10.解き放つ想い
歌劇を観にいくと決まってから、エレンヌや侍女たちは衣装選びに余念がなかった。夜公演なのできっちりと正装で赴くのが礼儀だ、でも華やかさは必要、それならば……という風に、自分たちが行くわけではないにも関わらず、とても楽しそうに準備していた。
彼女たちが選んだのは仕立屋で購入した既製品の内の一つではあったが、それでも価格は以前の私のドレスよりも桁が違うものだ。
光沢のある孔雀青のそれは肩と胸元が大きく開いた大胆なデザインで、袖がない。ロンググローブを着けているものの、なんだか落ち着かない気分になる。
鑑賞当日を迎え、橙色の光が薄くなり群青に染まる空の下、私とルドヴィクは王立劇場に到着した。
「ここが……」
白薔薇のコサージュと羽根飾りのついたカクテルハットをかぶった私は、その荘厳な建物を見上げた。
「さあ、行こうか」
エスコートしてくれるルドヴィクは、黒のテイルコートをスマートに着こなし、蜂蜜色の髪をきっちりと後ろに流している。
目の覚めるような整った顔立ちがこれでもかと堪能でき、その限界を超えた色気をまとった姿に、私が心の中で激しく悶絶したことは言うまでもない。
モザイクタイルで流麗な絵が描かれている床に、人々の靴音が鳴り響いていた。正面の大階段をゆっくりと上っていくと、天井にある彫刻細工も見事なもので、ただただ圧倒されてしまう。
さらに回廊を進むと、曲線がなめらかな華やかな空間が広がり、金銀で彩られた天井画や美しい銅像などがあり、豪華絢爛という言葉以外見つからない。
そこから続く場所は大休憩室という社交界の応接間とも呼ばれる所で、簡単な食事や飲み物が用意されていた。天井は遥か高く、豪奢なシャンデリアが整然と並んでいる。
私たちの姿に気づいた人々が、驚いたような顔をしたり、抑えめの黄色い声を上げたりして、注目を集めないわけがなかった。
「やあ、これはこれは……宰相閣下ではございませんか。こんな所で閣下にお目にかかれるとは光栄です」
「こんばんは、ラング伯爵」
早速呼び止められ、ルドヴィクが伯爵夫妻と挨拶を交わす。
「閣下が女性連れとは珍し――」
伯爵は私の顔をまじまじと見て言葉を切った。
「ステラ様?」
「こんばんは」
私は礼の姿勢を取る。相手は王宮に通う大臣だ。私も見知っているし、向こうも気づくのは当然だろう。
「号外が出た時はびっくりしましたけれど、訂正記事が出てよかったですわね、ステラ様」
伯爵夫人が上品に微笑む。
「訂正記事?」
私は首をかしげる。
「はじめはステラ様に原因がある書き方でしたけれど、訂正記事によれば、心変わりをしたのはグエナエル殿下の方だったそうね。それでもこれから大変でしょうけれど、王家の援助で将来は保証されているとか。今夜もその一環かしら?」
訂正記事が出ていたとは知らなかった。
(だから、カフェに行った時もみんな私のこと気にしていなかったんだ)
きっとそれがなかったら、私はまだ周囲の人々から白い目で見られていたかもしれない。
新聞屋の良心に感謝しなくちゃ。
「今夜はプライベートで。私の方からステラを誘ったのだ」
夫人の問いかけにルドヴィクがあっさりと言い切るものだから、伯爵夫妻は笑顔のまま頷きかけて、「ん?」というような顔になった。
「では、失礼する」
ルドヴィクは軽く会釈した。
「は、はい。良い夜を」
呆気にとられたままの伯爵はぽかんと口を開けて、歩きだした私たちを眺めていた。
「ルドヴィク殿下。あんな風に言ったら誤解されてしまいます」
焦って口をパクパクさせて抗議する。
「誤解?」
「あれではまるで、殿下が私に気があるような言い方ですよ」
まだ婚約するとは返事をしていないし、また話に尾ひれはひれがついてとんでもない飛ばし記事を書かれ、ルドヴィクにも迷惑がかかってしまったらどうすればいいのか。
「では、誤解とは言わないな」
つい、とこちらに視線を流して、彼はふっと口角を上げた。
「……っ」
心臓をぎゅっと掴まれたような気がして、私は息を呑んだ。
たちまち顔が熱くなってくる。
(私に気があるのが、誤解ではないって……)
それは『私がルドヴィクに気がある』の間違いでは?
