第19話



再び、応接間。


リュシヴィエールは待った。頭の中にとりとめのない思考が散乱して手が付けられなかった。


(エクトルがヒロインを殺した)


彼女は死んでしまった。プレイヤーキャラクターなのに。ぜんぜん、普通の死にざまだった。普通の人みたいに死んだ。だがこの世界は終わらない。現実は続く。


(エクトルにとって死と殺しは日常で……なら、わたくしもそうならなくてはね)


ごく自然にそんな考えが浮かんできて、リュシヴィエールは天井のシャンデリアを見上げたまま動けない。金色の巻き毛が惜しげもなくソファに流れ、乱れ、渦巻き、波打ち、さながら金の海のようだった。シャンデリアの金メッキの柄と、そこに嵌った劣化したクリスタルがランプの灯りを反射して光る。


彼女はそっと自分のくるくるした髪の毛を撫でてみた。


(彼の目にこの髪はあんなふうに光って映るのかしら?)


エクトルが戻ってきたのは夕方も過ぎて夜になってからだった。


「エクトル」


リュシヴィエールは立ち上がって青年を出迎える。疲れ切った様子の彼は、それでもどこか誇らしげに彼女を見つめた。古びた室内着、バラ色の室内履き、手入れのされていない肌や髪を見てもそんな顔をしてもらえるなんて――ああ、お風呂に入ればよかった。ありったけの香油を髪に塗り込めるのだった。


心の中で喜びが爆発するのは、奇妙な感じだった。エクトルを自分の存在すべてで喜ばせたかった。人が死んだというのに、彼が殺したというのに、リュシヴィエールの中にそのことについての恐怖や後悔はみじんもなかった。


エクトルのがっしりした腕が伸びて彼女を引き寄せようとした。だがはた、と気づいたように動きを止めて、


「あー、ごめん。身体を拭いてくる。穴掘り仕事、したあとだから」

「え、ええ」


エクトルはしゅんと肩を落として部屋を出ていく。リュシヴィエールはすとんとソファに腰を落としそれを見送った。


戸口のところでエクトルはふと足を止めて振り返り、


「綺麗だ、姉上。俺は死んでもいいよ。その姿のあんたを見れたから」


リュシヴィエールは目を見開く。エクトルはさっさと逃げた。


笑い声が彼女の喉をつんざいた。嬉しさと喜びとはにかみと幸せと、一緒くたになった感情の爆発は止まらない。この数年というもの――火傷を負い、喉が舌が傷ついて以来、はじめて出した大声だった。もうどこも傷まなかった。身体の内側も、外側も。


リュシヴィエールに傷はもうない。なんら恥じ入るところのない、貴族の令嬢である……年齢的には貴婦人と呼ばれるべきだが。


もう夜も更けた頃になってエクトルは身綺麗にしてやってきて、


「ごめん、お腹空いたろう。何か食べよう」


ぎくしゃくした様子で台所に消えたかと思うと、銀の盆にあれこれと乗せて戻ってきた。


「何もかもうまくいかない。あんたの前だと、俺は手順も何もあったものじゃない」


なんだかもじもじしながらぼやいている。まだ濡れた銀髪が筋肉の凹凸がついた肩の上を滑り、身体を拭くというかお風呂に入ったんじゃないの、エル。リュシヴィエールはちょっとした不満を感じた。


(言ってくれたら一緒に入ってあげたのに)


赤ちゃんだった頃のように沐浴させてあげたのに。


彼は石鹸の香りがした。湯上りの男の肌の匂いもした。ごく普通の街の青年のような真っ白のシャツに、赤茶色の上着とズボン。たったそれだけの服装が髪色を引き立たせる。試案に沈む目は、海の底のように濃い。均整の取れた身体にきっちりついた筋肉も、足音を立てない猫のような身のこなしも、エクトルは完璧に美しかった。


乙女ゲームの攻略対象、はもういなかった。そこにいたのは一人の青年だった。


エクトルが手伝おうとしたリュシヴィエールを制して自分で食べ物を並べたので、結果として二人でやるより早くすんだ。薄切りにしたパンとクラッカー、ジャム、バター、チーズ、リエット、ハム。シェリー酒と赤ワインの瓶。クリスタルのゴブレット。氷を入れたカラフォン。


