第三章 開放される者

 七月十八日。朝六時。

 この日の早朝から玲児は、ホール中を端から端へと行ったり来たりして掃除を始め出した。慣れない手つきだが、掃き掃除にモップ掛け、時間があれば窓ガラスも布で拭き、一生懸命に汗を流した。これを目にした看護師たちは思わず笑わずにはいられなかった。何せ昨日まで問題ばかり起こしていた玲児が一夜明けるとこうなのだから。


「こりゃあ、沖縄に雪でも降るぞ」


 周りが玲児をあざ笑うが、お構いなしとばかりに毎日暇を見つけては掃除をした。彼を支えていたのは≪外へ出たい≫というたった一つの強い欲心からである。

≪俺は負けない。自由がそこにある限り≫

そう自分に言い聞かせて日々を過ごした。


「玲児、俺も手伝ってやるぜ」

そう言ってきたのは祐樹だった。彼は院内で≪二つの顔を持つ男≫として名が知られ、一つの顔は人の命さえ奪いかねない≪冷酷無残な狼≫、そしてもう一つの顔は弱者を救う≪慈愛に満ちた神≫。正に盾と矛の二面を持つ男だ。

「大丈夫だよ、祐樹はそこで高みの見物でもしとけ」

「いいから、俺も手伝ってやるよ」

そう言うなり祐樹はそばにあった掃除道具を手に取った。その時の祐樹は≪神≫の顔だった。

「ありがとう、祐樹。作業が終わったら缶ジュースでもおごってやるよ」

「ジュースだって? 島酒じゃねーのかよ」

「だといいけどなあ」

二人は笑いながら掃除を続けた。

 しばらくして、玲児はこう聞いた。

「なあ、祐樹。お前って何の病気なんだ?」

「アンパンさ」

「なんだ、それ?」

「中毒のことさ、シンナーの。それを周りの連中はアンパンって言うのさ」

「なるほど……」

≪つまり、祐樹はシンナー中毒か≫

「ごめん、失礼な質問だったな」

玲児は気まずそうに謝った。

「別にいいさ、俺には俺なりのライフスタイルというのがあるからな」

「ライフスタイル?」

「そう。好きなことをして、好きな物を食べる。シンプルな生き方だよ」

≪こいつには病気を治す意思など微塵もないようだ≫

玲児はそう受け止めた。だが、祐樹は玲児の病気のことに関する質問は一切せず、ただひたすらに掃除をするだけだった。そう、それは祐樹の思いやりの一つだと言える。誰だって自分の病気のことを聞かれるのには気が滅入る。

≪まあ、時が来たら俺の病気のことも話そう≫

そう思って玲児も残った時間を窓拭きに費やした。


 その時だった。

「おい、玲児。俺の財布を早く返せよ!」

五十代の中年男、渚がいきなり突っ掛かってきたのだ。

「何だよ、渚。一体何のことだ?」

「てめー、ぶっ殺されてーのか。俺の財布を盗みやがって、しらばっくれるのか!」

≪なんだよ、意味がわなんねーぞ≫

「証拠はあるのか、俺が盗ったという証拠は?」

「そのジュース代は俺の財布から出したんだろ、殺してやる」

そう言っていきなり渚は玲児の顔を拳でぶん殴った。その勢いで玲児は身を崩した。

「な、なにすんだよ!」

玲児は愛目見当がつかない。それをただじっと見ていた祐樹の怒りが一気に沸点に達し、ついにもう一つの顔≪冷酷な狼≫を表す。

「おい、渚。財布にはいくら入っていたんだ?」

拳を鳴らして祐樹が問う。

「四百円だけど」

渚は祐樹のその形相をみると、少しビビッていた。

「ほほー、四百円。じゃあ四百円分の痛みを俺が返してやるぜー」

祐樹は拳で目の前の獲物の顔面をめった潰にした。

「いっぱーつ、百円。にはーつ、二百円。さんぱーつ、三百円……」

そしてとどめの一撃は。

「死のよんぱーつ。四百円だーっ!!」

そして渚は意識を失った。

「もうそのくらいにしとけって」

息を荒くした祐樹を玲児が抱きしめた。

「なあ、玲児。俺はよー、だちの為なら刑務所に何度でも入ってやるぜ」

「分かったよ。ありがとうな、祐樹」

辺りには鮮血が散った。祐樹はこの数時間で二つの顔『狼』と『神』という全く別々の人格を見せたのだった。

その後、異変の知らせを受けた男の看護師がやってきて、祐樹をナースステーションへ連行すると筋肉注射を打って保護室へとぶち込んだ。


 その日の夜七時。

 玲児は病棟ホールのソファーに座るとタバコを吸いながら考えていた。あの時の渚は被害妄想を起こしていたに違いない。でも、俺を初めに殴った渚に非はあるし、その仕返しに渚をぶん殴った祐樹にも一理ある。そんなことをしばらく考えていた。だが一番悪いのは何だか自分じゃないか、自分が渚を怒らせていなかったらこういう事態は起きなかったはずだと、そう自分を責めた。その時だった。

