☆閑話休題~仕事人間~
執務室の机には、各省から上がってきた承認待ちの書類の山が積んであった。それに目を通し、承認印を押すか却下するか、あるいは国王と相談するかを決めるのがルドヴィクの主な仕事だった。
特に今は社交の開かれた季節になり、タウンハウスに滞在する貴族が増えているので、各領地に関する相談事や報告がここぞとばかりに送られてきていた。謁見を求める者も多く、重要な問題には国王への目通りが叶うが、そこにもルドヴィクは同席することになる。食事や休憩もそこそこに、日々を忙殺されていた。
「添付書類が一枚足りない。戻してきてくれ」
ルドヴィクは執務机に着いたまま、隣にいた秘書に書類の束を渡した。
「あら、本当ですね。見落としておりました。申し訳ありません」
茶褐色の長い髪を一つにくくった女性秘書は、ぺらぺらとそれをめくって手を止めた。
「今日中に提出するように伝えるのも忘れずに」
「かしこまりました」
彼女は一礼して部屋を出ていく。
ルドヴィクは次の書類に素早く目を通して、承認印を押し、受理と書かれたスペースに移した。それから眼鏡のフレームを押さえて、軽く息をつく。
無駄のない淡々としたその作業を見ながら、部下の一人が隣の同僚に耳打ちする。
「最近、よく考え込んでいるな、閣下は」
「難しい案件でもあるんじゃないのか?」
「グエナエル殿下の婚約破棄でごたごたしているからとか」
「でも一応新しい婚約者殿は承認されたわけだろう?」
「そういえばステラ様は伯爵家を除名処分されたんだっけ。どうして離宮に留め置かれているんだ?」
「何かやらかしたとか?」
内緒話は少しずつ雑談に変わっていく。
本当に人は噂話が好きだなと、ルドヴィクは彼らの会話を耳にして、顔をしかめた。
(やらかしたのは、私の方だよ)
はあ、と思わずついたため息が思ったよりも大きく、咎められたと思った部下たちがぎくりとして、慌てて手元の書類に目を落とす。
(思春期の男子でもあるまいし)
やっと本懐を遂げられる機会ができたというのに、ステラの気持ちも考えずに勢いでその身に触れるなど、紳士としてあるまじき行為だった。
いやしかし、抑えるなと言うのが無理な話である。
エメラルドの可憐な瞳を潤ませ、零れる涙をこらえるように雪のような肌がかすかに色づいていた横顔。ブラウンよりほんのり柔らかな透明感のある優しい髪色がとても儚げで、誰にも渡したくないと思った。
子供扱いしないでと怒った顔でさえ、女神のように綺麗なのだから。
抱き寄せた時に香った甘い匂いに酔いしれて、あのまま奪ってしまいたかった。
揺れるエメラルドに映る自分の顔に気づき、わずかに残っていた理性で欲望を奥底に押さえつけることができた。
馬車の中での行為を思い返して、あれから数日経った今もルドヴィクは罪悪感に苛まされていた。
(婚約破棄など立て続けに心が参る出来事が続いて、傷ついているステラの弱みにつけ込んで、最低な男だ)
十年もあのグエナエルのそばにいたくらいだ、その想いは相当深いのだろう。
自分との婚約を迷っているのも、彼のことが忘れられないからと思えば合点がいく。
(どうしたら、この手に落ちてきてくれる?)
もう月の半分は過ぎた。ステラには会いに行っているが、なんだかあの一件以来警戒されているような気がして、あまりしつこくするのもよくないのかと思ってしまう。
考えながらも、次々と書類をさばいていると、秘書が戻ってきた。
「早かったな」
彼女が紙の束を手にしているのを見て、そう声をかけると秘書はにんまりと笑った。
「これは違いますよ。今日発行されたばかりの白薔薇隊報です」
秘書がくすっと笑う。
「今月も出ているんですか。閣下、愛されていますねえ」
部下が茶化すように言って、秘書から隊報を受け取り、頭を突き合わせて紙面に目を走らせた。
「ご婦人方、ご令嬢方は、今度の舞踏会で閣下のお姿を拝見できることを楽しみにしているらしいですよ」
顔を上げた部下が笑いかけてきた。
「好きにすればいい」
自分の意志とは関係なく結成された会らしいが、自分や他人に迷惑が掛からなければ勝手にしてくれと思っている。
(四十男のどこがいいのかまったくわからないが……)
興味がないので、ルドヴィクは仕事を続ける。
「は~、クールですねえ。そういう所ですよ、閣下」
部下たちが同意の笑みをこぼすのを無視して、書類の山を減らしていった。
ルドヴィクのファンで結成されたという王弟親衛隊の情報紙『白薔薇隊報』には、紙面の最後に隊員名簿が載っていた。以前、ひそかに目を通したことがあるが、そこにステラの名前はなかった。
もしかしたら彼女も自分に好意をもっているのではと期待していたこともあったが、他に婚約者がいる令嬢でもミーハーなのりで隊員になる者もいる中、彼女は見向きもしていないようだ。
しっかりしていると感心する一方で、がっかりしている自分もいて、複雑だった。
「わ……今月も閣下のデッサン画が載っていますよ。いつ見ても上手」
「あれ? 眼鏡をかけている絵って、初めてじゃないか?」
「本当だ。閣下が眼鏡をかけるのは仕事中だけなのに」
「これ、匿名の投稿ですよね……?」
秘書や部下たちが互いに顔を見合わせ、慌てて首を横に振る。
「お前じゃないのか?」
「実は秘書官どのでは?」
「私じゃないですよ。眼鏡をかけていてほしいっていう願望とか想像なんじゃないですか?」
「たしかにこれ、気合いが入っているよな。今月のは売り上げもすごそうだ」
自分の顔が描かれた絵が売られるというのは権利的にどうなのかと疑問に思ったが、その売り上げが全額福祉に充てられていると聞いて、御咎めなしと決めた。
親衛隊を結成したフランソワ侯爵夫人に聞いてみたこともあるが、その正体は不明とのことだった。
奉仕活動に勤しむステラとは気が合うのではと思ったが、誰なのかわからなければ紹介もできない。
(正体といえば――)
ステラを傷つけたあの号外は、婚約破棄の翌朝には配られていたらしい。
(公式発表は昼だったはず)
王宮内でそれを知った誰かが、新聞屋に情報提供をしたのだとしか考えられない。それもステラを貶めるような内容で、だ。
噂を気にするなと彼女には話したが、意図的に流された嘘は誰であろうと許されない。
「少し、席を外す」
そう言ってルドヴィクは立ち上がった。
「現時点で届いた報告書には目を通した。あとは各省で処理するように言っておいてくれ」
ルドヴィクは手短に指示すると、颯爽と部屋を出ていった。
「はぇ~。相変わらず仕事人間だなぁ」
部下の一人がぽかんと口を開けて、閉じた扉を見つめた。
「きっと頭の中はいつも仕事のことでいっぱいなんだろうな」
「俺も閣下みたいにバリバリ仕事をこなせるようになりたいぜ」
「まずは、誤字を直しましょうね」
秘書は、彼の書面を指さした。
「え? ああ、本当だ。間違ってる」
執務室にどっと明るい笑い声が響いた。
「……それにしても、上手よね。憧れている感じが伝わってくるもの」
秘書は、白薔薇隊報に載っているルドヴィクのデッサン画を眺め、高評価を得ている上司を誇らしく思って微笑んだ。
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