9.わがまま

「えへへ。いただきます」

 私は破顔すると、今度こそ蜂蜜をたっぷりかけてパンケーキを口に運んだ。


「んんん~! なにこれ。ふわって、しゅわって、口の中で蕩ける~」

 ほっぺたが落ちるとはまさにこのことだ。


 私は頬をむにむにと押さえながら瞳を潤ませた。


「ええ、本当に。これは人気が出るのも頷けますね」

 エレンヌも嬉しそうな声を上げ、次々とケーキの面積を減らしていく。


「蜂蜜も、甘いのにくどくなくて、芳醇な薔薇の香りが最高の中の最高!」

 憧れの人と同じものが食べられるなんて、今日はとても幸運の日だ。


 しかも同じ席に座れる奇跡に、感謝しなければ。


 もったいなくて、たっぷりと時間をかけてパンケーキを食べ終えると、皿の上はピカピカに片付いた。


 春摘みのダージリンのきりりとした爽やかな渋みも、甘い物にはいい組み合わせだった。


「ああ。おいしかった。本当にありがとうね、エレンヌ」

 私は食事を終え、改めて彼女に謝意を述べた。


 するとエレンヌは、一度私と合わせた目を下に落とし、唇を震わせる。


「どうしたの?」


「……ちがうのです」

 ぎゅっと目を閉じたエレンヌは声を絞り出す。


「なにが?」


「本当は――ここを予約してくださったのは宰相様なのです」

 エレンヌは、申しわけなさそうに眉尻を下げて言葉を続けた。


「お嬢様には言わないでほしいと頼まれていました。でも、やっぱり黙ったままなんてできない」

 首を小さく左右に振り、彼女は瞼を上げると真っ直ぐに私を見つめてきた。


「ステラお嬢様の喜ぶお顔……それを一番に目にしたかったのは、宰相様だったはずなのに……」


「ど、どういうこと?」

 私は何がなんだかわからなくて、当惑の色を浮かべる。


「実は宰相様から、お嬢様がしてみたいことや行きたい場所はないかと聞かれたのです。それでこのお店のことを話したら、早速お席の予約を取ってくださったみたいで。ぜひお二人でと勧めたのですが、宰相様はお仕事が忙しいとのことで、私に一緒に行ってきてほしいと話されて……」

 エレンヌは周囲に聞こえないように、声量を抑えた。


「そう……だったのね。仕事が忙しいなら仕方ないわね」

 私は目線を落として苦笑する。


 それにしても、半年先までできない店の予約を簡単に取りつけるなんて、さすが王家の力は絶大だ。


「違います。宰相様は、お嬢様に避けられていることを気づいておいでですよ。ですから敢えて同席は控えたのだと思います。それでもお嬢様が喜んでくれればいい、そういうお考えに至ったのでしょう」

 エレンヌの話を、ぽかんと口を開けて聞いていた。


 ――君の望みを叶えてあげよう。


 勢いで求婚したあの日、ルドヴィクに言われた言葉を思い出した。


「どうしよう。私が責任をとって、なんて言ったから……」


「本当に『責任感』からでしょうか?」

 エレンヌは笑いをこらえるように、困った顔をする。


「そう……じゃないの?」


「お嬢様は、ここに誰と来たかったですか?」

 彼女に問われて真っ先に浮かんだのは、紛れもないルドヴィクの顔だ。


 だが自分の望みに、わがままに付き合わせるのは子供のすることではないのか。


「私から申し上げられるのはここまでです。お礼は、ぜひお嬢様の口から宰相様へ直接お伝えくださいませ」


 エレンヌの言葉に、私は「あ……うん」と小さく返事をして頷いた。


 それからまた馬車に乗って離宮へ戻る。


(お仕事が忙しいのは本当だと思う……)

 春は社交の季節だ。貴族街も賑やかになり、王宮に足を運ぶ多くの地方領主の姿を毎年見てきた。彼らへの対応は、国王と共にルドヴィクも担っているはずだ。


(それでも殿下は、毎日離宮にいらしてくださっているわ。私が隠れようとするので短時間だけれど)


 何か不自由なことがないか、毎日気にかけてくれている。それは王家の人間の一人として、グエナエルのしたことの責任を代わりに取ってくれているだと思っていたが、違うのだろうか。


(逃げ続けるのは、失礼なことね……)

 優しくされると、どうしても免疫のない私は動揺してしまうけれど、受け流せるまで待っていたらおばあちゃんになってしまう。


 生きてきた年月の差は埋められないけれど、無理に背伸びをするのはやめよう。


 素直に、自分の気持ちを――


 そう決意したのに、やはりすぐに心を入れ替えるのは難しくて、私は夕方に離宮を訪れたルドヴィクを前に目を泳がせていた。


「宰相様。本日はありがとうございました。実はご予約を入れてくださったことを、お嬢様にお伝えしてしまいました。お詫びに、お店で購入してきた特製のローズティーをお淹れいたしますので、どうぞおかけになってお待ちください」

