5.白薔薇基金
「少し……お時間をいただけませんか?」
私は、ルドヴィクの腕の中でなんとか声を絞り出した。
憧れの人と結婚できるのだから、夢のような話だ。ただ、ルドヴィクがどういう意図で結婚に同意してくれたのかがわからないから、手放しで喜べない。
責任?
同情?
気まぐれ……はないか。
顔を上げられずにいると、そっと頭を撫でられた。
「では舞踏会までに返事をくれればいい。いろいろなことが重なって混乱している君を、これ以上困らせることはしたくない」
そう言ってルドヴィクは腕を解いた。
「……ありがとうございます」
体を起こして座り直し、頭を下げる。
胸がきゅっと締めつけられた。
私の方はルドヴィクを困らせていないだろうか。
(本当に結婚はあなたの意思なのですか?)
わがままを言って、助けてもらって、まだまだ私は子供なのだと思い知らされる。
「ステラ。肩の力を抜くといい。もう何も我慢しなくていいのだ」
私の心を読んだかのようにルドヴィクはそう言った。
(甘えたらだめなのに、そんな優しい言葉をかけられたら……)
私は黙ったまま、小さく頷く。
「しばらく離宮で過ごしてもらうことになる。私物もそこに運ぶように指示しておくから」
馬車は王宮に着いて、私はルドヴィクに案内されて離宮に向かった。薔薇園のさらに奥にあるそこは、本来は賓客をもてなすための施設だ。
矢車菊やスミレの花に彩られた小道を進むと、三階建ての小奇麗な白壁の建物があった。こじんまりとしているが、品があって静謐な場所だ。
「何かあれば侍女に言ってくれ。君が嫌でなければ私もこちらに足を運ぶようにする」
すでに中にはお仕着せに身を包んだ侍女が三名ほどと、護衛が二人待っていた。
「嫌だなんて……そんなことありません。本当にありがとうございます。ルドヴィク殿下がいらしてくださらなかったら、今頃どうなっていたことか……」
身一つで放り出され、路頭に迷っていたかもしれない。
私は改めて頭を深く下げた。
「護衛をつければ、自由に外に出てもかまわない」
「……であれば、孤児院への慰問もこれまでと変わらずに続けてもいいでしょうか。次に行く時は新しい本を読んであげる約束をしていたので。もちろん、新しく王太子妃になられる方に引き継がれるのでしたら、遠慮させていただきますが」
「奉仕活動に制限はない。君がしたいと思うなら行くといい」
「ありがとうございます!」
私はホッとして笑みを浮かべた。
「では、私は仕事に戻る。ゆっくり休んでくれ」
離宮を出ていくルドヴィクの後ろ姿は凛としていて、陽光が眩しく降り注いでいる。石畳を踏み鳴らす硬質で規則正しい靴音が、耳に心地よかった。
(はあ……素敵)
遠くから眺めている分にはこうしてニマニマとできるが、そばでそんなだらしない顔は見せられない。
頬を軽く叩いてから私は侍女の案内のもと、居室へ移動した。
部屋の内装はシンプルながらも洗練されたもので、植物の葉のような曲線を多用し、優美さと繊細さが特徴的だ。
色合いも優しく、カーテンやソファのカバーは小花柄で統一されている。
「お茶をお持ちいたしました」
侍女の一人がワゴンを押してやってきて、ローテーブルの上に紅茶と菓子を用意して一礼して退室していった。
ほろほろと口の中でほどけるクッキーを摘まみながら、ぼんやりと過ごす。
「なんだか信じられない……」
開けた窓から柔らかい風が入ってきて、ミルクティー色の髪を揺らした。
「きっと何か理由があるんだわ」
王太子に婚約破棄され、悪い噂を立てられ、実家からも捨てられて平民になってしまった娘と結婚するメリットって何?
