2.捨てられた令嬢

「申し訳ありません」

 私は叔母から目を逸らし、ゆっくりと体を起こす。


「もう昼前よ。それより、とんでもないことをしてくれたわね、あなたは」

 ぎらりと目が光ったような気がして、心臓が縮こまる。


 私は掛布をぎゅっと握りしめた。


「話があるの。さっさと着替えて下りてきなさい」

 ドレスの裾を翻し、叔母は私の部屋を出ていった。


 入れかわるようにハウスメイドのエレンヌが頭を下げながら、木桶を載せたワゴンを押してやってきた。


「ステラお嬢様。申し訳ありませんでした。一度起こしに参ったのですが、ぐっすりお休みになっておられたので……昨日のこともありましたし、そっとしておいた方がいいのではという意見に我々の中でまとまって……」


 しゅんとうなだれた彼女は、すでに叔母からお叱りの言葉を投げられたのだろう。泣いた後のように瞳が充血している。


「私のせいね、ごめんなさい」

 ため息をつき、エレンヌが絞ってくれた温かいタオルで顔を拭く。


 昨日のルドヴィクとのやりとりが、私には刺激が強すぎてなかなか寝つけなかったのだ。


 もっと話したいこともあったのに、頭の中が真っ白になってしまって、その後の会話は覚えていない。


(なにか言われた気がするんだけど……)

 肝心な内容が思い出せない。やはりあれは白昼夢だったのだろうか。


「そんなことはありません。もともと訪問の予定はありませんでしたし」


 エレンヌの声でハッと我に返る。


 叔父夫婦は、社交の季節になるとここで過ごすこともあるが、その場合は事前に連絡があった。だが、稀に気まぐれで王都へ来る時もあり、今回は後者なのだろう。


(どうして私の周りには自分勝手な人しかいないのかしら)

 はあ。昨日から何度ため息をついたことか。


「婚約破棄されたからといって、だらけた生活をするなと神様が窘めてくれたのかも。なんて言っている間にも、叔母さまをお待たせしているわね。支度を手伝ってくれる?」

 気を取り直して、私は大きく伸びをしてから立ち上がった。


「はいっ」

 エレンヌは明るい表情になり、大きく頷く。


 クローゼットから薄桃色のデイドレスを取り出し、大急ぎで着替えた。


 ドレッサーの前に移動し、彼女に手早く髪を梳かしてもらう。紅茶にミルクを落としたような優しい色の髪は、耳の上の部分は編み込んで綺麗にまとめられ、緩やかに波打つ長い髪の部分は胸の前に垂らされた。


「お化粧はどうなさいますか?」


「このままでいいわ。別に婚約者に会うわけじゃないし」

 鏡の中の私は苦笑いを浮かべた。


 同じようにここに座っていた昨日、久しぶりに殿下から会いたいなんてデートのお誘いかもしれませんよ、などとエレンヌと笑いながら話していたのが遠い昔のことのようだ。


 昨日に戻れるのなら、ぽんぽんと肩を叩いて、無言で首を横に振ってやりたい。


「さて。遅かれ早かれ説明しなければいけないことだものね」

 私は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出すと一階の客間に向かった。


「グエナエル王太子殿下に婚約破棄されたというのは本当なのか?」


 客間にはすでに叔父夫婦がソファに座っており、しかめっ面の叔父は腕を組んでこちらを睨みつけている。父の弟ということだが、顔立ちはあまり似ていない気がする。


「お知らせの手紙を送ろうかと思っていたのですが、その必要はなかったようですね」

 向かいのソファに座った私は、微笑して答えた。


「もしかして本日こちらにいらしたのは、すでにご連絡があったからですか?」

 であればグエナエルは、婚約破棄の承諾書にサインしてもらうのを前提に先触れを出していた鬼畜ということになるが。


「そろそろ新しいドレス一式を作らせようと思ってこちらへ来たのよ。店の方が生地の見本も多いでしょう? それで来てみたら」

 叔母は一枚の紙をテーブルの上にすっと出してみせた。


 一度ぐしゃぐしゃに丸めたのだろう、皺だらけの紙はどうやら新聞の号外のようだ。


 大きな見出しで「グエナエル王太子殿下とステラ嬢の婚約破棄が決定」と書かれていた。


 「まさに青天の霹靂」と、センセーショナルな書き出しで始まっている記事は、二人が十年前に婚約したことや、今まで参加した主要なパーティーのことが書かれている。


「だが、近年ステラ嬢はグエナエル王太子殿下をないがしろにし、家に引き籠っている日が増えてきたようである。気持ちが離れたとも、考えたくはないが目移りした可能性もあるのではないか……?」


 はあ?


