8.白薔薇のパンケーキ

「ステラお嬢様。今日は王都におでかけになりませんか?」

 朝食の後、片づけを終えたエレンヌが、満面の笑みを浮かべて提案してきた。


「王都ね……しばらくは遠慮しておくわ」

 町の人にどう思われているのか、どんな目で見られるか、考えただけで気が滅入る。


 きっと新聞の内容と事実は違うと叫んでも、信じてもらえないだろう。かといってルドヴィクのように、泰然自若とした態度をとるなんてできそうにない。


「それは残念です。せっかく『ミエル・ド・ロワ』の予約が取れたのですが、お断りのご連絡を入れてきますね」

 エレンヌは小さなため息をついて、くるりと身を翻す。


「ま、待って。それってあの、半年先まで予約が埋まっているっていう、あの人気のカフェのこと?」

 私は慌てて彼女を呼び止める。


「他にあります? 実はキャンセルが出たので、席の抽選があったんですよね。それで申し込んでみたら見事に当たりましたので、お嬢様と一緒に行こうかと思ったのです。でも……」


「行くっ! 一回行ってみたかったの!」

 私は立ち上がって、エレンヌの手を取った。


 王都にはいくつかカフェがあるが、その『ミエル・ド・ロワ』では店名にかかげる通り、蜂蜜を使ったものが多い。その中でも看板メニューになっているのが『白薔薇のパンケーキ』というものだ。