「今日の玲児君は元気がないですねー」

目の前にエミリが現れた。彼女は目はぱっちりとし、おちょこ口、顔は少し丸く背丈は百五十センチくらいでとても可愛らしい様相だ。玲児と知り合ってまだ間もないのにエミリは、どうしたの? 大丈夫? 何してるの? とよく質問してきた。

「ああ、何だか疲れちゃってさ」

「祐樹のことで悩んでるんでしょ。大丈夫、彼は強いから」

そしてエミリもタバコを吸いだした。

「いいのか、タバコなんか吸って。親に叱られるぞ」

「あら、私を子ども扱いするとはね」

しばらく二人はタバコの煙を吸っては吐いた。そして。

「あのね。実は今日、私の誕生日なんだ」

エミリは少し笑みを浮かべた。

「そっか、おめでとう。エミリ」

「もう二十四歳かー、若さが売りだった頃はどこへ行ったのかしら」

「ふふっ、まあまだ充分若いと思うけど」

玲児にはエミリの顔がなんか沈んで見えた。うつ病なのかと思った。でもあえて病気の話はしないことにした。

「私の人生を花で例えると金盞花。花言葉は『別れの悲しみ』よ」

「ほう、金盞花か……」

「私には数年前まで、付き合ってる七つ年上の彼がいたの。その人は既婚者でね」

エミリはタバコを灰皿に押し付けて消し、重苦しい表情に変えた。

「彼は私にこう言ったの。『俺は妻と別れて君と再婚したい。本気の証に君の望みを一つだけか叶えてあげよう』ってね」

「うんうん、それで?」

「私は望みとして『あなたの子を産みたい』と願いを言ったの。そしたら『分かった、それじゃあ今すぐにでも』そう言って私を抱いたの」

「ほほう、ドラマチックな展開だ」

玲児は話に聞き入った。

「そしてそれから彼と会うたびにホテルへ行ったわ。そして三ヶ月後、私は彼の子をみごもったの。それを知った途端、彼からの連絡は途絶えた。そして最後に手紙を送ってきたのよ。それには一言こう記されていた」


