第15話


使っていなかった部屋を開けさせ、質素だが頑丈な寝台に毛布を敷いて眠りについたのが昨日。頭痛がして、眩暈がして、身体がだるくてたまらなかった。シュトロカにやってきた当初、熱を出して寝込んだときに似ていた。


数日がたった。台所番の女がやってきて、


「閉じ込めなすった人たちに、食事はどうするね?」


と、慇懃に訪ねてきたのは覚えている。


「一日一回、パンと水をやって」


と答える。アンナも門番の老爺も台所女も厩番も、皆リュシヴィエールに従っているわけではない。いざというとき責任を取れる相手を探しただけである。思えばリュシヴィエールに接する使用人たちもそうだった。いざというとき誰かに責められないギリギリの愛情しかもらえなかった。


アルトゥステア歴七百十五年、三月十五日。春の気配が濃い、風の冷たい日だった。【暁の森】がざわめいている感じがした。


リュシヴィエールが目覚めると、屋敷の中は奇妙に静かだった。使っていなかった部屋はまだ、人間に馴染んでいない気がする。寝台の上に起き上がったリュシヴィエールは、部屋の隅でアンナ静かに佇んでいるのを見つけた。


いつもの雰囲気と違っていた。アンナはリュシヴィエールが知るアンナではなかった。


「おはようございます、お姫様」

「……おはよう」


と、戸惑いながらも返事をする。何かが決定的に違っていた。それがなんなのか。どうしてアンナから、エクトルのように鋭利な空気を感じるのか?


脳が考えることを拒否した。二度寝は許してくれなさそうだった。


アンナは着替えを手伝ってくれ、暖炉の火を温かくかき立て、お湯を沸かしてくれた。そのまま白湯を飲む。しん、と静まり返った屋敷。母の悲鳴もサンドラの泣き声も聞こえない。


「わたくし、もしかしてまた間違えたのかしら」

「いいえ、お姫様。お姫様はいつだって間違っていませんよ。少なくともあたしの主人はそう妄信しております」


リュシヴィエールは頷き、一番奥の部屋へ向かった。そこが一番、しん、が強い気がしたから。


窓のない広い部屋の扉は開いていた。内側に仕込まれたからくり、分厚い壁、鎖と錠で閉ざされた部屋だったのに、すべての封鎖がなんなく切られ破壊され突破されていた。


寝台から絨毯にかけてが血の海だった。


エクトルは母とサンドラの死体をシーツにくるんでいる最中だった。人の形をしたシーツのかたまりは、寝ているときの彼女らと違って生々しさがなく無機質に見える。


「おかえり、エクトル」


とリュシヴィエールは言う。


「ただいま、姉上。――だめじゃないか」


エクトルは応えて微笑んだ。久しぶりに家族に会えて嬉しい、というごく普通の感情が彼の顔をほころばせる。


綺麗な笑顔。美しい立ち居振る舞い。優美な動作にそぐわない血生臭さ。彼は法律的に成人もしていない学生である。だがすでに身体の全てから幼さを失っていた。


がっしりと広がった肩幅、ぐんと伸びた身長、厚みを帯びた胸板。すらりとした身体全体からすさんだ野良猫のような気配がする。アンナによく似た……違う、エクトルにアンナが似ている。


彼は仕事をしていた。てきぱきした手つきだった。血が出ないよう過不足なく死体を包み終え、真剣な美貌に少し伸びた銀髪がかかる。


反対に青い目には銀のふちが浮かびあがり、冬の湖面のように冷たい。エクトルの怒りより強い失望と悲しみがリュシヴィエールを焼いた。身体じゅうの肌が、火傷あとが疼くよう。


「どうして俺に教えてくれなかったの? こういうのが乗り込んできてるって」


こん、とエクトルの見慣れないブーツの先が小さい方の死体を小突いた。


「やめなさい!」


反社的にリュシヴィエールは叫んだ。


「死者に敬意を払いなさい。それは――その線を越えては、ならないわ」


エクトルはふふっと吹き出し、くすくすと少女のように笑い出す。声がサンドラに似ている気がした。リュシヴィエールはくらくらする頭を抱えようとしたが、冷え切った身体は思うように腕の一本も動いてくれない。