すっかり忘れかけていたが、今は新年祭の時期なのだった。長年の友人や親戚の家に家族揃って挨拶に行き、逆に誰かをもてなす時期。みんな忙しいから、ごちそう続きの最初の三日間以降、食事といったらだいたいこんなもの。


もくもくと冷たい食事を胃に押し込む間、エクトルが子供の頃と同じくリエット好きであることをリュシヴィエールは発見する。肉を香草とともに原型がなくなるまで煮込んだ塩味の保存食だ。


エクトルは二枚の素朴なクラッカーに匙いっぱいのリエットをサンドイッチして口いっぱいに頬張っている。リュシヴィエールの視線に気づいて、そのうち一口の大きさを半分にした。リュシヴィエールはリエットの小鉢をエクトルの方へ押しやってやった。


台所で静かに、静かにしているアンナが何も聞いてこないのと同じように、リュシヴィエールもまた、エクトルが話すまで待つつもりだった。エクトルのことなら何一つとして否定する気はなかった。種明かしがどれほど拍子抜けする、残酷なものであろうとも。


そのうち大皿に盛られたパンとクラッカーはすべてなくなり、二人は腹も満ちて身体が温かくなった。アンナが食器を下げてしまうと、もう時間を延ばす理由はなかった。


「あの子の遺体は、【暁の森】?」


エクトルは目を細めてリュシヴィエールの顔を見た。


「あんたを元のように治すのが俺の人生の目標だった」


と彼は言った。聞いたことと違うのに、それに一瞬気づけないほど悪い顔だった。なんというか、男臭い。彼の持つ酷薄さも冷酷さも、リュシヴィエールには決して向けられないだろう。


青い視線がリュシヴィエールの全身をざっと検分したが、ちっともいやらしいところがなかった。彼の心からの喜びが伝わってくるようで、リュシヴィエールはみぞおちから全身を駆けまわる喜びに支配されないよう緊張した。今にも彼に飛び掛かって、上に乗っかってしまいそうな身震い――。


エクトルはリュシヴィエールから一度も視線を外さなくなった。自分の顔やまなざしや声が女にどんな影響を及ぼすか熟知し、その使い方に熟練しているのだった。


白皙の美貌が真顔のまま見つめてきて、時折、心から嬉しそうに微笑む。ソファに浅く腰掛けて背中を丸めて囁く声は低く、太く、尾骶骨がびりびりする。リュシヴィエールはくううっと喉を鳴らしながら頬が赤らまないように必死になった。……八つも年下のくせに。


「【癒しの歌の聖女】、あのバカ女を殺そうとは前から決心していたし、王太子も同じ思いだった」

「なんですって? 聖女……様は、ロンド王国の誇り……」

「あの小娘が? 本気でつとまったと思うのか、姉上? 殺すことは王太子と契約して決めたんだ。バカ女は殿下の婚約者の公爵令嬢をハメようとしたんだからな」


言葉もなかった。しかし、リュシヴィエールもある時点ではヒロインと同程度のバカだったのだから人のことは言えない。どんなバカでもイベントの選択肢を間違えさえしなければストーリー通りにことが運ぶ、物語の強制力を一時期信じていたのだから。


エクトルは大げさに鼻を鳴らし、落ち葉の下で腐り果てる末路がお似合いだとゴブレットに吐き捨てた。


「もちろん周りの大人が気づいて対処したさ。あの女は最後までどうしてバレたのかわからないって顔をしていやがった。――バレないわけがないだろう? 王立魔法学園は貴族の子弟子女に教育を与え、その身辺を守るためにあるのに。影に日向に、大人の目が光らないわけがない。教師も学園メイドもみんな学園長に統括された監視人だ」


