第17話 毒林檎令嬢の本領発揮(2)



「ひ、ひとまず、アルトをベッドへ。誰か手を――」

「グルルルル」


 貸してちょうだい、と続くはずだった私の声は、獣の唸り声でかき消された。

 手負いの獣が敵に威嚇するような、低く、危うげな獣の声。


 ハッと腕の中に視線を落とすと、今まで苦しげに目を瞑っていたアルトの虚な双眸とかちあった。

 菫青石の瞳は満月に照らされているかのように妖しく、しっとりと濡れている。その中にある、宝石を砕いたかのような金色の光彩が爛々と光っていた。


 虚なはずなのに、どこか蠱惑的で熱っぽく、甘い。

 こちらの胸が張り裂けそうなほど苦しそうなのに、匂い立つような悪魔的な妖艶さがあった。

 血色の良い形の良い唇から、尖った牙のような犬歯がのぞく。キュッと狭まる瞳孔は、獰猛な獣のように縦に開いていて――。


 思考に靄がかかり始める。いけない、こんな時なのに。


「ティアベルお嬢様っ! 癒師を連れてまいりました!!」


 若い女性の大きな声に、ぼーっとしかけていた思考が戻ってくる。エリーだ。


 その後ろから白衣を纏ったご老人が走ってくる。ディートグリム家に仕えてくれている稀有な光魔法の使い手、老齢の癒師・デノクだった。


 彼は数本の魔法薬瓶が入った木製の薬箱を抱えて、「獣人風邪か、魔力不足か」と落ち着きを払った様子で穏やかに呟いていたが、私の腕の中でぐったりしているアルトを見て「こりゃいかん」と空気を切るような声で言った。


「旦那様に緊急事態と伝えるのじゃ。至急、宮廷癒師団の長を連れて戻られよと」

「デノク癒師せんせい、あの、アルトの容態は……」

「魔力中毒による先祖返りが起き始めておる」

「えっ」


 ま、魔力中毒? 先祖返り……?

 聞いたこともない症状だった。


「獣人には稀に膨大な魔力を持って生まれる者がおる。そういう者は大抵、『獣人の祖』と呼ばれる最初の魔獣の魔力を受け継いで生まれてきた者じゃ」


 デノク癒師は話しながら荒々しい手つきで魔法薬瓶を選び、栓を抜く。それをアルトの唇にあて、紫色の液体を少しずつ流し込んだ。

 老齢なれど、瞬時に診断し迅速に対応する姿には、若い時分に戦場を駆けた宮廷癒師団の団長らしい猛々しさが残っている。


「……やはり魔法薬では駄目じゃったか。魔力中毒はその膨大な魔力が、ほんの些細なきっかけをもとに反転し始めて起こる現象じゃ。本人のあずかり知らぬところで突然起こる。放出されるべき魔力が間違った方向性を持って体内を巡り、正しい魔力を喰らうことで悪性化していくのじゃ。そのせいで中毒になる」


 デノク癒師によると、魔力中毒は極めて発病が稀な病気で命に関わるものだが、早期の適切な治療で問題なく回復できるらしい。


「常人ならばこの魔法薬で良くなるのじゃが……アルトは違う」

「あっ、アルトは、どうなるのですか?」

「アルトの魔力は特別じゃ。彼自身の魔力が喰いつくされて悪性化が進むと、命の危機を回避するために先祖返りが起こる。彼は狼の獣人じゃが、その血統のルーツは……魔獣フェンリルじゃ。魔力中毒で飢えた魔獣は、魔力を補うために人の意識を惑わせて喰らう」

「え……っ」


 私は言葉を失った。

 もしかして、さっきの思考に靄がかかる感覚って……。


「残念じゃが、宮廷癒師団の長を退いた今のわしでは、彼のような膨大な魔力を持つ者の先祖返りを止める術はない」

「そんな……」

「ティアベルお嬢様。酷なことを言うようじゃが、この部屋にアルトだけを残し、早急に人払いを。旦那様と宮廷癒師団の長が到着するまで防壁魔法を築くことでしか、わしらは彼を守ってやれん」


 デノク癒師のその言葉に、私は腕の中で小さく唸るアルトをぎゅっと抱きしめた。

 使用人達が『この場から避難』をする決断をしたのが、ぴりりと張り詰めた空気でわかる。


「こんなに苦しんでいるアルトを、ここに置いて行くなんて……」

「う……ぐうう……っ……グルルルル」

「アルト……っ!」


 アルトのうめき声と獣の唸り声が混ざりあう。


 一刻を争う状況なのはわかっている。そうしなければいけない立場なのも理解している。お父様がいない今、使用人たちの命を預かっている無力な私ができることは、命じることだけだ。

 けれど本心では、こんなに状態になった大切なアルトを、ひとりぼっちにしたくはなかった。


 一体どうして、こんなことに……っ。


 究極の選択を迫られて、胸が張り裂けそうだと思った。

 唇をきゅっと噛み締めてうつむく。ともすれば溢れそうになる涙を精一杯こらえてから、決意を胸に面を上げた。


「……全員、今すぐこの部屋から出て防壁魔法を。これ以降の指示は、護衛騎士団副団長に一任します」

「かしこまりました。……総員、緊急退避! 護衛騎士はこの部屋を囲むように防壁魔法を展開!」


 私が震えを一生懸命に抑え込んだ声で命じると、使用人や護衛騎士が指示や伝達を行う声が飛ぶ。


「さあ、ティアベルお嬢様もわしと共に」

「……デノク癒師。アルトは、彼の意識はあとどれくらいもちますか?」

「もって十五分、いや、十分か」

「それなら……私にあと五分、時間をください。デノク癒師は私とアルトを残して、部屋の外へ」


 私の決意に、デノク癒師は「なにを」と眉根を寄せた。


「私はまだ固有魔法が発現していません。固有魔法は女神の祝福です。もしかしたら、治療に役立つ固有魔法が女神に授けられる可能性だってあります」


 きっと、きっとそうだ。

 原作通りに禁忌の毒林檎を召喚する固有魔法が発現していないのは、この瞬間のためだって……もう、そう信じるしかない。


「たった五分でどうなるかはわかりません。でも! ……女神に祈る時間をください。五分経ったら、絶対にこの部屋を出ますから」

「……よかろう。その代わり、わしも一緒じゃ。わしはアルトの容態を見よう。五分以内に引き上げるべき時には、声を掛ける」

「デノク癒師……。ありがとうございます……っ」

「礼にはおよばんよ。さあ、早く祈りを。ティアベルお嬢様に女神の加護があらんことを」


 その言葉に「はい」と頷く。

 私は両手を合わせ、心の中で必死に女神へ祈った。


 女神様……。どうか、どうか私に、アルトを救うための固有魔法を授けてください……! どうか、どうか……っ。



 ――――『僕の持つ膨大な魔力や固有魔法の怖さを知れば……――お嬢様だって、僕を遠ざけるでしょうから』

 ――――『このまま僕がお嬢様を外へ出さなければ……飢えて死ぬ』


 脳裏に、アルトの言葉が蘇る。

 これ以上、彼の心の傷を作りたくない。


 ……それだけじゃないわ。あの日、絶対にアルトをハッピーエンドに導くって、そう誓ったじゃない。

 アルトのためにも、先祖返りなんてさせない。魔力中毒なんか、一瞬で治してみせるんだから……っ!


 その時、どくんと心臓がひときわ大きく脈を打ち、身体がふわりと熱くなった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る