1.夢か現か幻か

 真黒な雲から大粒の雨が地面にたたきつけるように降りしきり、一寸先も見えない状態だった。


 ひっきりなしに光る空、耳をつんざくような雷鳴。


 歩き疲れ、なんとか辿り着いた大木の根元に、私たちは身を寄せ合って座り込んでいた。


 すすり泣く声が隣から聞こえ、私はワンピースの裾を絞りながら小さくため息をつく。


「だいじょうぶです。きっとすぐに見つけてくれますよ」

 そう励ましの言葉をかけると、金髪の男の子はぎゅっと服の袖をつかんできた。


「ステラはこわくないのか?」


「こわくないです。グエナエル様が一緒ですから」

 そんなのは嘘だった。私はまだ八歳だし、なんの力もないのだから。


 いくらここがボードリエ家の領地だとしても、帰り道もわからず、野生動物が急に襲ってくるかもしれない状況で平気でいられるわけがない。


 現に唇は真っ青になり、体は震えが止まらない。しかしながら隣にいる男の子は自分よりも二つ年上だというのに、先ほどからずっと私にしがみついて離れないし、私以上に怯えている。


(私がしっかりしないと)

 なにせ彼はこの国の王太子だ。その身に何かあったら責任をとるのは我がボードリエ伯爵家だ。きっと私も怒られてしまう。そっちの方が嫌だった。


 私の言葉に少しだけ安堵したのか、グエナエルは手を緩めた。


「服が泥だらけだ。母上にしかられる」

 情けない声を上げてグエナエルが鼻をすする。それは雷に驚いた彼が慌てて駆け出し、絡まった草につまずいて転んだためだった。


 この日、ラフォルカ王家は、休暇の一環でボードリエ伯爵領を訪れていた。その中で狩猟をすることになり、領地内の森へ来た。危ないからと止められたものの、グエナエルが一緒に行こうと誘ってくれたので、私も一緒に行けることになったのだ。


 はじめのうちは護衛の大人もそばにいてくれていたのだが、グエナエルはいたずら好きなのか、森の中を冒険しようと言いだした。こっそりとみんなの目を盗んで姿を消すのはかくれんぼみたいで楽しかったし、グエナエルが手を引いてくれたので頼もしかった。


 ところが、しばらく進んで道に迷った頃には、グエナエルは私の背後にぴったりとくっついて肩を丸くして歩いていた。そのうち雨も降ってきて今に至る、というわけだ。


「ぜんぶ、私のせいにしてください。怒られるのは慣れていますから」

 大きな木の幹に背中を預け、座り込んでいた私は眉尻を下げた。


「な、泣いていたこと、誰にも言うなよ」

 徐々に落ち着いてきたのか、グエナエルは目元をぬぐってむくれた。


「言いません」

 口は堅い方だ、と思う。私は、にこっと笑ってみせた。


「……お前、なかなか可愛げがあるな」


「へ?」


「よし。俺の家来――いや、妃にしてやる」

 グエナエルは小鼻を膨らませて、自慢げに提案した。


「うふふ。ありがとうございます」

 不安で寂しいこの状況から気を紛らわすための言葉だと思い、私は素直に礼を言った――のが、不遇の十年の始まりになるとも知らず。


 やがて雷鳴が遠ざかり、雨の勢いが弱まって葉の間から陽が射しこんできた。雫が落ちる音に混じって、人の声が聞こえ、私はハッとして立ち上がる。ずっしりと水気を含んだ服が重くてよろけた。


「殿下を呼んでいますよ!」

 ぬかるみに足を取られながらも、目を輝かせてグエナエルに笑いかければ、またすぐそばで男性の声がし、元気よく前を向いた。


「こっちです!」

 私は思い切って大きな声を上げる。


 緩くなった地面を走ってくる足音と共に、背の高い男の人が細い枝葉をかき分けて姿を現した。


「グエン!」

 王太子をそう愛称で呼んだのは、グエナエルをずっと大人に成長させたような見た目の青年だった。


 外套の裾や足元を泥だらけにし、頭の先からずぶ濡れになっている彼の頭上に陽の光が降り注いでいる。


(なんだっけ、メイドが読んでいた大衆紙に書いてあった、水も滴るいい男……こんな人のことを言うのかしら?)


