4.殺し文句は二回まで
そこで私は化粧をまったくしてこなかったことに気づいて、顔を逸らした。
「どうして私の方を見てくれないのだね?」
「申し訳ありません。本日はお化粧を忘れてしまって、人前に晒せるような立派な顔ではございませんので……」
こんなことなら叔母たちを待たせてでも、せめて白粉だけでもはたいてくるんだった。
「素顔でも十分綺麗だと思うが」
なんという殺し文句。
さらりとそんなことを言って、乙女の息の根を止めるおつもりですか!
私は目を閉じて肩を震わせながら幸せを嚙みしめる。たとえ社交辞令だとしても迷いなく褒め言葉が出てくるスマートさは、大人の余裕とでもいうのだろうか。
「ありがとうございます。でも、その、恥ずかしいので見ないでください……」
「では、こうしよう」
ルドヴィクは席を立って、私の隣に腰かけた。
少し間隔は空いているものの、距離はさきほど近くなったわけで、ますます心臓がうるさく鳴り出す。
「こうすれば顔を見ずに話ができる。だからそっぽを向かないでほしい」
気遣うような柔らかな物言いに、私は小さく頷いて静かに前に向き直り、俯いた。
(たしかに殿下とお話するのに顔を逸らすのは、無礼な振る舞いよね。それを怒りもせず、私が姿勢を戻しやすいように取り計らってくれるなんて、控えめに言っても神対応――)
どうしてこんなお手本になる人がそばにいたのに、グエナエルにはまったく響かなかったのだろう。
彼のことを思い出すと、ため息しか出てこない。
「ステラ。それで、昨日の話だが」
「はい」
私は下を向いたまま、居住まいを正した。
「一か月後に開かれる舞踏会で、君を婚約者として発表したい。挙式の日程は後日ボードリエ伯爵とも相談して決めたい――そう言っていたのだが覚えているか?」
一か月後の舞踏会。
本来であれば、グエナエルと私の結婚の前祝いのようなパーティーをする予定だった。ドレスも一式用意して準備は万端だった。一枚の紙きれで台無しになってしまったけれど。
「申し訳ありません。まったく記憶になくて……」
手の甲にキスをされて浮かれていたのか、夢見心地だったのか、気がついたら屋敷に帰宅していた次第だ。
「やはり、か。何を聞いても頷くばかりだったから、もう一度王宮へ来て話をしたいと言ったのに、姿が見えなかったので直接迎えに来たのだ。困らせてしまうかと心配だったが、屋敷に行って正解だった」
ルドヴィクが小さくため息をついた。
「ボードリエ伯爵が君の叔父だというのは知っていたが、あのような心ない人物だったとは。先代の――君の父は素晴らしい人格者だったというのに」
「父のことをご存じなのですか?」
私は驚いて顔を上げてから、すっぴんに気づき慌ててまた俯く。
「ああ。年も近かったし、若き領主として真摯に務めを果たす姿に尊敬の念を抱いたものだ」
父とルドヴィクに縁があったとは初耳だ。
「……ありがとうございます。優しい人だったのは覚えていますが、そんな風におっしゃってくださる方がいて嬉しいです」
両親が亡くなってから居城にやってきた叔父は、父の領地経営について文句ばかり言っていた。税が温いとか領民に甘いとか、もっと領主として威厳を保つべきだと言って居城の内装は豪奢なものに替え、食事の内容もがらりと贅沢なものしか出ないようになった。
残すのは当たり前で、もったいないと私が抗議すれば一人で全部食べろと吐くまで食べさせたり、できなければお仕置きだと言って城の外に放り出されたりもした。
自由だった生活は窮屈になり、口から出る言葉は相手の機嫌の窺うものに変わっていった。代わりに心の中では思ったことを語り散らす癖がついてしまった。それでバランスをとるしかなかったのだ。
「ステラが賢明で努力家なのは父親譲りなのだろうな」
「わ、私は、そんなに褒められるような人間ではありません」
妃教育を頑張ってこられたのは、王宮に上がればルドヴィクに会えるから。
八歳の時に出会ったあの日、ルドヴィクに恋をした。年齢が離れすぎているし、向こうから恋愛対象として見てもらえないことは、幼いながらに自覚していた。だから姿が見られるだけでよかったし、勉強でくじけそうになった時に励ましの声をかけてくれただけで、メンタルリセットされる特効薬的存在だった。
グエナエルは気分屋かつ勉強嫌いなところがあり、どう接すればいいのか悩まされ続けた。叔父の教えに従って「いい子」に振る舞っても邪険に扱われるので、勉強よりも大変だったのは彼への対応だったかもしれない。
十年も彼の婚約者であり続けたのは、ひとえにその顔が魅力的だったからである。グエナエルのことは好きにはなれなかったが、唯一いい点を挙げるとすればルドヴィクに似ているその顔だ。
成長すれば、いずれは憧れの人とそっくりな見た目になるのではないか。その期待を込めてそばにいたのだが、ちっとも理想は近くならなかった。
なぜならルドヴィクも年を重ねるにつれて魅力を増していったから。若さだけではない大人の包容力とでもいうのだろうか。
常に不機嫌そうな落ち着きのないグエナエルに会うたびに、その差は歴然と広がっていった。
(つまり、ルドヴィク殿下のおそばにいたくて頑張っていただけなので、褒められたことではないのです――)
そんなことは口が裂けても言えないが。
「ですが! 結婚というのは、話が飛躍し過ぎでは……」
「……娶ってくれと先に言ったのは君だろう?」
言いましたとも、やけくそ気味に。本音をぶちまけましたとも。
ただ、ルドヴィクが了承するとは思っていなかった。
王弟親衛隊の隊員はみんなルドヴィクと結婚したいという意味を込めて、入隊時にもらえる指輪を左手の薬指につけている。叔母のような既婚者も結婚指輪に重ねづけしているくらいだ。伴侶がその事実に気づいているのかはいざ知らず。
そんな指輪のない私は言葉にするしかないと思って、勢い任せに口から滑りでたまで。
「言いましたけど……でも、私のような若輩者がルドヴィク殿下の、つ、つ……妻だなんて畏れ多すぎて……」
そう言いながらも「妻」という単語に、一瞬だけ彼の隣に立つ自分を想像してしまって、思わず赤面する。
妄想するのだけは得意なのだ。
「ステラ。君が望むなら良家の縁談を進めることもできる。だが、これだけは言っておく」
ルドヴィクがそう言った時、馬車が小石に乗り上げて車体が揺れた。
傾斜した勢いで彼の方に倒れた体をふわりと抱き留められる。
「君を幸せにできるのは、私だけだ――」
胸の中に閉じ込められて、蜂蜜みたいにキラキラで極甘の言葉を振りかけられた私の耳は、一瞬で蕩けた。
これ以上は本当に悶絶死するのでやめてください――!
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