逸る鼓動が気持ちを上ずらせる。
「どうぞ素敵な夜をお過ごしください」
二階の深紅の絨毯を進むと、重厚な扉が警備の者によって開かれた。
「う、わぁ……」
私は思わず声を上げていた。
天井がものすごく高い、どうやら三階の席の分までの空間があるらしい。豪華なボックス席は開かれたバルコニーがついていて、馬蹄型の劇場が一望できた。
ステージにはまだ天鵞絨の緞帳が下りている。一階の前方はオーケストラピットになっていて、そちらはすでに準備が進められているようだ。
「初めての歌劇がこんな素敵な場所から観られるなんて……」
ここは王族や彼らが招いた賓客しか立ち入ることができない席だ。望んでも気軽に立ち入れる所ではない。
「ありがとうございます、ルドヴィク殿下。すごく嬉しいです!」
胸のときめきが歌劇に対する期待にすり替わって、私は振り返ってルドヴィクに笑いかけた。
「それはよかった」
彼は眩しそうに目を細める。
やがて緞帳がするすると上がり、オーケストラの壮大な音とともに舞台俳優たちが現れた。
物語は『魔法の約束』というタイトルで、魔法のある世界で、魔法使いのヒロインが騎士団の若き団長と恋に落ちるというものだった。
第一幕では二人の出会いから始まる。ヒロインが所属する魔法教団と騎士団長が仕える王との対立により、想いを秘さねばならない。やがてヒロインには別の男との縁談が持ち上がり、二人はますます逢瀬を重ねることが難しくなった、という所で幕が下りた。
「皆さん、とても素晴らしい歌唱力と演技ですね」
息を詰めて観ていたからか、客席の照明が明るくなると、私はホッと長い息を吐いた。
主演の歌姫は稀代のソプラノ歌手と称されているらしく、心に響くような圧倒的な声量に思わず肌が粟立つほどだった。
「そんなに感動したのなら、次の公演のチケットも押さえておこうか」
ルドヴィクの提案に目を丸くする。
一度来られただけでも嬉しいのに、もう次の予定を?
二つ返事で承諾したいところだが、さすがに毎日のように私のわがままを叶えてもらうのは申し訳ない気がする。
「グエナエル殿下は歌劇に興味がないみたいで、一度も連れてきてもらえなかったので、今夜ルドヴィク殿下と来られただけでも嬉しいです」
「……本当はグエナエルと来たかった?」
そう口にしたルドヴィクの表情が翳る。
「え?」
何かいけないことを言ってしまっただろうか。
「そ、そんなことはありません。それにもう、私は彼の婚約者ではありませんし」
「では、私との婚約の話は、前向きに考えてくれているのだろうか?」
核心的な質問に私はどきりとした。
「私……いまだにわからなくて。どうしてルドヴィク殿下が私の求婚を了承してくださったのか。身分は完全に釣り合わないですし、落ち着いた大人とは程遠いです。もし本当に責任をとる為だけの結婚なら、しなくてもいいです」
ずっと疑問に思っていたことを思いきって彼に尋ねてみる。
義理で結婚されるくらいなら、死ぬまで憧れたままでかまわない。
「ステラのことを愛しているからだ」
迷いのない言葉が私の耳に滑り込んでくる。揺るぎない眼差しが私の視線を縫い留める。
ここは、歌劇の舞台の上ではないわよね?
「王位継承の関係で、本来王族の弟は未婚を貫く慣習になっている。だが、グエナエルの目に余る行動に陛下がひねり出した結論が、私が誰かと結婚してその子供にも王位継承権を与えるというものだった」
やはり、ルドヴィクのような理想を詰め込んだ完璧な男性が未婚であるのには、正当な理由があったのだ。
「なんの苦労もなく次期国王になれると思っているグエナエルに、灸をすえるつもりなのだろう。そこで白羽の矢が立ったのが君だ」
「婚約破棄すれば、結婚相手がいなくなるから……」
「ステラには申し訳ないが、私にとっては思ってもみない幸運だった」
「申しわけないなんて……」
「十年もグエナエルのそばにいて、王太子妃としての教育もこなしてきたのに、そのすべてが無駄になったのだ。無理にでも婚約破棄を止めることもできたのに、それをしなかったのは、私がステラと結婚したかったからだ」
ルドヴィクの青い瞳が揺れる。
橙色の照明ではっきりと見えないが、もしかしてまた耳が真っ赤になっているみたい?
「私がもっと若かったなら、強引にでもステラを奪っていたかもしれない。だが、歳を重ね、立場と責任というものに縛られ、君を見守ることしかできず、もどかしかった」
夢でも見ているのだろうか。
何か言わなければと思ったが、その時第二幕の開幕ベルが鳴り、ハッとした私たちは舞台の方へ視線を向ける。
第二幕では、ヒロインと騎士団長の葛藤や、信じあう心が描かれ、全身全霊をかけて騎士団長への愛を叫ぶシーンだった。高らかに歌い上げる愛のアリアは心を揺さぶる。
障害を乗り越え、命を懸けて立ち向かった二人が最後に結ばれる壮大な愛の物語だった。
大好きな人へ、私もごまかさずに真っ直ぐ想いを伝えたい。
歌劇が終わり、カーテンコールが終わっても、私はまだ呆然として舞台を見つめていた。
「大丈夫か?」
ルドヴィクに声をかけられ、そちらを向いた途端に頬を流れている涙に気づく。
今、言わなければ。答えを出さなければ。
想いが堰を切ったように溢れた。
「ルドヴィク殿下。結婚のお話、お受けいたします」
はっきりとそう告げれば、彼は瞠目する。
「ステラ――」
「ずっと、ずっと……憧れていたのです。初めて会った時から、あなただけを想ってきました」
ようやく本当の想いを解き放つことができた。
泣き濡れた頬を拭いながら、私は肩を震わせる。
「大切にする。私の人生を君に捧げると誓おう」
ルドヴィクにそっと抱き締められて、私は彼の胸の中でさらにしゃくりあげた。
これは――うれし涙。
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