 輝く金色の毛先から伝い落ちた美しい雫が、整った鼻筋の脇を通って顎の末端から零れた。青い瞳は、サファイヤの純度を限界まで磨いたような透明さだ。


 ――私は、一目で心を奪われた。


「叔父上! 来るのが遅すぎます」

 少し前まで濡れ鼠のように縮こまっていたグエナエルは、すっくと立ちあがり、鼻の頭に皺を寄せた。


「グエン。それにステラ嬢も、無事でよかった」

 青年はホッとしたように歩み寄って、上着の中から乾いたケープを取り出し、私の体を包むようにかけてくれる。


 その温もりがとても嬉しかった。


「俺の方が先ではないですか?」


「震えているレディの方が優先だ。今に護衛の者たちもやってくる。歩けそうなら行こう」

 青年はグエナエルに苦笑して答えると、私の頭に優しく手を置く。


 なんと驚くべきことに、彼はパッと見ただけで私がまだ震えていたことに気づいたのだ。


「ボードリエ伯爵も心配していたよ。これからは黙っていなくなったりしないように」

 温かい声色が心に沁みて、それまで堰き止めていた涙が解けるように溢れてきた。


「ご、ごめんなさい……」

 新緑色の瞳を潤ませて私は泣きじゃくる。


「もう大丈夫」

 服が汚れるのもかまわず、グエナエルの叔父だという人は屈んで目線を合わせると、春風のように穏やかな笑みを浮かべる。


 聖人君子――本を読んで覚えたばかりの言葉が頭をよぎった。


「叔父上。そんなことより、ご報告したことがあります!」

 突然、グエナエルが泣いている私の腕をグイっと引っ張った。


「俺はステラを妃にすると決めました」


 それって、誰かが見つけてくれるまでのごっこ遊びではなかったの?


 私はぐすっと鼻をすすった。


「悪いが、ステラは私と結婚することになった」

 ひょいと軽々と抱き上げられた私は、ぎょっとして青年――ルドヴィクの顔を見る。それはよく知る今現在の彼の顔で……。


「ステラ! こっちに来い!」

 十歳の、まだかわいげのあったグエナエルが顔を真っ赤にして私を引きずり降ろそうとしている。不機嫌そうに鼻頭に皺を刻んで。


「ステラ! 起きなさい!」


 ん? 降りなさい、じゃなくて?


「ステラ!」


 キーン、と耳鳴りがした。


 バチっと目を開けると、目を吊り上げた女性が私の腕を引っ張っていた。


「……叔母、さま?」

 瞬きを数回繰り返してから、昔の夢を見ていたのだと思考が追いついてくる。途中から、なんだかおかしい展開になってしまったけれど。


 だが、叔母が目の前にいることは理解ができなかった。


 私が暮らしているのは、王都にあるボードリエ伯爵家のタウンハウスだ。管理する領地はここから馬車で七日ほどかかる緑豊かな所で、私の両親が事故で亡くなった後から叔父夫妻が継いでいる。


 普段は領地で暮らしているはずなのだが、これも夢なのだろうか。


 念のため頬をつねってみるも、まともに痛かった。


「いつもこんな時間まで寝ているの? いいご身分ですこと!」

 振り払うように手を離され、むせかえるような香水の香りが鼻をさす。


 数か月ぶりに会う叔母は、相変わらず派手な色のドレスに身を包み、大ぶりの石が輝く指輪をいくつも嵌め、重そうなダイヤモンドのネックレスをじゃらじゃらと揺らしていた。

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