 紙を掴む手がぶるぶると震えだす。


 ないがしろにしていたのは、どちらかというとグエナエルの方だ。


 毎週のティータイムが少しずつ月に一度に減り、今では三か月に一度、それも短時間だけ。公務が忙しいからという理由で会話もそこそこに離席される始末。仕方がないから家で大人しく勉強していただけだ。


「……今回の事態を受け、ステラ嬢には失望したとの街の声が多く聞かれた。おそらくもう彼女に幸せな未来はないと思った方がいいだろう」


 こっちが失望したいくらいだ。


(なんなの、この飛ばし記事は!)

 勢い余って両腕を左右に開くと、しわくちゃだった号外はあっさりと真っ二つに破れた。


「今からでもいいから、グエナエル王太子殿下に謝ってきなさい!」

 叔母はヒステリックな声を上げて目を吊り上げる。


「む、無理です……もう書類にサインしましたし」


「いったい何のためにお前を引き取って育ててやったと思っている! 殿下に婚約破棄されるとは、ボードリエ家の名に泥を塗ったようなものだ。この恥知らずめ」

 叔父はそう言うが、一緒に領地で過ごしたのはたった一年だけだ。


 それに、愛情をかけてもらったとは少しも思っていない。少々お転婆だった私を煙たそうに扱い、女らしくしろだの、男には従順でいろだの、口酸っぱく教えられた。


 何か悪いことがあれば、すべて私のせいにされた。


 両親が亡くなったのも私がお土産をねだったから。それを探すために少し遠回りした所で、土砂崩れに巻き込まれたのだと言われた時は、ひどく堪えた。


 成長した今では、それがただ不運だったとわかるのだが、悪いことがあると自分のせいなのではないかと最初に考えてしまう癖がついてしまった。


 グエナエルとの婚約が決まり、生まれ育った家を離れたのは悲しかったが、この叔父夫妻の顔を見ないで済むという観点からすればよかったとも言える。


「あなたに非があるのだから、土下座してでも撤回してもらいなさい!」


 語気の強い叔母の声を聞くと、身がすくむ。


(私は悪くない――)

 そう言いたいのに、この人たちを前にすると言葉が喉に張りついたみたいに苦しくなる。


 逆らえば、折檻される――


 幼い頃の痛い記憶がよみがえる。


「で、できないんです。グエナエル王太子殿下には、すでに恋人が……」


「本当に使えない娘だ。兄もどこかぼさっと抜けた男だったが、そのままだな」

 叔父はふんと鼻を鳴らす。


 私はぐっと唇を引き結ぶ。震える右手を左手で押さえつけ、二人を見つめ返す。それが精一杯だった。


「殿下の婚約者ではないおまえには何の価値もない。ボードリエ伯爵家から除名する」


「除名……?」

 伯爵家から籍を抜かれれば、ただの平民ということになる。


「そうね、そうしましょう」

 叔母はにんまりと弧を描いて笑みを浮かべた。


「あなたは今日から赤の他人よ。さっさとこの屋敷から出ていきなさい」


「いきなり、そんなことを言われましても……」

 今日の今日はさすがに無茶だ。


 膝の上で握り拳を作っている私のそばに、立ち上がった叔母がやってきて腕を引っ張り上げた。


「さあ! 出ていくのよ、役立たず!」


「は、離してくださいっ」

 抵抗しようとするが、そこに叔父も加わって二人掛かりで客間から引きずり出される。


 廊下に出ると、使用人が数人心配そうに集まっていた。


「ステラお嬢様!」

 エレンヌが悲痛な声を上げて近寄ってこようとするのを、叔母が一睨みして立ち止まらせる。


「何を見ている! 口出しは無用だ。仕事に戻れ!」

 叔父がこめかみに血管を浮き上がらせ怒鳴ると、執事が何か言いかけて黙り込んだ。


「さよなら、ステラ。もう二度と私たちの前に顔を見せないで」


「叔父様、叔母様……!」

 玄関の扉に突き飛ばされ、肩を強く打ちつける。


「私は――」

 何も悪くないのに。


 振り返って反論したかったのに、それより先に玄関のドアノブを掴まれ、外に向かって勢いよく放り出された。


「言い訳など聞きたくないわ!」


 玄関のポーチは階段になっている。後ろ向きのまま段差で踵を滑らせた私は、視界がガクッと揺れるのを感じた。


 ――頭から転んじゃう。


 心臓が凍りつくかと思った。


 だが、それがドキンと大きく跳ねたのは、私の体を抱き留めてくれた人がいたから。


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