☆閑話休題~前日譚~
机の上に一枚の紙が置いてあった。
『婚約破棄についての同意書』と書かれたそれには、グエナエル・バロー・ラフォルカとサインが入っている。その隣は空欄のままだ。
「ラフォルカ家は愚息の代で終わりかもしれぬ……」
両肘を机につき、その手で頭を抱えている壮年の男性――現ルニーネ国王は深いため息をついた。
「結婚式の前には急に不安に襲われたり、気が沈んだりすることもあるけれど、それは一時的なもの、と説いたのですが……」
頬に手を当てて、同じようにため息をついたのはななめ隣の席についている王妃だ。
「それで、なぜそれをつき返さなかったのですか、兄上?」
机を挟んで国王の正面に腰かけていたルドヴィクは、サファイヤの双眸を細め、非難めいた声を上げた。
ここは国王の私室の中の一つで、出入り口以外の壁は本棚になっており、びっしりと国の歴史に関する文書や資料で埋められている。
窓のない狭い部屋は密談をするのにうってつけだった。すでに人払いは済ませてある。
「家柄重視の結婚観など古臭いと主張してきてな。それが派閥を生む原因になる、心から愛する者と結ばれた方がよほど公平でいいと。それも一理あるかと思わされて――」
「今更ですか? ステラはどうなります? 彼女は十年間、領地を離れ、王太子妃になるために教育を受けてきました。その努力を無下にするのですか?」
年の離れた弟に矢継早に責められ、国王は顔の前に両手をかざして、やや後ろに仰け反った。
「ステラにも、大事な姪を預けてくれたボードリエ伯爵にも申し訳ないと思っている」
齢五十になる国王は、結婚当時なかなか子宝に恵まれなかった。ようやく三十を少し過ぎて設けた第一子がグエナエルだった。
王妃は体が弱く、二人目の出産には命の危険があると主治医に言われ、国王に側妃を娶る意思がなかったことから彼が唯一の子となった。
そのため、少々のわがままは大目に見られ、突飛な行動や考えは個性的で良いと肯定的に捉えられてきた。
ステラを婚約者にしたいと言った時も、小さい時から将来を見据えていてえらいと褒めそやした。今思えばいわゆる「親バカ」だった。
ところが、十五を過ぎた辺りから家庭教師に強く反抗しはじめ、勉強をさぼるようになった。真面目なステラと一緒になら続くかもしれないと机を並べさせたこともあったが、なめらかに答えが出てくる彼女に比べて黙り込むグエナエルは、ますます勉強が嫌になったようだった。
それでも淑やかで落ち着いたステラといれば態度も変わるのではないかと、彼女には十年間王宮に通ってもらった。
結果としては、それが余計にグエナエルの心を締めつけることになっていたのだろう。彼はこっそりと王宮を抜け出し、友人とパーティーに参加するようになっていた。そこで出会ったのがフルマンティ男爵の一人娘のカミーユだという。
「あやつはカミーユ嬢こそ運命の相手だと言ってきかぬのだ。もし婚約を破棄できないのであれば、ステラと結婚はするが、カミーユ嬢も王宮に招いて一緒に暮らすのだと言ってきた。それではステラがあまりにも気の毒だろう?」
三人は、一枚の紙を囲んで同時にため息をついた。
「どちらにしてもステラが傷つくことは明白です。まったく、彼女のどこがいけないというのか……」
ルドヴィクは眉間にしわを寄せて、紙に書かれたグエナエルのサインを睨みながら腕を組んだ。
「同年代のどの令嬢よりも可憐で奥ゆかしく、学ぶ姿勢はひたむきで努力を惜しまない。奉仕活動にも積極的に参加し、献身的な彼女の慰問を待つ孤児院もたくさんあると聞いています。結婚相手として、これ以上理想的な女性はいないというのに」
そこまで一気にしゃべってから、再びルドヴィクはため息をつく。
国王と王妃はそれを黙って聞いていたが、互いに顔を見合わせる。
「それだ――」
国王が頷いて人差し指を一本立てた。
「は?」
目線を上げたルドヴィクは、兄の瞳に光が宿っているのを確認して怪訝そうな返事をする。
「第二王位継承者、頼もしすぎる男がここにいるではないか」
「どういうことです?」