「アンナ、お前埋める場所知ってるか?」


エクトルはリュシヴィエールの肩越しに背後に訪ねた。音もなくそこにいたアンナは片足を引いて一礼し、それが返答代わりだった。


リュシヴィエールは糸が切れた人形のようにずるずるとその場に座り込む。寝間着の裾に血がしみて、膝にぴちゃりと濡れた感覚がする。鉄臭い匂いがとたんに鼻に届き、血のむわりとした温度に目まで潤んだ。


「うぅぅ」


泣き声が口から洩れる。青の目からぽろぽろ涙が零れる。


エクトルの腕が伸びてきて、肘を掴み彼女を立ち上がらせた。大きく力強い手だった。彼は姉より背が高く、肩幅も身体の厚みも比べるまでもない。戦うことを知っている硬い皮膚のまめの感触。触れる吐息は桃のような甘い香りがして、リュシヴィエールは嫌がって首を横に振る。


「ティレル、アンナ。あとを頼む」

「へいへい、頼まれましたよっと――お嬢さん、お久しぶりで。こんな再会とは残念です」


ティレルはひょいと一跨ぎにリュシヴィエールのスカートを跨ぎ、死体の方へ歩み寄る。先にシーツの端を持ったアンナと彼は頷きあった。相変わらず痩せぎすなティレルはひょいと大きい方を肩に担ぎ、見たことがないほど冷淡なアンナが小さい方を荷物のように持って後に続いた。


さっきまで母子だったものが二つ、どこかへ片付けられていく。


悪夢のようだった。だがリュシヴィエールが招いた悪夢だ。


そしてエクトルは、悪夢の中に現れた白馬の騎士だ。悪夢を引き連れて悪夢から出てきたリュシヴィエールの王子様。


彼は彼女を抱えるようにして応接間に連れ込んだ。ソファに座らされ、粗末だが頑丈な天井の梁を眺めているうちにお茶が出てくる。エクトルが淹れてくれたのだった。他の使用人たちは? たぶん、逃げてしまったのだろう。アンナのように慣れていないから。


とさり、エクトルがソファの隣に座った。温かいお茶と小さな焼き菓子、それから綺麗な少年の清潔な衣服の香り。リュシヴィエールの身体に血が戻ってきた。


しばらく、無言の時間が続いた。エクトルは心配そうにリュシヴィエールの顔を覗き込み、冷や汗を拭ってくれた。


「落ち着いた?」

「ええ……」


どこか可憐な少女にも似た美貌で小首を傾げられるとまるで子供の頃に戻ったようで、今がいつでここがどこなのか忘れそうになる。彼はいくつになっても美しい。純粋で純真で、清らかだ。


リュシヴィエールは静かに唇を開いた。


「アンナはあなたの、仲間?」

「そうだよ」


彼は頷く。


「シュトロカについてきてくれたのも、おまえの指示で?」

「いや。それはアンナ本人が望んだんだ。あなたの傍にいたいってね」

「いつから、あの子はあなたと同じ……同じ職業の、人だったの」


言葉選びがいかにもお嬢様然とした、拙いものだった。リュシヴィエールは恥ずかしかった。エクトル相手にさえ凛として対応することはできない。顔面と容貌を失って、彼女が生来持っていた貴族の女としての矜持もまた、焼け落ちてしまったようだった。


エクトルは笑わなかった。彼はごく自然に頷き、淡々と説明を付け加えた。


「俺はティレルの下で暗殺術を学んだが、今は王立魔法学園に潜入しているクロワ侯爵家の密偵たちの束ね役だ。頭、と呼ばれている。もちろん実力はティレルに及ばない。アンナと同格程度かな。だが俺が一番王太子殿下に、生徒会の上流貴族たちに近しいから。俺から指示を出すのが一番効率的なんだ」


奇妙に早口だったのは、彼なりに焦っているのかもしれなかった。ぱちぱちとけぶる睫毛を忙しく瞬きして、白皙の美貌に何度か手をやって、顔を擦る。こんなに落ち着かないエクトルは七歳くらいから見ていない。彼は――リュシヴィエールが自分を軽蔑しないかを気にしていた。


(馬鹿な子……)


そんなことがあるわけないのに。リュシヴィエールは目を伏せた。


確かに。確かに、エクトルは許されざることをした。母はともかく幼いサンドラまで。まだ間に合ったかもしれないあの子まで、容赦なく手にかけた。でも。


エクトルが罪を犯したなら、リュシヴィエールは一緒に罰を背負う。彼女は彼をそのように愛して受け入れて、生きてきた。この子はまだわからないのだろうか? 何度だって試そうとでもいうのだろうか?


