第16話


夢のような一夜が終わり、三年が経った。


アルトゥステア歴七百十八年の、一月五日。


ここではないたくさんの家では新年祭は華やかに開催されているだろう。今年もエクトルは帰ってこない。帰ってくる、という表現はおかしいのかもしれない。ここは彼の家ではなく、リュシヴィエールの幽閉場所なのだから。それでも顔を見られないのは寂しいし、心配もするものだ。


王立魔法学園へ手紙は出していた。返事が来たことはないが、今となってはエクトルへの手紙を書くこと、【暁の森】へいくまでの道を散歩することの二つが、リュシヴィエールの日課であり趣味であり仕事だった。


使用人たちは身体がつらいだとか、家族に不幸がだとか言って、ぽろぽろと辞めていった。リュシヴィエールは引き留めず、次の使用人も雇わなかった。アンナはメイドとして十分やってくれるし、リュシヴィエールも運動代わりに家事を手伝うようになっていた。静かな暮らしは、楽しかった。


アンナとのやり取りもかなり気楽なものに変わった。


「お姫様、乾燥ベリーが市場にありましたからケーキを焼きますね」

「ありがとう。じゃあわたくし、ミントの葉っぱを庭から収穫してくるわ」

「また転ばないでくださいましね」

「見くびらないで。もう」


といった具合である。エクトルが見たら怒るかもしれなかったが、この屋敷に出入りするのは実質アンナとリュシヴィエールだけである。たまに、門番の老爺の孫がやってきて窓などを修繕し、手間賃をもらっていくくらい。


アンナの正体について、いわば騙されていたことに関しては、リュシヴィエールは何も言わなかった。彼女を問い詰めても仕方ないことだったから。それに、どうやらアンナがリュシヴィエールを好きでいてくれるのは本当らしい。てっきり自殺しそうだと思っていたのに、容貌が台無しになってもなんとか生きている姿が好ましいのだとか。失礼な娘である。


この三年でいくつかのことがあった。父であるクロワ侯爵の今の妻から金食い虫と罵倒する手紙が来た騒動、足の火傷あとが突然感染症を起こし高熱が下がらなかった秋、母の行方を捜しているとあの美青年セルジュから手紙が来たりもした。


リュシヴィエールは母と異父妹の死体の行方について考えないようにする。裏社会の人間たちには独特の死体処理方法があることはうっすら知っている。


母もその娘も困った――としか言いようのない、人たちだった。けれど墓にすら入れず葬式も挙げられないほどのことをしたのか、リュシヴィエールにはまだわからないでいる。


母たちは愚かだっただけだ。愚かに生まれたことは罪ではない。見下す相手が欲しくて、踏みつける相手がいなければまともに立ってもいられなかっただけ。そんな愚かさは誰にでもある。リュシヴィエールの中にも。


新年のお祭りはシュトロカでは開催されない。せめてもの手間暇としてここ数日、食卓を豪華にした。ケーキと焼き菓子、占いクッキー。プディング、肉のかたまりを焼いたの、ミンススパイに糖蜜パイ、チーズのお皿。それからたっぷりのワインと蜂蜜酒。


窓の外では雪が降っていた。吹雪になるかもしれない。


「お姫様、お茶です」


とアンナが銀の盆にのせたティーセットを運んでくる。ありがとう、とリュシヴィエールは行儀悪く足をぱたぱたさせた。暖炉の火に当たりすぎて、つま先がむずむずする。


「アンナ、雪が上がったら散歩に行きましょうね」

「はい、お姫様。お供いたします」


二人の女は笑い合う。生まれも育ちも違うのに、案外、気が合うのだった。


それからゆっくりと時間をかけて食事をした。新年でなくてもごちそうをたくさん作って、アンナと共に数日に渡って食べきるのは楽しいことだった。寂しい土地の変化に乏しい日々でも、楽しみはいくらでも見つけられる。


一人になったリュシヴィエールは窓の外を眺めながら花の香りのお茶を啜った。


不思議なことに【暁の森】は雪にも負けず静かだった。赤い葉っぱに雪化粧して、ずいぶんかわいらしく見える。果たしてあの森から魔物が湧きだし人を襲うとは本当だろうか。リュシヴィエールは【暁の森】が悪しきものを吐き出すのは見たことがなかった。まるで見てきたように不吉だ、不吉だと言われているけれど。


