第20話



ロンド王国クロワ侯爵領キャメリア。アルトゥステア歴七百十八年三月十五日のことだった。


平民の女性と遅い再婚をしたクロワ侯爵は夫婦円満、子沢山の家庭を築いていたが、そのクロワ侯爵本人をはじめ侯爵一家六人が全員惨殺された。何人かの使用人も道連れになった。


死体は皆、鈍い刃物で喉を切り裂かれ苦しんで絶命していた。うち侯爵一家、とくに侯爵本人の遺体は損傷が激しく、よほどの恨みを持つ人物の犯行であろうと囁かれた。また、侯爵邸は数年前に火事に遭い新築されたばかりだったが、またもや放火され全焼。死体は個人の判別がつかないほど激しく焼け焦げていた。


別宅にて過去の怪我の療養をしていた侯爵の長女と、召使い一名が行方不明。別宅も同じく放火され焼け落ちた。


生き残った者は誰一人としていなかった。クロワ侯爵家の名は、これにて断絶することとなる。


「子供は残せと姉上なら言うだろうから、聞く前にやった。後悔はしていないよ。俺のこと嫌いになっても構わないよ」


目覚めたリュシヴィエールはそう告げるエクトルの頬を張った。


一面を飾る殺人事件の生地もおどろおどろしい、新聞が絨毯の上に散乱する。部屋の隅でアンナがぴゃっと首をすくめた。見出しが躍る、下手人は不明。下手人は不明。


――リオニール王国首都サルベンの第九区三十七番地三階奥。それがリュシヴィエールの新しい住所だった。


エクトルはここで偽名を使い、一平民の技師として大企業ラデランの兵器工場に潜入する。リュシヴィエールの役どころはその妻だ。アンナはメイド。


コンコン、とノックの音がして、平凡だが四部屋もあって十分広いアパートの一室へティレルがひょっこりと顔を出した。彼の役どころはエクトルの父親だ。いささか若すぎる気配もするが。アンナがぺこりとお辞儀をするのに片手を上げ、彼はリュシヴィエールに笑いかけた。


「起きたか。よく寝てたなあ」


あの頃とまったく変わらない平々凡々の、特徴がないことが特徴のような笑顔。作り物の。美貌を除けばエクトルがよく浮かべるそれにあまりにそっくりな。


「……寝かされていたのよ。わたくしが寝たかったのじゃ、ない」


リュシヴィエールはソファベッドの上で膝を抱えた。アンナがその背中にてきぱきとエクトルの上着をかけ、赤毛の先っぽを翻えして忙しく立ち働く。彼女は外国に来ていきいきと花開いた。


ティレルはハハハと笑い、まだ打たれた頬を撫でているエクトルにいくつかの資料を手渡した。暗号入りの本と手紙。


――彼らはここで、ロンド王国のために密偵として働く。王太子殿下の子飼い、もっとも信頼される密偵のうちの一人として。


リュシヴィエールの意思とは関係なしに、エクトルは彼女の人生を決定的に変えてしまった。シュトロカの静かな家はもうない。【暁の森】には彼女の知る三人と、知らないたくさんの人たちが眠っている。彼らの亡霊がこの国まで追いついてくることはもはやないだろう。エクトルがあまりに優雅に鮮やかにリュシヴィエールを攫ってしまったから、どこに行ったのやらわからないに違いない。


リオニール語を覚えるのにやる気は沸かず、朝に麦粥を食べる習俗にも馴染めない。裏口で行商人とカタコトに交渉するアンナの声を聞いて、知らない人がいると思う以外思うこともない。


ティレルは『仕事を探している中年の移民男性』の役割にあっという間に馴染んで、街をぶらぶらしたり商店に声をかけたり、怪しまれない情報収集に精を出す。


何もしていないのはリュシヴィエールだけである。彼女は立ち上がり、まずはアンナを手伝って家事を、それから図書館だの公衆浴場だのに顔を出すようにした。近所の婦人たちとの付き合いのたび、言葉がまるで演劇のようだと笑われる。貴族の言葉は大仰なのだとリュシヴィエールは初めて知った。