「来てくれたのは、アンナが呼んだから?」

「――あなたがここでの生活に順応し、すべてを諦めることに幸せを感じるなら、このままにしようと思っていた」


彼は激しく顔をこする。顎をがりがり引っかく。あ、あ。そんなにしては、美しい顔から大理石の破片が落ちてきてしまいそう。


「そうではないのなら。あなたの平穏を脅かす者が現れたら連絡をくれとアンナに頼んでいた。俺は……」


眉を顰めるエクトルはどこか母に似ていた。貴族というものは同じ礼儀作法を仕込まれるから、表情まで似るものである。それ以外の理由? それはわからない。


「俺は元侯爵夫人が男と子供を連れてこの家に乗り込んだと聞いても、動かなかった。なんでか、わかる?」


リュシヴィエールは手を伸ばし、エクトルの手を取って自分の膝に乗せた。彼はびしりと固まった。手は大きくて暖かく、つい先ほど人を殺したのと同じ手だとも思えなかった。リュシヴィエールはこの手が自分を決して傷つけないのを知っている。この手がもっと小さく柔らかかった頃を知っている。彼女はか細い息を、頬の穴から漏らす。


「わたくしが生きる気力さえなくしていじめられる立場に貶められるなら、あなたはわたくしをそのままにしておいた。やがて学園を卒業したあなたが颯爽と戻ってきて、彼女たちを殺してしまう。今日のように。わたくしはあなたを見上げ、感謝と軽蔑を感じ、彼女たちへの消えない罪悪感を抱く。それから自分自身への無力感を」


ピクリ、と硬いたこのついた手が反応する。エクトルの青い目には銀色の輪が浮いて、肩まで届く銀髪はさらさらとしょぼくれた犬の尾のように流れ落ちる。


「あなたが日々、なんの力もない自分を呪って過ごしたように。今度はわたくしがあなたに依存し、あなたを尊敬し、自分の過去を悔やみながらずっと傍にいることを企んだのね?」

「……正解」

「おまえはなんて馬鹿な子でしょう」

「ごめんなさい」


芯からの謝罪だった。まるで神の前の国会のように真摯な言葉。戸籍上の母親とその娘を殺した手で、彼はリュシヴィエールの手を掴み直す。


「だって普通に学園を出て働きだして、王都に家を買って住んで、あなたを呼び寄せたって。ぜったい来てくれなかったじゃないか。たとえ来てくれたって、いつまでも姉として振る舞おうとするだけだったろう。俺は、知ってるよ。あんたはそういう人だ!」


もはや呆れ果てて言葉もない。リュシヴィエールはシィッと鋭い音を出し、エクトルは幼児の頃から変わらない角度で肩を跳ねさせる。そのままくどくど、言い訳するのもまったく全然成長していない。


「何度も考えたよ。あなたがこんな寂しい土地でも幸せに生きていられるのなら、それが一番なんじゃないかと。クロワ侯爵家の密偵全員を出し抜いてあなたを攫っていこうか、とか。でも。俺一人の力じゃあなたに相応の暮らしをさせてやれないじゃないか。それくらいは分かっているよ。俺はまだ、半人前だ」

「あのね、エル」


リュシヴィエールはエクトルを抱きしめ、骨ばった肩に額を寄せた。彼の両手は自然に彼女の背中を抱いた。


「知らないかもしれないけれど、わたくしは死んだあと、おまえの行くところに一緒にいきますからね。地獄まで一緒よ」


エクトルの呼吸が止まった。


「気持ちには応えてやれない。それだけはできないわ。でも、おまえが呼ぶなら王都だってどこへでも行ってやりましたとも。おまえに人を殺してほしくないけれど。ああ……」


リュシヴィエールは顔を上げた。エクトルの深い海色の目は潤んでいた。はくはくと薄い形よい唇が開閉して、真っ白な歯の先が覗く。


「わたくしのために彼女たちを殺してくれて、ありがとう、エクトル……」


リュシヴィエールは初めて、自分からエクトルに口づけをした。


彼の唇は温かく血が通っていた。


彫像のような美貌でも、大理石製ではなかった。


そのまま、二人、ただ並んでソファに座っていた。次第に手は絡み合い、身体は寄り添い合った。彼の体温はリュシヴィエールの身体をどんな火や魔法よりも温めた。


――母はビッチだったが果たして応接間のソファで仮にもおとうとと抱き合っているわたくしはなんなのだろう? ビッチよりタチの悪いなんかもっと下のものだ。


ぼんやりとリュシヴィエールは思った。エクトルの鎖骨のくぼみは彼女の頭蓋骨のラインにとてもよく合った。まるで神様が二人をより添わせるためにこの形に作ったのだ、と思ってしまったくらいには、陶酔していた。


