第17話


エクトルはいつかのように淡々と説明した。


少女の名前はミミイ・フローチェ。男爵令嬢だが母親はメイドで、正妻が死んだので父である男爵が屋敷に引き取った。不遇な運命に負けないっ、ぴかぴかの美少女。魔法の才能を見出され王立魔法学園に通うことになり、数々の貴公子と恋愛をして最後には【癒しの歌の聖女】となる――。


原作で見た展開通りに彼女の物語は進んでいた、らしい。『ヒトキミ』のラストは全ルートで王立魔法学園の卒業式だ。


今はアルトゥステア歴七百十八年、一月五日。卒業式の日取りは忘れもしない、――三月十五日。


もし、目の前のミミイ・フローチェがエクトルルートを選んでいたとしたら。すでにエクトルの心は彼女のものである。


(なんでショック受けてるのかしら、わたくし)


――エクトルがヒロインと幸せになること。リュシヴィエールはかつてそれを望んだ。


彼のことを弟として以上に愛しているし、彼の方もおそらく同じであると知っている。だが、気持ちに応えもしない女から心変わりするのは自由で当然なことである。


うん。そうよね。『ヒトキミ』通りのラストを迎えれば、エクトルの心は癒され救われるだろう。【癒しの歌の聖女】のたった一人の騎士になる人生?――名誉なことじゃないの。


しかしながら困ったことに、リュシヴィエールの心中は荒れ狂っていた。


向かいのソファに腰かけて、きゃらきゃら笑う天真爛漫で純粋無垢な少女。彼女のピンク色が、笑顔が、声が、足をぱたぱたさせるその音さえ、リュシヴィエールは憎たらしくてたまらないのだった。


ヒロインの横、慈しむような顔をするエクトルにさえ、腹が立ってしょうがない。


(未婚の男女にしては近すぎてよ、エル!)


と睨むものの、エクトルは青年らしい仕草で少女の額にかかるピンクの前髪を払ってやったりするのだった。


(ま、まあでもこれでエクトルは騎士になって暗殺者の責務から解放されるし、そのとき負った心の傷も彼女に癒してもらえるのよ)


納得いかない、と心が叫ぶ。


じゃあわたくしはこのままエクトルを手放さなきゃいけないの? と悲鳴を上げそうになる。


(いやいや、いいことでしょう!)


わかっている。わかっている。


でも。


(突然すぎてよーッ。事前に手紙の一通くらいくれてもよかったじゃないのー!)


こ、このピンクピンクしたチャラけ小娘こそが彼に愛される? わ、わたくしの方が……。


(いやいやいやいや。年上の、姉として接していた女がそんな、いやちょっと待ちなさいリュシヴィエール。――うん。うん)


リュシヴィエールは茶菓子を摘まんだ。アンナが丹精込めて作ってくれた新年の占いクッキーだ。硬く焼き上がった生地の中に金のイヤリングが入っていれば、その年一年は幸運に恵まれる。


(わたくしの望んでいたのはこういうことだったのね)


リュシヴィエールはクッキーを噛み砕く。中には何もなかった。


ミミイは目の前の火傷あとだらけの女が何をどう思ったかは興味がないようで、エクトルにしなだれかかり、楽しそうに空中に魔法陣を描いている。


「たぶんねえ、こういう術式で治ると思うのぉ」

「すごいな、ミミイは。俺には理解も及ばないよ」

「きゃはぁ。エクトルったら成績はいいのにぃ」


砂吐きそう。


リュシヴィエールは味蕾を刺激する甘さでなんとか平常心を保った。


そして改めて眺めてみると、彼女、ミミイは不気味だった。ふわふわぽやぽやして、何も考えていないように見えるがたぶんそれだけではない。彼女には何かが……ある。


ピンクの少女はエクトルの胸板に手を這わせながらちらりとリュシヴィエールを見、頭巾や肩掛けに隠された身体の線を見、勝ち誇った流し目をした。


(喧嘩売ってんのかしら)


台所からアンナが覗いている気配がした。三年も一緒に暮らせば、たとえ凄腕の暗殺者で密偵といえど多少の身じろぎくらいはわかるようになるものだ。たぶんアンナの飛ばしたテレパシーみたいなものが、ビビビっとリュシヴィエールに冷静になれと叫ぶ。う、うん。オーケイ。わかってるわよ。


きゃぱぱぱっと幼女のような声を立て、ピンクの少女はぱんっと両手を打ち合わせた。


「えっとぉ、それじゃあぁ、こっちから魔法を流し込んで、反対側であたしの魔力で迎えるの。媒介は何がいいかしら、ああ! サクラの花がいいわ、ぜったいそう!」

「――サクラ?」


と反応してしまったのは、久しぶりに日本語に近い発音の単語を聞いたからだ。


「うん、そうなの!」


ピンクの少女はにっこりした。目の下にぷっくりと涙袋が膨らんで、えくぼができる。合わせた手の先もほんのりしたピンク色に色づいている。その精巧な天然の美しさにはっと息を呑んだ。


「学園に植えられていた木でね、とぉってもキレイな花が咲くのよ。ピンクの! まるであたしみたいっ、でしょ?」


えへっ。と少女は顔の横の髪の毛を一房つまんだ。


エクトルは張りつけたような美しい微笑でもって、少女の頭を撫でる。ぞわりと、リュシヴィエールの背筋がびくついた。嫉妬ではない。それは――エクトルの本当の慈愛の表情ではなかった。リュシヴィエールに向ける笑顔では。