その日、散歩から戻ってくると小包が届いていた。宛先は――リシャール・アクアッシュ。それはエクトルの新しい名前だった。


エクトルはこれからたくさんの新しい名前を得、それらを使い分けて生きる。そういう人生を選んだのだ。リュシヴィエールもまた、そうなるのだろう。予感がする。前を向いたら、自分は間違いなく喜んでエクトルと同じ人生を選ぶのだろうと。


名前を捨てる。家の名を、生まれ持った身分とそれに伴う権利と義務を、すべて捨てる、縁を切る、なかったことにしたと思い込んで生きていく……。貴族令嬢として生まれ、一度は人生を諦めたリュシヴィエールには、難しい生き方だ。


「俺が忠誠を誓うのはクロワ侯爵に対してでした。彼はもういません」


とティレルは笑う。


「なら俺は、俺が一番気に入っている坊主を見守ってやろうと思ったんですよ」


アンナの言い分はいくらか直情的である。


「頭のこともティレルさんのことも好きですが、ええっと、普通に人間として好きですが、それは置いといて、あたしを一人前の人間として扱ってくれたのはおじいちゃんとお姫様だけでした。ぜったいお傍を離れません。あたしのご主人はリュシヴィエール様です。たとえ頭に命令されたって、ええ、離れるもんですか!」


それぞれがそれぞれの信条に従って、行く先を決めていた。


できなかった、は言い訳である。言い訳というものは思いつけばつくだけ数が増える。家が、父母が、生まれが、エクトルの存在が、前世が、火傷が。けれど。


リュシヴィエールはもう流れるがままに生きていくのはいやだった。辺境の【暁の森】のかたわらで老いていくことしかできないと諦めていた。けれど、本当はずっと、エクトルの傍にいたかった。


ある日の夜、それはアルトゥステア歴七百十八年の七月九日。リオニール王国ではこの日は祝日だった。


アパートの前は大通りで、しかしバルコニーは裏通りに面していた。隣の家はパーティーでも開いているのかどんちゃん騒ぎで忙しく、一本向こうの路地からは酔客のダミ声の歌が聞こえてくる。アンナは男の子に誘われてデートに行き、ティレルは酒場に繰り出していた。


バルコニーの粗末なベンチに座って、エクトルは酒のグラスを傾けている。リュシヴィエールが肴と自分用のグラスを持ってそちらへ歩を向けると、頑丈な背中が思わずといったように緊張するのが分かった。筋肉の盛り上がりがおかしくて、わざと、


「リシャール」


と呼び掛けた。


エクトルは思ったより情けない顔で振り返る。リュシヴィエールは久しぶりに楽しくなって笑った。


「わたくし……私も名前を変えようかしら。リュシヴィエールはとても仰々しい名前だから」

「変える必要なんかない。リュシヴィエールはあんたに似合っている。あんたの名前はそれしか考えられない」


エクトルは酒瓶の中身をリュシヴィエールのグラスに注ぐ。軽い乾杯はしたものの、口を付ける気になれなくてそのまま両手の中でグラスを温めた。


「それじゃあ、リュシー。そうね、それにしましょう」

「ああ、いいな。縮めて。リュシヴィエールはリュシヴィエールで残しておけばいい」


彼女が頷くと、エクトルは――ぽろりと口からこぼれるように、それを口にした。


「クロワ侯爵邸に火をかけた魔法使いは、父上が差し向けたものだ」


思わず、うっかり、気が付いたら。どの言葉が似合うのだろう。これ以上自分の中だけで抱えていることができなかった、というように、リュシヴィエールには思われた。


「あんたがいらなくなったんだ。政略結婚に仕えなくなったし、新しい妻子にとって邪魔だと考えた。馬鹿野郎、俺がいるのに。暗殺ができて密偵もできる俺がいるのに、なんであんたが大人しく死んでくれるなんて考えたんだ? まったくわからない。奴はあそこまで愚かだった。俺たちの両親は……どっちも貴族として、人間として考えられないくらい、バカでクズだった……!」