エクトルはぽつぽつと語った。それはリュシヴィエールが知らなかった彼の過去だった。彼女に上手く上手く隠れて行った、あらゆる任務、修行。つまりは暗殺と肉体改造のこと。乙女ゲームで執拗に描写されたほどひどくはないけれど、よくもない、あらゆることを。


肉体を魔力で改造する格闘修行、ティレルに叩きこまれたあらゆる身分の人間の立ち居振る舞い、外国語、気配の消し方から鉤の開け方。


そして侯爵の手足となって働くことで、金策のための政略結婚から守られていたこと――。


「そういうことなんだろうと、思っていたの。お礼も言えていなかった。ありがとう、エクトル。わたくしを守ってくれて。わたくしを愛してくれて」

「いいよ」


とエクトルは笑った。全部織り込み済みだよ、と言うように。


「今ので全部、帳消しだよ、姉上」


エクトルの知る地獄をリュシヴィエールは知らない。同情も共感も彼の決意への侮辱だった。


リュシヴィエールのがさがさしてまだらに赤黒い手と、エクトルの真っ白で節くれだった手がずっとどちらかの身体の上で重なっている。互いの鼓動を感じている。


「許してね」

「許すよ」


リュシヴィエールはエクトルの顔が、左右対称に美しく整ったそら恐ろしいほどの美貌が、いつの間にか完成されていることに気づいた。もはや彼は子供ではない。自分の人生を掴み取ろうとしている人間だ。


何かを言いたかった。何か劇的なことを。何も思い浮かばない。


エクトルが離れていってしまうのが怖かったし、呆れられるのも怖かった。鼻の奥にまだ鉄錆のにおいが残っていて、思考はとろんと鈍重である。


扉の向こうで足音がして、ノックのあとティレルの声がした。


「おおい坊ちゃん。逢引も結構だがね、こっそり抜け出してきたんだから早く戻らんと。寮にいないことが見つかったら捜索隊が結成されちまう」


エクトルは忌々し気な舌打ちをすると、了承の声を上げた。


彼は腕の中のリュシヴィエールを見下ろし、それから驚いたように瞬きした。どうして彼女がそこにいて、どうしてそんな目で見つめてくるのかを束の間、忘れたようだった。彼は彼女に見入っていた。――火傷まみれで穴と凹凸だらけの身体の女に? こんな美しい少年が?


食いしばった歯の間から少年はリュシヴィエールの耳に囁きを贈る。


「俺がきちんとした大人になるまで待っていてほしい、リュシー。お願いだよ、姉上?」


エクトルはリュシヴィエールの頭を離した。


「ね?」


笑いかけられる。リュシヴィエールはくらくらした。エクトルの匂い、エクトルの手、エクトルの胸、エクトルのまなざし。


(死んでもいい)


とさえ思った。頭の芯から外側まで甘く痺れていた。


――リュシヴィエールはエクトルに諭されれば言いなりになるしかない。


残念ながら、人間同士、力関係が確定してしまえばそうなるものである。太古の昔からこういうことである。


エクトルが屋敷を出て行ったのはその夜のうちだったが、リュシヴィエールがようやく動けたのは翌日の朝になってからだった。


アンナは夜の間じゅう何度もうろうろと心配げに応接間を出入りしては、暖炉に薪を足し、肩掛けや毛布をかけてくれ、女主人を気遣った。


玄関の両脇の飾り窓から朝日が差し込んでリュシヴィエールはゆっくりと動き出した。緊張や凍結がとろけ、身体じゅうに分散されていく。もういないエクトルの髪の香りが自分の頬に残っているのを撫でた。


息を吸って、吐く。


エクトルがリュシヴィエールの弟に戻ってくれることは、永遠にないだろうと思い知った。


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