16.二度目の求婚
まさか何か事故でも起こったのだろうか。
どくんと心臓が嫌な音を立て、背中を冷たいものが流れる。
「グエナエル殿下。足はもうよろしいのですか?」
レースに参加していた貴族の一人が彼に声をかけてきた。
「ああ。問題ない」
素知らぬ顔で答えたグエナエルは、私の目の前で歩みを止める。
「足とはなんのことですか? ルドヴィク殿下はどうなされたのです!?」
「騒ぐようなことじゃない。そのうち戻ってくるだろう」
グエナエルは肩をすくめてみせた。
「何があったのですか?」
私は事情を知っていそうな貴族に言葉をかけた。
「宰相閣下は私の前を走っておりました。グエナエル殿下はもう少し後ろにいらして……」
彼は帽子を取って、グエナエルの顔を伺いながら話し出す。その手にはすでにもう一つの狩猟帽があった。
参加者の話によれば、途中まではルドヴィクが先行していたことになる。
「ですが、グエナエル殿下の馬が窪みに嵌まったはずみで、殿下が落馬なされたのです。幸い柔らかい草の上でしたので、頭などは打っていないようでしたが……」
落馬してもこれだけピンピンしているとは、悪運だけは強いようだ。
「それで、私も閣下も引き返して、グエナエル殿下をお助けしたのです。その際、殿下が足をねん挫して歩くことができないとおっしゃったので、閣下がご自分の馬に殿下をお乗せになって、手綱を引いて歩いていくから先に行くようにと。それで私は先に戻って参ったのですが」
ルドヴィク自身が怪我をしたわけではないのだ。彼の手にあるのはもうレースから降りたルドヴィクの狩猟帽なのだろう。
彼の話を聞いてほっと胸をなでおろした。
「だけど……ルドヴィク殿下は? どうしてあなただけが戻ってきたの?」
私は再びグエナエルをねめつける。
「足が痛いというのは嘘だ。そうして叔父上を油断させて手綱を奪い、俺だけが先に戻ってきて勝利というわけだ」
「はあ?」
開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。
「そんなのただのインチキです!」
「ふっ、『策』と言ってほしいな。俺はわざと落馬してみせたんだ。それで叔父上を馬から下ろさせ、油断させて手綱を奪う。余裕で俺の勝ちだ。勝負するなら、ここを使わないとな」
グエナエルが人差し指で自分の頭を指さす。
「信じられない……」
私は俯いて、ぶるぶると震える右手を左手で押さえ込む。
「何か言ったか?」
グエナエルがニヤニヤと緩んだ顔を寄せてくる。
ぷつん、と私の中で何かが切れる音がした。
「ばっかじゃないの!?」
バチーンと派手な音が青空の下に響き渡り、周囲が一気に静まりかえる。
右手の掌がじんじんと痺れて熱かったが、そんなことはどうでもよかった。
いきなり衝撃が襲ってくるとは思っていなかったのか、グエナエルがバランスを崩してお尻から草の上に倒れ込む。
「男なら正々堂々と勝負しなさいよ! ひとの優しさにつけ込んで、だまし討ちするなんて情けないと思わないの?」
怒鳴りつけると、グエナエルは赤く腫れあがった頬を手で押さえながら、呆気にとられた顔で私を見上げていた。
「自分勝手に生きるのもいい加減にして。大迷惑なの! あなたの妃になるなんて死んでも嫌だからね!」
ありったけの声を絞り、私は呼吸を荒げながら肩を上下させた。
「ステラ……」
グエナエルは弱々しく私の名前を呼ぶ。
公の場で、女性に叩かれるというのは男性にとってはたいへんな不名誉らしい、というのは後から知った話。
風が吹き抜けて、一瞬だけ沈黙が落ちた。
「あの……一つよろしいでしょうか?」
おずおずと発言したのは進行役の男だ。
「レースの規定では、一度でも落馬すれば失格となります。つまり、グエナエル殿下が落馬したのであれば、その時点で負け、ということになりますよ」
男の顔を振り仰いだグエナエルの表情が、みるみる歪んでいく。
「いや……それは、だが……」
グエナエルは混乱しているのか、うまい言葉が出てこないようだった。どうやら、先に着いた方が勝ちという思考に捉われ、既定のことはすっかり頭から抜けていたらしい。
「グエナエル殿下」
ワントーン高い声で彼の名を呼び、にっこりと満面の笑みを浮かべる。もう偽りの微笑を向ける必要なんてない。
「『ここ』をもっと使うべきでしたね?」
私は、自分の頭を指さしてみせた。
「う……く……考え直してくれ。もう一度だけ――」
グエナエルがこちらに手を伸ばし、ドレスの裾を掴む。
――その時だった。
「ルドヴィク殿下ですわ!」
エレンヌの声にハッと林の方向へ顔を上げる。
グエナエルの青鹿毛を駆って、こちらへ向かってくるルドヴィクの姿がぐんぐん近づいてきた。
「ルドヴィク殿下!」
胸に熱いものがこみ上げてきて、瞳が潤む。
「この手、邪魔っ」
ドレスの裾を引っ張ってグエナエルの手を振りほどくと、私は彼に背を向けて地面を蹴った。ブーツを履いてきてよかったと思った。
ドレスのスカート部分を大きくまとめて掴み、草原を駆ける。
帽子が風で飛んだが、振り返ることはなかった。
ルドヴィクの無事を早く自分の目で確かめたくて、無我夢中だった。
最初は、決して手の届かない憧れの人だった。
そばにいられるだけで嬉しかった。
優しい眼差しで見つめられて、宝物みたいに抱きしめられて、夢みたいだった。
――でも、それだけじゃだめなの。
今はもうルドヴィクのいない世界なんて考えられない。
彼がいなくなったら、私がこの世に存在する意味なんてない。
私の姿を認めたルドヴィクが馬を御して立ち止まると、優雅に地に降り立った。
「殿下!」
息が苦しくて、何度も足が止まりそうになったけれど、少しでも早く彼の元に辿り着きたくて懸命に走った。
「ステラ!」
ルドヴィクに名前を呼ばれてホッと気が緩んだ瞬間、草に足を取られて前のめりに転びそうになる。
さっとルドヴィクの腕が伸びてきて、そのまま彼の胸に飛び込むように抱き留められた。
「ご無事で……よかったです」
「まさか君の方から迎えにきてもらえるとは思わなかった」
ルドヴィクが嬉しそうに笑った。
「勝負なんてもうしないで。あなたが好きなの。ルドヴィク殿下じゃないとだめなの!」
私は涙を流しながら、震える声を叱咤しながら、彼の背に腕を回した。
――離れたくなかった。
「今すぐ私と結婚してくださいっ」
そうして誰の手も届かないところへ攫っていってほしい。
「ステラから求婚されるのは二回目だな」
ルドヴィクは眉を八の字に寄せて微笑を浮かべると、私の頬を伝う涙を指で拭った。
「いかなる困難も二人で乗り越え、溢れる幸せを君と分かち合うことを、この空に誓おう。ステラは?」
「私も……つらい時は一緒に手を取り合って、嬉しい気持ちは何倍にも膨らませて笑顔でいることを誓います」
二人だけの即席の結婚式だ。
それぞれの瞳に互いの姿だけが映る。ゆっくりと距離が近づいて、触れ合う瞬間、私は目を閉じた。
優しいキスは、幸せな時間を閉じ込めて、遥か永遠にも感じられた――
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