 ラフォルカ王家にも献上されている、希少な薔薇の蜂蜜をふんだんに使用しているだけでなく、しゅわしゅわと蕩ける食感のパンケーキは他では味わえないという。


 それを口にできるなら、悪い噂にも耐えてみせるわ。


 我ながら単純だ。


「……では、護衛の方にも声をかけてきますね」

 一瞬何かを言いかけてやめたエレンヌは、柔らかく笑んで頭を下げると、部屋を出ていった。


 それから馬車の手配を済ませ、私はエレンヌとともに王都へ向かう。


「ルドヴィク殿下も、そのお店で召し上がったことがあるらしいの。王弟親衛隊の間では聖地の一つと言われているのだとか」

 私は窓に顔を張りつけるようにして、街並みがぐんぐん近づいてくるのを楽しみに眺めていた。


「では、宰相様とご一緒の方がよかったのではないですか?」

 馬車の向かい側に腰かけたエレンヌが苦笑する。


「そ、それは……別にいいの。だってパンケーキなんて子供っぽいと思われるかもしれないし」


「宰相様も召し上がったのでしょう?」


「それは、公務の一環で、だもの」


「……いつまで避け続けるおつもりです? 月末には舞踏会なのに。私は早く皆さんに、『お二人は結婚するんですよー』って叫びたいです」


 どうやら私とルドヴィクが結婚するかもしれない、という話を知っているのは国王夫妻と、エレンヌだけのようなのだ。


 私が考えたいと言ったから、ルドヴィクが配慮してくれているのだろう。


「わかっているわよ……」

 軽く口をとがらせる。


 ドレス選びの帰り道、彼にいたずらに迫られてから、その時のことを思い出してしまって、まともに顔を合わせられない。


「冗談をもっと軽く受け流すには、あと十年……二十年?」

 私はエレンヌから目を逸らして指を一本、二本と折り曲げた。


「お嬢様!」


「あ、ほら。着いたみたい」

 頬を膨らませた彼女に、ゆっくりと停止する馬車の扉を指さしてみせ、私は話を濁した。


「もう……お互いにこじらせすぎだってば」

 ぼそりとエレンヌが何か呟いた気がしたが、聞き返そうとしたら「独り言です」とにこりと笑われてしまった。


 護衛は店の前で待っているというので、私はエレンヌと共に店の中に入った。甘いバターと蜂蜜の香りで満ちた空間に、心から幸せを感じる。


「わあ……」

 中にはテーブル席がいくつかあり、どの席も客でいっぱいだ。恋人か夫婦なのか男女で訪れている割合が高い。


 白を基調とした壁に、天井には色とりどりのドライフラワーが飾りつけられ、カウンターには深紅や純白の薔薇が活けられている。


 丸テーブルに、ベルベットのソファ席もあるようだ。床はおしゃれなツートンカラーになっていて、内装だけでも飽きずに見ていられそうだ。


「男性もけっこういるじゃないですか」

 こそっとエレンヌに耳打ちされて、私は頷いた。


 誘ったらルドヴィクも来てくれるだろうか。


 いや、でも今から予約を入れたら早くても半年後。その前に答えは出さなければいけない。


「こちらです」

 座席に案内されて腰かけると、テーブルの上から予約席と書かれた札を店員が回収する。


「ご注文がお決まりになりましたら――」


「『白薔薇のパンケーキ』で!」

 私はメニュー表も開かずに、勢いよく告げた。


 よくあることなのか、店員は動じることはなかった。


「かしこまりました。ではセットでお飲み物はいかがでしょうか? おすすめは春摘みのダージリンです。宰相閣下がお飲みになったものと同じ産地の茶葉でご用意しております」

 上品な笑みを浮かべ、なめらかに説明する様子は、もう何度も同じ言葉を繰り返しているからなのだろう。


「では、それでお願いします」

 気恥ずかしくなった私は、頬が熱くなるのを覚える。


「私も同じもので」

 エレンヌが苦笑しながら告げた。


「承りました。それでは少々お待ちくください」

 店員が一礼して下がると、私は小さく息をついた。


「夢みたい。ずっとここに来てみたかったの。ありがとう、エレンヌ」


 曇りなく磨かれた大きな窓の外では、町ゆく人々が羨ましそうに店内を眺めたり、内装を指さして何かを相談し合ったりしている男女の姿が見て取れた。


「いえ。私は特に何もしておりませんので……」


「でもすごい倍率だったのじゃないかしら? あなたの日頃の行いが良いからね」


 真面目でてきぱきと仕事をこなす傍ら、私の話し相手にもなってくれたり、叔母たちと私の緩衝役として間に入ってくれたりもしていた。


 小さい頃から頼れる姉のような存在であり、よき友人だと思っている。


 離宮でも仕事の呑み込みが早く、他の侍女たちともすぐに打ち解けられていたのは天性の才能だろう。


「それにしても……」

 もっとじろじろと見られたり、陰口を言われたりするのを覚悟していたが、客の誰もが私には無関心だ。


 噂って、こんなに早く消えるものなの?


 それなら、あんなに落ち込むこともなかったかもしれない。


 なんだか拍子抜けだ。


「あ、来ましたよ」

 エレンヌに言われてハッと我に返ると、店員がパンケーキのセットを運んでくるところだった。


「なんて甘い匂い……! それに、かわいい」


 真っ白な皿の上に載っているのは、粉雪みたいな砂糖が振りかけられた厚みのある丸いパンケーキが三枚ほど。そのそばにとろとろの生クリームと、カットされた果物が添えてあった。


「こちらに別に添えてあるのが白薔薇の蜂蜜です。それと、こちらは同じ品種の薔薇のジャムです。お好みでどうぞ」

 店員が説明してくれた先に、小瓶に入った澄んだ琥珀色の蜂蜜があった。


 その隣には鮮やかな深紅のジャム。どちらもきらきらと輝いている。


「ありがとうございます!」

 礼を言ってカトラリーに手を伸ばそうとした私に、店員がそっと身をかがめてきた。


「ここに腰かけた方にしかお教えていないのですが、こちら宰相閣下がいらした時にお掛けになったお席なのです。いつでもご案内できるわけではないので、内緒にしていてくださいね」


 店員は軽くウインクして、何もなかったように持ち場に戻っていった。


「なんのお話だったのですか?」

 エレンヌが首をかしげる。


「……私、今日死ぬのかも」


「はあぁ?」

 真面目な顔をして答えれば、エレンヌは怪訝そうな表情になって眉を寄せた。


 運がいいのは私だったのかしら?


 十年溜め込んだ運を、今になって解放しているのかもしれない。


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