若者の感情ですべてが動く、少しおかしいガバがあっても総スルーのご都合舞台、それが『ヒトキミ』の王立魔法学園だった。


だがここは現実である。確かに現実であの調子、まるでゲームのヒロインの言動で貴族の子供たちに近づいていったのかもしれないと思えば――


「あの子はさぞかし見ものだったのでしょうね。見たいような、見なくてすんでほっとしたような」

「見なくてよかったさ。姉上は目をくりぬいて洗いたくなったろう」


エクトルは肩をすくめた。リュシヴィエールは意地悪な笑い声をあげるのを控えた。ピンクの少女はもう死んでいる。死者を笑いものにすべきではない。


「二年目の終わりだったか、バカ女が変なことを言い出した。記憶が戻った、自分はこの世界の主人公だと。王太子も誰も彼も自分に夢中になるんだとな。みんな無視するか鼻で笑っていたが、じきにおかしなことになった。――あの女が望む通りの一幕が、学園のところどころで発生するようになって。とくに王太子殿下はお気の毒だった。本人の意思ではないと誰でもわかるような、歯の浮くようなことを言わされて……あとになって本気で落ち込んで、公爵令嬢に謝罪なさるんだ。令嬢も殿下を信じていらっしゃるから、その旨を言葉でお伝えになって。それでもぎくしゃくとしてしまう。見ていられなかったよ」

「それは……さぞお辛かったでしょう」


リュシヴィエールは想像する、もし自分とエクトルの間に彼女が入り込んできたら。


(殺してたかも)


ティレルに弟子入りしてたかも。


「俺にも何度か覚えがあった。腹立たしい――ごめんよ、姉上。決して本意ではない行動をとらざるを得ない状況は、仕事でなら幾度かあったけれど。あれは【魅了】の魔法の効果に近いのだと魔法使いたちは言った。生来の味方は誰もいない場所であんなものが暴れ回って、今年の学年はハズレも大ハズレだった」

「わたくしは自分の家の中で彼女を迎えて、あなたが何か企んでいるのは顔を見ればわかったから。調子を合わせるくらいなら何も聞かずともできたわ」

「助かったよ」

「でも次は事前に連絡してね」

「ごめん。手紙を盗み見られる可能性があったんだ」


エクトルはさらっとなんでもないことのように笑いながらそう話し、リュシヴィエールは天井を仰いだ。


「学園なのに?」

「学園なのに。あの女、下級貴族の子弟だのメイドだのをたらしこむのが上手くてね。勝手に部屋に入られるわ教材の中まで見られるわ。とくに被害に遭われたのは公爵令嬢だったが。学園使用人の中にも協力する素振りをみせる者までいたんだ。今頃軒並みクビになっているだろうけれど」

「クビ? 学園長の統率の元にあるのだと、あなた今……」

「王太子殿下は王立魔法学園の総改革を進めるおつもりだ」


エクトルは小首を傾げた。子供の頃よりずいぶん伸びた髪の毛がさらさらとまっすぐに肩を滑り落ちる。


リュシヴィエールは場所を移動することにした。テーブルを回ってエクトルの横に陣取り、その肩に手をかけて綺麗になった銀髪をまとめる。自分の髪の毛を軽く簪で結わえていたところからピンを取り、邪魔になるだろう顔の横のぶんから留めてやる。


「そう。ではまだしばらく学園にお残りになると?」

「あ、ああ。研究機関は存続しているからね。百年来の、卒業後も研究をお続けになる王太子殿下となられる」

「殿下の元でよく活躍したようね。わたくしはおまえを誇りに思います」

「……ふん」


エクトルの耳がぶわりと赤らんだ。リュシヴィエールの髪の毛がくるくると落ちてくるのと反比例して、エクトルの髪はまとめ上げられていく。


「髪はきちんとまとめなさい。わたくしは身なりのきちんとした男が好きよ」

「覚えておくよ」


と生真面目に頷く。リュシヴィエールは目を伏せて歌うように言った。


「あの子はおまえの半生を知っていると言った?」

「あんたが俺のことをいじめたと根も葉もない噂を振りまいた。そのとき、許さないと決めた」

「……子供のわたくしが母上恋しさにおまえを憎みだし、父上に気に入られようと暗殺者となったおまえを一層手ひどく扱うのだと言うのでしょう」

「姉上」


エクトルは目を丸くしてリュシヴィエールを見つめ、彼女は頷いた。


「ええ。わたくしも知っていてよ、その記憶のこと。前世と呼ぶ世界のこと。早く言えばよかったわね。わたくしは記憶の思い通りにならないと誓った。そうしてそのようにしてきたつもりよ」

