第13話 従僕の幸せ


(固有魔法である〝箱庭〟を検証するということは、すなわち自己の深い部分と向き合い、そこに存在する深淵を覗くのと同義である)


 アルトは〝ティアベルの従僕〟として特別に与えられた一人部屋にこもり、上級魔法で埋め尽くされた術式を読み解きながら、ふと考えた。


「かの有名な魔法哲学者も言っていたな。『祝福が運命をもたらすのか、運命が祝福をもたらすのか』」


 何百年も昔に固有魔法を研究していた魔法哲学者は、固有魔法と運命は因果性のジレンマの中にあると述べた。

 ほとんどの固有魔法は、幼い頃に形成された概念に基づくことが多い。

だがそれは、生まれる以前に女神に与えられた固有魔法が、生まれた後から八歳になるまでの人生や宿命を作り上げているからだと。


 ドラゴンが先か、卵が先か。そういう話だ。


 アルトの〝箱庭〟の風景も、最初は皇城にある離宮の明るい一室だった。

 血統や魔力遺伝を重要視する『第一皇子派』の上級貴族たちが、幽閉されている第一皇子を担ぎ上げるために心血を注いだ離宮には、もちろん愛や慈しみなど存在しなかったが、温度のない絢爛な貢物や珍しい書物に溢れていた。


 それがすぐに檻の中になり、どこまでも暗く、昏く、寒い場所に一変した。


(降りてきた詠唱は、祝福が与えられた当初から変わっていない)


 つまり〝箱庭〟という固有魔法は、生まれた瞬間からその後の人生までのすべてを知っていたのだ。


(ひたりひたりとにじり寄ってくる死で満たされた場所。……女神からそう告げられたも同然の〝箱庭〟を創り変えるという発想は…………お嬢様を〝箱庭〟に引き摺り込んだあの日まで、僕にはなかった)


 だからこそ、目から鱗が落ちた。


 アルトはその日から、自由にできる時間を最大限に使い、固有魔法の研究に当てることにした。

 休息も取らずに、旦那様の書斎から借りた『魔法空間理論』に関する書物を貪るように読みあさる。


 理論を理解したら次は術式の実戦だ。

 空間を操る魔法には禁術もある。

 その点、アルトが自由自在に使える魔力領域は、新しい術式の練習に最適だった。


 禁術を駆使しながら、幻影魔法や投影魔法を応用的に使い、幼い頃の記憶と深く結びついた〝箱庭〟の……灰色の檻を、壊していく。


『ヴォルクハイト、なんだその目は。余への侮蔑と苛立ちを隠さぬ、生意気な目だ。〝魔物〟風情が余に逆らおうなどと思うなよ』


 すると幾度もなく、膿のごとく当時の幻影が噴き出してくる。それを以前よりも随分強くなった魔力でねじ伏せ、無感情に剣で切り裂く。


 だが、蓄積され続けた嫌な記憶は、すべて思い出し尽くさねば気が済まぬのか、何度も何度も繰り返し膿を噴き出し続ける。

 その始末をつけるには、とにかく膨大な時間と魔力が必要だった。


 叫び、怒鳴りつける幻影ばかりを相手にしていると、以前の日々に時間が巻き戻った錯覚に陥る。

 心が冷たく冷えきっていく中、ふと脳裏に浮かぶのはティアベルとの新しい日常だ。


『私の尺度で測るなら、人ならざるものたちに永劫囚われ続けるかもしれない神域より、アルトの固有魔法のほうがずーっと安全で便利だわ!』


 興奮で頬を染める彼女の力説を思い出しては、心が浮き立つ。

 もたらされる安堵や安心感に、喉が鳴り、胸がじんわりと熱くなっていく。


「ふふっ。お嬢様以外の一体誰が、僕の箱庭を安全で便利と笑顔で言い切れるんでしょうね」


 ……過去、父親には魔物と呼ばれて虐げられ続け、母親には笑顔さえ向けられたことすらない。家臣には政治の道具として担ぎ上げられ、恐れられて……すべてを奪われた。


 物心ついた時から愛に触れた経験のない自らの心にも、それは欠陥として如実に現れていたと思う。


 誰も信じられない。

 誰も必要としない。

 だから、誰にも期待などぜず、愛することもない。


 この先もその心情は一貫し続け、自分の中に存在しないはずだった。……はず、だというのに。


 孤独を抱えた孤高の魔物の瞳をまっすぐに見つめながら、魔物の問いに答えた少女は、その瞬間に少しの恐れも抱いていなかった。


『正直に言うと、この場所はすごく怖いわ。暗いし、寒いし、寂しい。でもね、アルトのことは全然怖くない。だって、こんなに。――こんなに優しい瞳をしているんだもの』

(……ああ)


 抑えていたはずの感情が、彼女の発する言葉によって勝手に溢れ出してくる。

 アルトの視界を覆っていた濃い霧が晴れ、感覚がすべて研ぎ澄まされていく。あの瞬間にもたらされたのは、まるで雷に打たれたかのような衝撃だった。


(嬉しい。嬉しい、嬉しい、嬉しい)


 その言葉だけが脳内を埋め尽くす。氷塊のごとく凍てついていた心が、熱くなる。

 心のやわらかなところを撫でられて嫌な気持ちはしなかった。


(そうだ。従僕が主人に褒められて嬉しくないわけがない)


 彼女がいれば、過去の残骸も恐れることはない。深淵など光で満たされてしまうのだ。


 日を追うごとに、ティアベルへ向ける忠実なる忠誠心は強くなり、自分の中で大きく膨れ上がっていくのがわかる。


(お嬢様を従僕として慕い、尽くし従う時間の、なんと幸せなことだろう)


 ティアベルとの美しい時間が記憶に刻まれるたびに、必死に抑えていた感情の堰がたやすく壊されていく。

 しかし、それを無理やり塞き止めようなどと、アルトにはもう思えなかった。


 とめどなく洪水のように溢れ出す激情の渦は、やがて頭の天辺から足のつま先までのすべてを、侵食しつくしていく。


(お嬢様が思い描く理想の〝箱庭〟を僕が完成させた時……お嬢様は、一体どんな反応を見せてくれるだろう? お嬢様との思い出をいっぱい詰め込めたらいい。お嬢様がずっと楽しめるような、幸福を感じてくれるような〝箱庭〟にしたい。 そう、僕が理想とするのは――)


「彼女を招くためだけの神域だ」


 アルトはティアベルの喜ぶ様子を想像し、満足げに口角を上げる。


『ヴォルクハイト、なんだその目は。余への侮蔑と苛立ちを隠さぬ、生意気な目だ。〝魔物〟風情――――』


 アルトの手から放たれた魔法が、酷い形相で叫びながら焼きごてをあてようとする皇帝の幻影をぐちゃぐちゃに切り裂いた。

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