捨てられ令嬢が憧れの宰相様に勢いで求婚した話でも聞く?

宮永レン

プロローグ

「ステラ。お前との婚約は今日をもって解消する」

 久しぶりに婚約者に呼び出されたので部屋を訪問したら、第一声がこれ。


 まだ着席もしていませんけど?


 かたや婚約者――グエナエル・バロー・ラフォルカは、上質な天鵞絨を張ったソファにふんぞり返って足を組んでいる。いくらこのルニーネ国を統治している王家の嫡男とはいえ、その態度はお世辞にも行儀がいいとは言えない。


「お言葉ですが、殿下……結婚式は三か月後ですよ?」

 私――ステラ・レイ・ボードリエは部屋の入り口に立ち尽くしたまま、努めて冷静に微笑を浮かべて返答した。


 するとグエナエルは、わざとらしく大きなため息をつく。


「結婚証明書にサインした後では、面倒な手続きが増える。だからその前に呼んでやったのに、そんなこともわからないのか」


「そういうことを聞きたいのではなく――」


「父上からの許可はもらった。あとはほら、ここにお前のサインが入れば正式な書類として認められる」

 すでにソファの前のローテーブルの上には、一枚の用紙とインク壺に立てられた羽根ペンがご丁寧に用意されていた。


「理由を……お伺いしてもよろしいでしょうか?」

 私は震える右手を、もう片方の手でぎゅっと握り込んで尋ねた。


「俺はここにいるカミーユと人生を歩んでいくことを決めた。お前はもういらない」


 実のところ、入室した時からずっと気になっていた。王太子の隣にぴったりとくっつき、お互いの小指を絡めて座っているご令嬢が何者なのか。


「フルマンティ男爵家の長女、カミーユ・フルマンティと申します。この度は私たちの為にわざわざお越しくださり、ありがとうございました」

 きゅるんとした曇りない瞳を私に向け、ぽってりした唇の間から零れたのは感謝の言葉だった。


(んん? そこ、お礼の言葉を言う所だった?)

 私は微笑を顔に張りつけたまま、ゆっくりと首を左に傾けた。


「殿下。曲がりなりにも我が家は伯爵家でございます。家格でいえば男爵家よりも上のはず。その方との結婚にどんな利益がおありなのです?」

 気を取り直して正論を口にすれば、グエナエルは鼻の頭に皺を寄せた。不機嫌な時によくする彼の癖だ。


「家格だの利益だの、カビの生えたような古いしきたりなどに縛られない生き方をすると、俺は決めたのだ。カミーユを愛している、理由はそれだけだ」

 ドヤっと胸を張ってみせたグエナエルの肩に、カミーユが幸せそうに頭を持たせかける。


(いったい私は、何を見せられているのかしら?)


 そこには完全に二人の世界が出来上がっていた。ぽやぽやと春の香りのする花が二人の周りに零れ落ちる幻影すら見える。


「そういうわけだから、早くサインをしろ」


 なんて自分勝手な人だろう。


 ぐっと唇をかみしめる。


 けれども、よく考えればはじめからこんな感じの人だったなと、すぐに納得してしまえる物分かりのいい自分が時々嫌いだ。


「わかりました」

 私は二人の前の椅子に浅く腰掛ける。


 羽根ペンを取り、書面に目を落とした。『婚約破棄についての同意書』と上の方に書かれており、すでにグエナエルの自筆、そして彼の父の名もあった。国王陛下が決めたのならば、それに背くことはできない。