「姉上……!」


エクトルの大きな手がリュシヴィエールの腰を捕まえ、引き寄せる。強引さに痛みさえ走ったが、リュシヴィエールは黙ってそれに従った。エクトルの膝に半ば乗り上げる形で、間近に目と目が合わさる。


「わたくしはおまえのために生きられたかしら? それが心配なの」

「あんたは俺の全部だった、姉上。……それというのも、あんただけが俺の世界の中で唯一色づいていた人だったから」

「口説いているの?」


リュシヴィエールは笑ったが、エクトルの目は真剣そのものだった。敵を睨むような目がリュシヴィエールを見据えて離さない。腕の力はだんだん強く、けれど思い直して弱くなる。初めて子犬に触る子供のような手つき。


「俺はあんたのために学び、奇跡でも起こらない限りはあんたの傷跡が治ることはないと知った。そこであのバカ女が奇跡を起こした。死ぬはずの怪我を負った馬を蘇生させた……」

「知っているわ。それもイベントよ」

「そうか。……そうだったのか」

「エクトル、わたくしはね。最初は自分が死にたくなくて、ゆりかごの中のおまえを見に行ったわ。でも――あんまりにもかわいくて。腰が抜けちゃったの。自分のため、なんてどこかに行ってしまった。おまえを手放したくなくなったの。おまえが心配ごとなど何一つないまっさらな幸せを手に入れることが、わたくしの幸せよ」


リュシヴィエールはエクトルの目を覗き込み、だからね、と続ける。


ずっと見ないようにしていたことを、今更見つめなおすのは辛い作業だった。今のように彼に体温に触れて身体が疼く状況では、なおさら。だがここをきちんと詰めておかないと、両方とも今後の人生は地獄だ。


「おまえは母上の不義の子だから。わたくしの半分だけ血の繋がった弟だから。わかるでしょう? 愛情の対象ではないの。わたくしのことはお忘れなさい。どこかでもっといい、心から愛してくれる人が――」

「あの女が他の誰かではなく俺を選んだ理由、わかるかい?」


話の腰を折られ、リュシヴィエールは鼻白む。けっこういいことを言っていたつもりだったのに。


低い耳に優しい笑い声がくっくと部屋に響き、心地よさそうに唸り声を出してエクトルはリュシヴィエールの胸に顔を埋めた。そのわりに手が優しく彼女の背中を抑えて、逃げ出さないようにするのを忘れていない。


「奴の言うゲームとやらには、続編があるんだ」

「え……?」

「そうか、あんたはそれを知らなかったんだな! ははっ……あははははっ」


そうしてエクトルは続きを語った。


馬を蘇生させ、その調子っぱずれな歌が植物を元気にし、死にかけの老婆の足腰を治らせ、木から落ちた生徒の骨折を治したあと。神殿から発表があり、ミミイ・フローチェは【癒しの歌の聖女】に認定された。


「あの舞い上がりっぷりと言ったら」


とまた、笑う。リュシヴィエールは銀髪を彼の貝殻のような耳にかける。


王立魔法学園内部だけの極秘情報は瞬く間に洩れ、国じゅうの公然の秘密となった。学園を卒業した彼女が正式に名誉ある地位に上り、権力まで手に入れれば国は破滅する。それは火を見るより明らかだった。


大人たちは何も言わない。静観の構えだった。


――子供たちが立ち上がった。このままにしておくことはできなかった。若く、考えなしで、繁殖のために生み出されたような立場の子供でも、彼らには教養があり、矜持があった。そして何よりエクトルのように暗殺術や諜報術を身に着けた、もろもろの事情ある生徒たちも。