「だから、あたしが名付けました! ホントは別の名前があったみたい。でもサクラって、響きがカワイイでしょ? だからぁ、そっちの方が絶対いいと思ったのぉ。王太子様もそれでいいって言ってくれたもん!」


リュシヴィエールはエクトルに向けて微笑んだ。猿芝居に乗ってあげるつもりだったが、はてさてこれで騙されるのはリュシヴィエールか、ミミイの方か。


「この方が【癒しの歌の聖女】であるという、おまえの説明はわかりました。そして――婚約者でもある、と。あまりに突然のことで、姉は驚きましたよ」

「すみません、姉上」

「そろそろ卒業ですね。卒業と同時に、結婚? きちんと養って差し上げられるのですか?」


エクトルは淡々と説明した。卒業式の夜、王立魔法学園の大広間を貸し切った卒業パーティーで、同時にミミイ・フローチェのお披露目が行われる。彼女が【癒しの歌の聖女】であり、この国を支える身分に上がるということ。そしてエクトルは【癒しの歌の聖女】の専属護衛騎士となる。二人は生涯を人々のため、祈りと癒しに捧げるのだ。


「まあ」


リュシヴィエールは顔を曇らせた。


「それではもう簡単には会えなくなるわね……」


寂しい女そのものに悲しみを見せる。ピンクの少女が獲物を見つけた猫のように目を丸くした、ものすごく嬉しそうだった。


「たまには会いに来ますよ」

「ええ、そうね……まあ、ごめんなさいフローチェ嬢。せっかくの席を濁してしまって」

「ううん。あたし気にしない。お姉さんはエクトルのことが大事、エクトルもお姉さんが大事。 あたし、そういうのわかる人だから!」


薄い胸を張って笑う少女は澄み渡る空のように清らかだったが、ピンク色の目は少しも笑っていない。


「王太子様の婚約者の公爵令嬢がさあ、人の気持ちゲロわかんない女で。あたしあんな女にならないって決めたの。だからぁ、エクトルをとっちゃう代わりに、あたしがお姉さんを癒してあげます。等価交換! っていうんだよ?」

「……聖女様になられる方に、ご無礼ですわ。この弟がそのような大恩に値するなど。これは聖なる【癒しの歌】に値する傷ではございません。わたくしの誇りです」

「でも不便でしょ? 前みたいにキレイに戻った方がいいって! ぜったいそう!」

「――エクトル。少し出ていてくれるかしら?」


もう少年ではない青年は少しばかり苦い笑みを浮かべたようだった。嘲笑にとてもよく似た美しい笑みだった。彼は少女の肩に手をかけ、そっと頬を触る。


「いいかい、愛しいミミイ?」

「いいよお。お姉さんもエクトルがいると話しにくいことあるんじゃない?」


少女は興味津々といったところ。零れ落ちそうに大きなピンクの目がきょときょと動き、くすくす可憐な笑い声を出す。エクトルはピンクの少女を抱き締めて、ピンクの髪に顔をうずめた。


「ああ、離れるのが辛いな。姉上、何を話してもいいけれど、ミミイを傷つけるようなことを言うなら許さない。彼女は俺の婚約者なんです。肝に銘じてください」


リュシヴィエールはあやうく笑い出すところだった。――おまえったら、そんな顔で、そんな口調で!


まさかリュシヴィエールが……姉として供に育ち、決定的な別離を経てなお昨日会ったかのような気さえする、エクトルに残された最後の家族であるリュシヴィエールが、騙されるとは思っていないだろう。姉上ならわかりますよね、という声が聞こえてきそうだった。


笑顔を浮かべたエクトルの美貌の中、青い目がわかりやすく死んでいる。自分の肩口にミミイのピンクの頭を押し付けて、決して顔を上げさせないようにしてまで。


そのわりにとってつけた声の甘さときたら、ああ、大したものだ。


「俺はね、ほんとはミミイを王都の外に連れ出すのは反対だったんだ。旅は危険だ。盗賊だって出るんだから。でも彼女はついてきてくれた。姉上のことを話したら、心配だからって言うんだよ。ほんとに清らかな心の持ち主なんだ、ミミイは」


少女は苦労してエクトルの腕の拘束からぽんっと頭を抜け出させた。ピンクのふわふわの髪がぷわぷわ周囲に広がった。


「うふふふー。エクトルったら恥ずかしいっ」

「それじゃ、姉上。俺は【暁の森】でも見に行ってきます」

「ええ、いってらっしゃい」


そして彼は部屋を出ていった。去り際にぱちんとウインクまでして。


リュシヴィエールはエクトルの足音がなくなるまで待った。すでにこの状況を楽しみ始めていた。


「それで――」

「あんたも転生者?」


話し始めがかぶった。どうやらとことん相性が悪いらしい。


リュシヴィエールはとうとうコロコロと笑い出した。上品な笑いを目指したかったが、息の音が混じって聞き苦しいものだ。実のところ、リュシヴィエールの頬の傷口は塞がらないまま癒着してしまったので、ハスハスと息が抜け言葉は聞き取りづらいし呂律はよく回らない。


「うわー図星かよ? 笑ってごまかしてんじゃねえよ」


今にも唾を吐きそうな声である。


「あなたはどなたなの?」

「は? ミミイ・フローチェですけど。あたしがヒロイン! あたしが王太子に言ったらお前なんか死刑なんですけどぉ?」

「ええ。わかっていますとも。ええ……話をしましょうか。ヒロインさん」


知りたいことを知るために、リュシヴィエールは居住まいを正した。


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