「グエナエルにはこのままカミーユ嬢と結婚してもらう。それで、ステラとおまえが結婚すればいいのだ」
国王はドヤっと胸を張ってみせた。
ステラが見たら、親子だなと感想を抱いたことだろう。
「寝言は寝てから言ってください」
ルドヴィクは目元にかかった金の前髪を軽く耳にかける。
「我がラフォルカ家が王冠を戴く前、継承権をもつ者をめぐって骨肉の争いが起こり、崩壊した王家がいたことを知っているでしょう。過ちを繰り返さない為、弟は未婚を貫くというのが通例になっているはずです」
万が一にも王弟が結婚して子が生まれたとなれば、その子にも王位継承権が与えられることになる。争うつもりがなくとも、貴族の中には自分の益になりそうな者に従うこともあり、それが派閥を作り、対立を生んでいくことになりかねない。
「だからこそ、だ。グエナエルは黙っていても次期国王になれる現状に甘んじている。そこでおまえが結婚する意志を見せれば、少しは危機感を覚えて性根を入れ替えるかもしれぬ」
「こちらの事情にステラを利用すると?」
「彼女を巻き込みたくないというのであれば、別な縁談を用意するまで。おまえにも、ステラにも」
「……」
ルドヴィクの眉間のしわが深くなる。
長い沈黙ののち、彼は真っ直ぐに兄の顔を見返した。
「わかりました。ステラに提案はしてみますが、あまり期待しないでくださいね。倍以上も年の離れた男からの求婚など、気持ち悪いだけでしょうから」
ルドヴィクはそう言って席を立ち、部屋を出た。
数歩進んだところで立ち止まる。周囲には誰の姿もない。
「ステラと結婚……?」
左手で口元を覆い、緩みそうになる頬を押さえる。
(おそらく二人には気取られていないはず……)
初めてステラに会ったのは彼女が八歳の時だ。グエナエルの婚約者として王宮に通うようになり、厳しい家庭教師のレッスンを受けていた。周囲の人間は、ステラが優秀でなんでもそつなくこなせると話していたが、彼女が度々薔薇の庭園の隅で隠れて泣いていたことをルドヴィクは知っていた。
生まれ故郷から引き離され、受けるレッスンは完璧にこなせるようになるまで扱かれる。
話を聞くか、慰めてやることくらいしかできなかったが、最後に見せる笑顔は公務で忙しい彼の癒しになった。
成長するにつれてステラが涙を見せることはなくなったが、かわりに時々見せる儚いなげな佇まいは、包み込んで守ってあげたくなるような憐憫さをまとっていた。
ここ二、三年で、あどけない表情から憂いを帯びた艶のある表情に変わっていく様子は明白で、会話をする機会は減ったが、彼女を見かける度に目で追うようになっていた。
せめてもっと自分が若かったなら。
ステラにあんな悲しい表情はさせないのに。
胸に覚えた切ない痛みから目を逸らして、彼女の幸せを見守ることを決めた。
それなのに――
降って湧いた幸運をつかまない手はない。
「どう……切り出すべきか」
再び、ルドヴィクは深紅の絨毯の上を歩き出した。
――一方、私室に残った国王と王妃は閉じられた扉をじっと見つめている。
「嬉しそうでしたわね」
「ああ。おまえも気づいたか?」
国王は目元に皺を刻んで明るい声色を上げた。
「わかりますよ。ルドヴィク殿下のお耳、真っ赤でしたもの」
王妃はくすりと笑った。
「ステラがルドヴィクとの結婚を了承してくれるといいが……」
「そうですね。殿下にはお慕いする女性陣の団体ができているくらいですもの。実はステラもそのうちの一人かもしれませんよ」
いくつになっても女の感は侮れないものである。
「それにしても……私がせめてもう一人子を産めれば、陛下を悩ませることもなかったでしょうに。本当に申し訳ありませんわ」
眉尻を下げ、王妃はぎゅっと腹の辺りを押さえた。
「お前の責任ではない」
国王はハッとしたように目を見開き、席を立つと王妃の肩を抱いた。
「きっと、うまくいく」
「はい。そう願います」
国王の手に自身の手を重ねた王妃は、穏やかに目を細めた。
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