公爵令嬢の指揮の元、王太子をはじめとする生徒会の面々はピンクの少女をちやほやした。少女は何も気づかないようで、やっとゲームがはじまったと満足そうにしていた。吐き気をこらえながらエクトルと仲間たちは情報を喋らせ、収集し、公爵令嬢が総合し、判断した。


この国とこの世界の未来らしきもの、そして家々の恥であるとして押し込められていたはずの秘密が次々に集まった。結束を悟られないように秘密裏に集まり、協力を申し出てきた一般生徒たちの力も借りて、とうとうピンクの少女が話すべきことを残らず話し終えたと判断されたとき。


「あの女の命運は決まった。あれを【癒しの歌の聖女】なんかにはさせない。成人して正式に称号を得れば神殿の人間となり、手が出せなくなる。それまでに決着をつけると俺たちは決めた」


そこには何よりも、王太子の意向が絡んでいた。――来たる卒業パーティーで、彼の婚約者たる公爵令嬢は『断罪』されるのだという。罪状は、【癒しの歌の聖女】へのいじめ。そして階段から突き落とした殺人未遂。リュシヴィエールは吐き捨てた。それこそ、悪役令嬢小説の定番イベントじゃないか。


「――卑怯な」

「ああ、卑怯者だ。あれは。殿下は婚約者殿を決してそんな目に遭わせないとおっしゃった。ご令嬢は泣いたよ」

「それはそうでしょうね。殿方にそんな情熱的に名誉を守っていただけるなんて、女冥利に尽きるというもの」

「……ふーん。で、秘密裏に処分する役割が、俺に回ってきたんだ。それなら、と俺は言ったんだ。じゃあその前にその奇跡、少し使わせてくれってね」

「――わたくしの、ため?」

「そう、あんたに。あの人たちはあんたの顔さえ知らないんだから。あんたよりむしろ俺のことを憐れんでくれた」


エクトルはリュシヴィエールの頬に触れ、すっかり形を取り戻した唇に手を這わせ、微笑んだ。思わず流されそうになり、リュシヴィエールははっとしてその手を叩き落とす。――二人はきょうだいなのだ。


エクトルは恨みがましそうに手を振りながら続ける。


「面々は承諾してくれたよ。それで俺は責任持って奴を……あー、その。奴と恋仲、の真似をすることになった。俺の我儘で奇跡を利用するんだ、たらしこむくらいはしなけりゃ」

「そうして我が家へやってきたのね」

「そう。道中、あの女はこっそり教えてくれたよ。続編の裏設定ってやつをね。大した情報じゃなかったから忘れてたんだけどとご丁寧な前置きをして。――俺が本当は国王陛下とその愛妾の間の子で、本当なら王位を狙える立場なんだと」

「……え?」


リュシヴィエールの反応に気をよくしたらしい、エクトルは上機嫌に続けた。


「俺たちの母親だった女は王の愛妾の侍女だった、そうだろう? 彼女は愛妾から子供を託されて、どうしていいかわからず自分の子としてクロワ侯爵家に連れ戻ったんだ。昔話の登場人物はみんな賢いからそんなことしない。でもあの女はアホだったからそうした。どうだ、これでつじつまが合う」

「母上にそんなことできるはずないでしょう」


一刀両断。しかしその通りだった。リュシヴィエールの目は真剣である。エクトルは口をへの字に曲げた。


「夢物語よ。ありえない。母上にそんな忠義を貫き通す強さがおありであったなら、あんな死に方はなさらなかったわ」


あんな。――一度は我が子と呼んだ子供に殺されるような。


「でもなあ」


とぐったりした様子で眉を寄せる、そんな顔をして下を向いても顎の線はすっきりとしているのだから、美形はどこまでも美形だ。


「道中さんざんご機嫌を取って手に入れた情報だから、あまり疑いたくない」

「気持ちはわかるけれど。希望を信じすぎてもあとがつらいだけよ」


リュシヴィエールはため息をついた。


「これでわたくしが知らなかったことは全部?」

「ああ。姉上に言えることは言い切ったよ」

「王太子様がまだご在学されるのであれば、あなたも戻るのね? いつ?」


エクトルがかすかに笑ったのが、リュシヴィエールには見えた。それが最後の記憶である。


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