エクトルの頭を抱き寄せて、リュシヴィエールはいっそ赤ん坊に戻れと念じた。そうしたら永遠に腕の中で守ってあげるのに。


「言うことをよくきく新しいのを見つけたから、古い子供はいらなくなったんだ……」

「ええ」

「普通は思いついてもやらない、そうだろう? 俺はともかく、あんたは間違いなく血を分けた子供だった。それなのに」

「お互いに憐れみ合うのは、もうやめましょう」


リュシヴィエールの青い目と、エクトルの青く銀のふちの浮かんだ目が視線をぶつけあう。


「これまで何も自分で掴めてこなかったから。これからは掴めるようにならなくちゃ。キャメリアでもシュトロカでも、わたくしは幸せだったわ。おまえがいたから。でもこれからは、おまえ以外もいなくちゃ幸せになれないようになる。一緒になりましょうよ。みんなで幸せになる人たちの一員に、なりましょうよ。……ね?」


殺す必要はなかった、と思う。リュシヴィエールにとって、愚かに生まれたことは罪ではない。


「死がすべて洗い流したわ。もう人の愚かさに振り回される必要はないの」

「……どうしたら、あんたみたいになれるかな。俺はいつまでも、力があっても、あるからこそ、そこには行けない気がするよ」


エクトルは細く甘いため息をつく。


「私はただ、愚かな醜い人間になりたくないだけ。憎んだり蔑んだりしたら、そうなってしまいそうだから」

「そうだな」


彼はこつんと額をリュシヴィエールの額にぶつけた。


「そうだね」


間近にばちばちと、星でも発していそうな青い目が潤む。


「キスしていい?」

「だめ」

「ケチ。これでも?」


エクトルは胸元から革紐に通した小さな指輪を出した。小ぶりだがみごとな鋳造の貴婦人用の指輪だった――宝石の代わりに、ロンド王国の王家印が刻まれている。


リュシヴィエールは絶叫するところだった。こんなに目を見開いたことはなかった。


「そんな危ないもの、しまっておいて」

「血の繋がりがない証明だろ。俺とあんたの……」

「どこで手に入れたの?」

「王立魔法学園で王太子殿下にいただいた。世が世ならきみは弟なんだよ、とおっしゃって」


エクトルは照れたようにはにかんだ。


「嬉しかったなあ……!」


リュシヴィエールには判別がつかない。ねえねえちょっと待ってよ、まさかほんとに? そうなの? 続編?――母上は私生児を産んだんじゃなかったの? それとも?


エクトルが王の子であるなら、これからの人生はよりややこしい、苦難に満ちたものになるだろう。


王太子殿下を疑うわけではないが、憚りながら格下の者を自分に心酔させるすべを心得ているのが貴族であり、王族はその最たるものである。油断ならない敵でも味方でもない人は四方八方にいる。


リュシヴィエールはぐーっとグラスを飲み干した、おい、とエクトルの慌てる声。彼は素早く指輪をしまった。


「姉う……姉さん。リュシー。酒には慣れてないだろ」

「飲みたい気分なの。放っておいて」


空には満天の星。上機嫌な街の声。隣にエクトルがいる。とりとめのない話が生まれ、結論も出ないまま流れていく。


ここに炎はどこにもない。下町だから魔法灯もなければお仕着せの使用人もおらず、行き詰るような人生はすでに脱ぎ捨てた衣服のように足もとにわだかまるばかり。


空を仰ぐリュシヴィエールの目の前で、流れ星がひとつ、落ちた。わああっと人々が歓声をあげた。


「願い事は、エクトル?」

「願い事?」

「流れ星には願掛けをするものなのよ」

「へえ。じゃあ――」

「じゃあ?」

「俺は永遠にあんたと一緒にいる、と誓おう。星じゃなく俺自身に。そのためにならどんな犠牲も厭わない」

「困った子」


リュシヴィエールは笑い、エクトルも声を合わせて笑った。隣室の声は最高潮に達したようで、陽気な音楽まで流れ出してくる。


「愛してるわ、エル」

「俺も愛してる、リュシー」


笑い合って指を絡め合った。この距離が精一杯だ。今はまだ……。


温かい風が吹いた。ロンド王国では感じたことがないほど穏やかで、海の匂いを含んだ風だった。彼の銀の髪が、彼女の金の渦巻く髪が、宵闇にきらきらと舞い上がり、絡み合う。


終わりはまだ遠く、人生は続く。


互いが互いを求める限り、きっと二人は永遠に一緒にいられるだろう。




【完】



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【改訂版】虐げられモブ令嬢ですが、義弟は死なせません! 重田いの @omitani

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