何もすることのない生活の、気ままな手すさびは楽しいものだ。机の上にはやりかけの刺繍や軟膏の器、書きかけの詩の原案などが散乱している。錆びた色合いのインクが羽根ペンの根本でかたまっているので、あとでナイフで削がなければならない……。


慣れ親しんだ屋敷の自室で、暖かい室内着にくるまれ眠気が忍び寄ってきた。リュシヴィエールは完璧に油断していた。


玄関扉のベルが高らかに鳴り響いたのはそのときである。彼女はびくっと頭をもたげてあたふた立ち上がり、杖を手に取った。


アンナがぱたぱたと玄関へ駆けていった。リュシヴィエールは立ち上がり、客人への非礼にあたらないよう肩掛けをレースのものに取り替えた。室内着はもはやどうしようもない。杖を手に取り、頭巾をかぶって火傷あととハゲを隠す。


(いったい誰? 心当たりがないわ)


クロワ侯爵家は父の改心もあってかなんとか持ち直している。奇矯な商人が忘れられた侯爵令嬢に一応、尻尾を一振りしに来たのだろうか。


しかしそうではなかった。足音のしない歩き方で、アンナが部屋へ戻ってくる。一番奥の、一番広い、窓のない部屋は永遠に施錠されていた。さすがに血の繋がった人間が二人も死んだ部屋を使いたくなく、リュシヴィエールは今、二番目に広い客間だった部屋で寝起きしている。


アンナは静かに礼をして、ひそめた声で告げた。


「弟君です。エクトル様です。――その、ご令嬢と一緒です」

「ご令嬢?」

「はい。その、婚約者、ですとおっしゃられて……」


リュシヴィエールは部屋を出た。気持ちの上では飛び出したと言っていい。杖は絨毯に沈むが、頼りにするというよりは歩くことの補助に使い、応接間へ。


三年前と何も変わらないソファの上に、エクトルとピンクのドレスを着た少女が寄り添うように座っていた。


「――!」


リュシヴィエールはあやうく悲鳴をあげそうになったが、実際にそれをしたのは少女の方だった。


「キャアアアッ、そんな、そんな、ひどい……ひどぉい……」


と呻くなり、ぼろぼろと滂沱の涙を流して泣き始める。


少女はどこもかしこもピンク尽くめだった。ふわふわのピンク色の髪、ピンク色の目、ピンク色のドレス。爪に塗った色さえピンクである。


乙女ゲーム『一つの冠をいっしょに~キミと運命の分岐点~』、略称ヒトキミのヒロインだった。


デフォルトネームはミミイ・フローチェ。少女はソファを弾かれたように飛び上がると、リュシヴィエールに両手を広げて突撃してきた。


ぎょっとしたリュシヴィエールが身体を固くしているうちに、少女はぐすんぐすん泣きながらリュシヴィエールを抱き締め、頬ずりをしてくる。涙の冷たい濡れた感触を頬の傷にしみるようで、リュシヴィエールはぞっと身を震わせた。


「あたしっ、あたし知らなくてェ……ごめんなさい、ごめんなさいっ。エルのお姉さんがこんな目にあってるだなんてッ。ひどぉい、ひどすぎるよおおおッ!」


――いらっ。と、した。


リュシヴィエールはエクトルに目で命令する。この無礼な女を引き剥がして。


彼はそのようにした。三年の月日を経て、彼はますます背が高くなり筋肉もついた。身体の厚みと体躯のよさはそこらの騎士と並べて遜色ないだろう。ピンクの少女をリュシヴィエールから優しく引き剥がす、腕は剣を振るう者独特の太さをしていた。


彼は美貌をふっとゆるませて、猫でも撫でるかのような声を出す。リュシヴィエールの聞いたことのない声を。


「ミミイ。優しいミミイ。ありがとう、姉のことを案じてくれて。――それで、どうかな?」


陳列した商品の売り込みをする商人のように、エクトルは気取って両手を広げた。


「ええ、大丈夫よ!」


と少女は確認する素振りも見せず、両手を組み合わせ微笑む。リュシヴィエールに投げかけられる、まるで世界のすべての法則を代表する女神であるかのように慈愛に満ちたまなざし。


「あたしが助けてあげるわ! そんな傷跡、ぜーんぶキレイにとっぱらっちゃうんだからね!」


きゃはっ、と少女は高く笑った。エクトルは彼女の後ろでただ、微笑んだ。


状況がどうしようもなく動いたことを、リュシヴィエールは知った。


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