 エレンヌは仕事モード全開の恭しさで一礼し、私に向かって軽く口角を上げて部屋を出ていった。


 茶葉を購入していたのは知っていたけれど、お土産ではなかったのね。


「だ、そうなので、こちらへ、どうぞ」

 たどたどしい口調で、彼をソファに促す。


「気を遣うかと思って、黙っているように頼んだのだが、かえって申し訳ないことをしたな」

 ルドヴィクがソファに腰かけるが、どうしていいかわからず私はそこに立ち尽くしていた。


「君が立ったままでいいというなら、私も同じようにするが」

 彼が立ち上がろうとしたので、慌ててソファのそばにある一人掛けの椅子に腰かける。


「あ……あの、今日は本当にありがとうございました。ずっと行ってみたかったお店なので、嬉しかったです」

 なんとかお礼は言えたのでホッとした。


「それはよかった。今まで王宮と屋敷の間しか外出は許されていなかったと、エレンヌから聞いたものだから」


「はい。叔父は外聞を気にする方でしたので、厄介ごとに巻き込まれないようにと厳しく言われて……」

 遊び歩いて勉強がおろそかになったら困ると言われていた。


 それをぜひグエナエルに言ってみてほしかった。反感を買って爵位を取り上げられたかもしれないけれど。


「君はかわいらしいからな。そこだけはボードリエ伯爵に同意だ」

 前半は聞き間違いかもしれないけれど、そこ同意します!? 


 私は言葉を失った。


「だが信頼できる者と一緒なら、でかけてもかまわない。君に窮屈な思いはしてほしくないから」

 ルドヴィクはそう言って麗しい微笑を浮かべた。


 背中に満開に咲き零れる白薔薇の幻影が見えます――


 私はきゅうっと胸が高鳴るのを感じ、ごろごろと床に転げまわりたいのをなんとかこらえる。


「あの……」


 信頼できる者。


 本当に行きたかった相手。


「ルドヴィク殿下……」

 私は膝の上でぎゅっと手を握り込み、息を吸い込んだ。


「なんだ?」


「今度は、殿下とご一緒におでかけしたいです」

 正直にそう言った。


 わがままだと、迷惑だと思われるのは承知で。


「そうか……」

 ルドヴィクがそう言ったきり黙り込んだので、やはり難しいのかと思ったが、ふと彼の耳に目をやったら、そこが真っ赤になっていた。


(ん? どういうこと?)

 照れている……のだろうか。


「も、もしかして……」

 私は息を呑んだ。


「こんな子供みたいな女と行くのは恥ずかしいですよね」


「まだ何も言っていない」

 ルドヴィクは憮然と――でも耳は夕陽みたいに赤く染めて返答してきた。


「子供、子供と君は言うが、私はステラを幼いと思ったことなど一度もない。むしろ、もっとわがままを言ってほしい。もちろん……私だけに」

 サファイヤの瞳が、心なしか熱っぽく見えるのは気のせいだろうか。


 彼の赤い耳を見ていたら、私まで顔が熱くなってきた。


「歌劇を見に行きたいともエレンヌに聞いた」


「まさか……」


「その、まさかだよ」

 ルドヴィクは胸の内ポケットから長方形の封筒を取り出した。


 中を開けて、二枚のチケットを見せる。日付は明日になっている。


「でも、お仕事がお忙しいのに――」


「ステラとデートする以上に重要な予定があると?」

 自信たっぷりにそう言われて、私は胸を射貫かれた気分になった。


「仮にも宰相ともあろうお方が、国益よりもデ、デ、デ……デートを優先するって、またまたご冗談を」

 一瞬で林檎のように赤くなった頬をひきつらせて、私はなんとか受け流そうと努力した。


「これは冗談ではない。私はステラのそばに少しでも長くいたいのだ」

 ルドヴィクの真っ直ぐな瞳は真剣そのもので、私にチケットを一枚差し出してくる。


 ――本当に『責任感』からでしょうか?


 エレンヌの言葉が脳裏にこだまする。


 そうではないことを、期待してもいいのだろうか。


「ありがとうございます……」

 面映ゆい空気が流れる中、おずおずと手を伸ばして、それを受け取った。


「明日が楽しみだ」

 ルドヴィクが悠然と笑みを浮かべる。


 その笑顔を独り占めしたいというわがままは、聞いてもらえますか?


 その後、タイミングを見計らったようにエレンヌが戻ってきて、ルドヴィクはローズティーを一杯飲んでから、仕事がまだ残っていると言って帰っていったのだった。

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