いくら考えてもこれといったものが思い浮かばない。
考察を諦めた私は昼食を済ませ、午後になるとボードリエ家からの使いが荷物を運んできたという連絡を受けた。
「ステラお嬢様!」
そう呼びながら部屋に入ってきた顔を見て、私は目を丸くした。
「エレンヌ!? 荷物を運んできてくれたの? ありがとう」
「はい。ですが旦那様や奥様がドレスやアクセサリーは売ればお金になるからと……一番新しいものまで取られてしまって、持ってこられた物はあまりないのです、申し訳ありません」
エレンヌは悔しそうに唇を引き結ぶ。
一番新しいドレスというのは、今度の舞踏会で着るはずだったものだ。そんなものに未練はないので痛くもかゆくもない。
「ですが、例の物はこっそりと持ち出すことに成功しました」
肩にかけた鞄を軽く掲げてみせ、彼女はにこりと表情を崩した。
「あっ、あれを持ってきてくれたの? 実はちょっと心配だったのよ」
私はホッと胸を撫でおろし、彼女から鞄を受け取る。
中を覗くと、そこには画材と紙の束が入っていた。
「はい。内緒で一枚残らず持ってこられたと思います。お嬢様の力作ですからね」
エレンヌは自分のことのように胸を張って、小鼻を膨らませた。
「力作だなんて……恥ずかしいわ」
紙の束の多くが、鉛筆で書かれた人物のデッサンだった。
言わずもがな憧れの宰相様――ルドヴィクの顔である。
「お嬢様の絵がないと、王弟親衛隊の皆様もがっかりなさるでしょうからね」
毎月、親衛隊の情報紙――白薔薇隊報なるものが発行されているのだが、そこに隊員のメッセージなどが載るコーナーがある。
私は密かに、そこにルドヴィクを描いたものを投稿していた。もちろん隊員ではないので、匿名でだ。このことを知っているのはハウスメイドのエレンヌだけだ。
熱狂的なファンには拒絶されるかと思ったが、案外好評なようで、そのうちこの絵を複製して希望者に配りたいので、許可を得たい旨が隊報を通じて問いかけられた。
どちらかというとルドヴィク本人に確認した方がいいのではと思ったが、私は一つの提案をした。『白薔薇基金』というものを作って、絵の売り上げの全てを福祉に使用するならばよい、と。それなら彼も怒らないだろうと思ったのだ。
その提案は快く受け入れられ、宰相閣下の絵を自宅で拝みながら、同時に奉仕活動にも貢献できるとあって、人気を博した。
直接お礼を述べたいので身分を明かしてもらえないかと、親衛隊隊長であるフランソワ侯爵夫人の投稿が先月載っていたが、これには申し訳ないがスルーだ。
「ところでお嬢様は、いつ頃までこちらに滞在なさるご予定ですか?」
エレンヌは窺うように目線を上目遣いにする。
「どうして?」
私はきょとんとして首をかしげた。
「実は……私、お屋敷をやめてまいったのです」
「ええっ? どうして? 叔母様に何か言われたの?」
私のせいで使用人が解雇されたら、なんと詫びればいいのかわからない。
「そうではないのですが、お嬢様お一人で行かせるわけにはいきませんので、自分から申し出ました。私、どこまでもご一緒いたしますので、ご安心なさってください!」
どんと胸を大きく叩いて、エレンヌは誇らしそうに目を輝かせた。
「あ……それが、どうなるかわからないの……」
目を逸らしながら、言葉を濁す。
「どういうことです?」
ぱちぱちと瞬きをしながら、彼女は不思議そうな声を上げた。
「ルドヴィク殿下と結婚するかもしれなくて」
口にしてから冗談にしか聞こえないなと思って、ははっと軽く笑ってみせる。
「は? え? ええええぇー!?」
離宮のそばの木立に留まっていた小鳥が、エレンヌの素っ頓狂な悲鳴に驚いて慌てて羽ばたいていった。
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