 震えの止まらない右手で、なんとか自身の名を書き記した。


「よし。これで婚約破棄は成立だ。もう下がっていいぞ」

 野良猫を追い払うみたいに、しっしっと手を振ったグエナエルの嬉しそうな顔を見ながら、私は彼の部屋を後にした。


 扉を閉める直前、二人の甘ったるい声が聞こえたような気がしたが、勢いよくドアノブを引いてそれを遮断した。


 衛兵に睨まれたが「たてつけが悪いようですわ」と、にこりと笑って会釈をし、その場を足早に立ち去る。


「これから、どうしようかしら」

 はあ。今後のことを考えると気が重い。


 とぼとぼと一人で王宮の長い廊下を歩き出す。


 半円上の天井には天使や女神が描かれ、支える柱には金細工が施されていた。これまで幾度となく通ってきたこの通路も、今日で見納めかと思うと感慨深い。


 窓辺から見える薔薇園を見つめながら、ドラマチックな思い出でもあるかと思ったが、何一つ浮かんでこなかった。


「……涙も出ないわ」

 すん、と気持ちが冷めて鼻で息をつく。


  どうぞ愛する人とお幸せに。


「そうよ。落ち込んでいたって仕方ないわ。殿下より、もっともーっと幸せになって、私との婚約を破棄したことを後悔させてあげる!」


 正直なところ、自分勝手ですぐに不機嫌になるグエナエルのことは、好きになれなかった。だが結婚して何十年も一緒にいれば、家族としての愛が生まれるかもしれないと期待していた。そうでなければ悲しすぎる。


 唯一いい点があるとすれば――


「ステラ」

 心地のよい落ち着いた低音の声がまっすぐに届いて、私は庭園から通路の前方に向き直った。


 陽光をたっぷりと浴びた蕩ける金の髪をなびかせながら、長身の男性がこちらに向かって歩いてくる。背中に高貴な白薔薇を背負っている眩しい幻影が見え、今にも天井画の天使たちの歌声さえ降ってきそうな神々しさだ。


「ルドヴィク殿下」

 王弟であり、このルニーネ王国の宰相も務めるルドヴィク・ミシェル・ラフォルカは、グエナエルの叔父に当たる。


 齢四十とは思えない若々しい見た目に加え、聡明、実直で部下からの信頼も厚い彼が、独身ともなれば人気が出ないわけがなかった。


 もちろん、私もそのうちの一人だ。


 婚約者がいるくせにいいのかって?


 密かに王弟親衛隊なるものが貴婦人たちの間で発足しており、既婚、独身問わず入会を許されているのだから、私が心の中だけで憧れるだけなら問題ないでしょう。


「兄上から話は聞いた。私の甥が許しがたい決断をしたと」

 目の前で足を止めたルドヴィクに見惚れていると、現実を突きつけられて私は一気に気分が沈んでしまった。


「ええ、はい。本当に、私の十年を返していただきたいです」

 八歳の時にグエナエルに見初められてからこの十年、領地を離れて厳しい妃教育にも耐えてきた。


 同年代の娘たちが茶会を楽しんだり、町へ出かけて欲しいものを吟味したりしている間にも、自由を奪われ、勉強のためにタウンハウスと王宮の往復のみ。


「私に何かできることがあれば言ってくれ」

 普段は凛々しい眉のラインが、わずかに八の字に寄せられた。どんな難しい案件にも冷静に対応するという宰相が、ほんの少し困った顔をしているのだ。


(ああ、今すぐキャンバスに写し取りたい……!)

 せめて記憶の中に深く刻んでおこうと、ルドヴィクの尊い面立ちをじっと見つめる。


 グエナエルとの婚約は破棄され、もうここへ足を運ぶこともなくなるのだ。つまり憧れの人とこうして会話をするのも、今日でおわりということ。


 最後くらい好きなことを言っても、罰は当たらないわよね。


「では、王家の一員であるルドヴィク殿下が責任をもって、私を娶ってくださいませ!」

 勢い任せで出た言葉だったが、淑女の欠片もない図々しく恥知らずな発言だった。


 悪いのはグエナエルであって、ルドヴィクには塵一つも責任はない。彼にとって完全にとばっちりだ。


 当然ながらルドヴィクは、数秒間目を丸くしていた。


(ああ、どんな表情も愛しい。けれど――)

 いくら十年間王太子の婚約者だったからと言って、倍以上も年の離れた娘からの常識外れの提案は、不愉快極まりないに違いない。


 はっきりと断られる前に、冗談だとでも言って逃げよう。


「なんて、驚きまし――」


「わかった、君の望みを叶えてあげよう」

 最後まで言い終えないうちに、ルドヴィクがすぐに言葉をかぶせてきた。


 湖水に似た、澄んだ青い瞳が細められる。それから自然な動作でその場に跪いたルドヴィクは、私の手を取り、甲にそっと口づけた。


「私と結婚していただきたい、ステラ」


 頭の中で祝福のファンファーレがうるさいくらいに鳴り響く。


 ちょっと待って。夢なら醒めないで――!?



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