみせる――!



「…………ねえ、アルト」

「はい」


 もふもふしていた手を、そっと手を止める。

 そして誓うように、彼の手を取った。


「私は絶対に、アルトに私のうなじを噛ませたりしない」

「………………っ!」


 アルトはなぜか言葉を無くしたように息を詰め、大きく目を見開く。



「あなたの〝最愛〟を奪ったりしないから――……だから、安心してね」



「…………は、い」


 アルトは、まるで感情を押し殺すように声を震わせながら返事をする。

 そして、美しく微笑んだ。


 花のほころぶような綺麗な笑顔なのに……なぜだろう。

 彼が今にも泣き出してしまうのではないかと思うほど、切なく、苦しげに見えた。



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