   これまで愛した君を永遠に忘れない


「それだけだった。子どもは中絶したわ。そのショックで私は病に陥った。信じることの意味を失った。この世は嘘が本当の真実なんだと思ったわ」

「なるほど、それじゃあその男に遊ばれてたってわけか」

「ええ。その記憶を思い出すと今だにパニック症状を引き起こすの」

≪惨い話だ。患者の発病原因はそれぞれ違うんだ。誰が一番苦しいとかってのは、きっとないんだな≫

玲児はそう思った。

「何か湿っぽい話になったな……でもさ」

「でも?」

「あーはーっはっ……って笑おうぜ!」

「笑う顔には……」

「福来る! だよね」

「そうさー、今は取り合えず、笑おうよ……」

「あーはっはっは、あーはっはっはっ」

二人は大笑いした。一瞬でもいい。その時はただ笑っていたい。玲児はそう思った。

「おい、そこのお二人さん。ついに頭がやられたか?」

何と祐樹が保護室から出てきた。

「祐樹、待ってたぞー」

「おかえりなさい、暴れん坊さん。ふっふっふ」

その後、三人は消灯時間まで笑い話で盛り上がり、エミリの誕生日を祝った。


 七月十九日。朝十時。

 祐樹はホールのモップ掛けを終えるとしきりにナースステーションのドアを気にしていた。

「どうしたんだ、祐樹。早いとこ次の作業へ移るぞ」

「ああ、分かってる」

祐樹は取り合えず窓拭きを始めた。

 その時だ。

 何でも屋の四十代後半の男は工具箱を手にぶら下げてナースステーションの扉を開けて入ってきた。

「カズさんじゃないか、待っていたよ」

「おやおや、大魔王の裕ちゃん。お前またこの病棟に入ったのか?」

「まあな、訳ありで」

「アンパンばっか食ってると、より一層頭が狂っちまうぞ」

「また皮肉かよー。せっかく仕事を手伝ってやろうと思ってるのさあ」

祐樹は開放病棟にいたころからカズさんと一緒に院内の電気修理、排水溝の掃除、草刈りといった何でも屋として作業をしていた。

「君は新患かい? 名前は?」

「坂本玲児です。俺も訳ありで入院中です」

「よし、じゃあ玲ちゃんと呼ぼう。遅れたが私の名は、何でも屋のカズだ。よろしくな」

カズさんはユーモアたっぷりのお調子者だ。

「カズさん、今日はどうしてここへ?」

「裕ちゃんのそのイカれた頭を修理しに来た。ほら、早く頭を出せ。緩んだネジを占めてやる」

そう言ってカズさんは祐樹の頭を両手で抱きしめた。

「またおちょくりやがってー!」

「わーっはっはっは。裕ちゃんの頭はちいさいねー。脳みそはいってるかー?」

「はっはっはっ!!」

その場には三人の笑い声が響いた。そしてカズさんが作業について話し始めた。

「実は今から男子風呂の排水管の詰まりを直す作業を行うんだが、お前たちも一緒にどうだ?」

祐樹と玲児は目を合わせるとカズさんに向かって『はい』と返答した。


 風呂場を覆う壁は無数のカビがこびり付き、湯船と言えば黒く濁った水が溜まっていて排水溝がその役割を果たしていないらしい。

「玲ちゃん、筒トラップを外してくれないか」

カズさんは工具箱から必要な道具を玲児に渡した。

「よし、いいぞ。次はヘアキャッチャーを取る。裕ちゃん、やってみろ」

「こうかよ、なかなか上手くいかないけど……よしできた」

「いいぞ、その調子だ。筒の下に髪の毛が詰まっているな。それを取り除くぞ」

次はカズさんが自分の荒れた細い指を使ってコックチップをなぞり、綺麗に掃除した。

「よし、後は排水溝を元通りに戻せば終わりだ」

そして約十五分程度で作業は終わった。

「ありがとよ、お二人さん。今度一杯酒でも飲もうな」

「冗談だろ、俺たちは入院中だぞ」

「まーた、真に受けるから裕ちゃんはー」

「はっはっはー」

≪カズさんは実に面白い人だ≫

玲児はそう思った。

 それから玲児は日々を祐樹と二人で毎日掃除作業したり、時にはカズさんと一緒になって病棟内の環境整備作業を行って心の余白を有意義に埋めていた。楽しい日々が続いた。気も随分と楽になった。一番変わったのは玲児自身の性格の変化だった。学生時代は社交的、その後虐めを受けて根暗になり、今また明るい性格を取り戻しつつあった。だがその反面、病院側への不信感は彼の心の中に灰色の雪のように徐々に積もっていくのだった。

そして時は過ぎた。


 九月十五日。

 その日の朝九時半。ドクターは若葉隔離病棟ナースステーション内の問診室にいた。

「よし、祐樹君を呼んでくれ」

その指示を受けた女性看護師は院内放送用のマイクを手にしてアナウンスした。

「お知らせします。石橋祐樹さん、ナースステーションまでお越しください」

その声を聴いた祐樹は病棟の奥にあるトイレで用を足していた。

≪何の用だ、俺は悪さなどした覚えはないぞ≫

そう思いながらナースステーションへやって来た。

「おう、祐樹君。前田先生がお呼びだ。問診室へ」

看護師の言われるままに従った。そしてインタビューが始まった。

「やあ、祐樹君。あれからどうだね?」

「概ね良好です」

祐樹が即答した。精神科医というのは患者が問診室に入った瞬間から顔つきを見て心理状況を察し出そうとする。だが今回の前田先生は既に問診結果を頭の中に用意済みだったのだ。

「いいかい、君の病状は服薬だけで回復するものではない。我慢と忍耐が何よりの特効薬なんだよ。だからそれを自覚して欲しい」

前田先生は祐樹に分かってもらおうとゆっくりとした口調で話した。

「自覚……ですか」

「ああ、その為にも今日から君には開放病棟へ移ってもらう」

「どうせまたアンパンを食べると思いますよ。それでもいいのですか?」

祐樹はにやりと笑みを浮かべた。

「精神力を鍛えるためだ。その為に私もベストを尽くして協力する。病棟移動は本日午後二時だ」

「分かりました。先生」

前田先生の言葉を聞いても祐樹は表情を変えることはなかった。開放病棟はある程度の自由は約束される。その限られた自由こそが彼を苦しめる源の一つとなっていたのだ。


 午後二時。

 玲児は心から目の前の男の開放病棟行きを祝福した。

「良かったなあ、祐樹。これでお前は自由だ」

「まあ、一応な。でも不安なんだ」

「どうしてだ? 嬉しくないのか?」

「玲児には分からないんだよ、本当の俺の気持ちがよ」

「本当の気持ちか。話してみなよ、俺でよければ」

「自分は我慢強い人間ではない。すぐ怒っては誰かをぶん殴ったり、傷つけたりするのが取り柄だ。そんな俺が自由を得てどうする」

祐樹は飲んでいたジュースを飲みほした。

「俺は……俺はそんな祐樹が好きだし、うらやましいと思うよ」

「へっ? どうしてだ?」

「だって人間は感情で行動する生き物だろ。俺は怒ることはあるが、ビビり屋だから感情任せに人を殴れない。お前みたいに誰かのために自分を犠牲にすることができないんだよ」

玲児はあの時のことを思い出していた。祐樹が渚をぶん殴った時のことを。

「短気は損気って言葉があるけど、俺は損ばっかりしてるんだ」

「確かにお前は短気だ。だけど言い換えればそれはお前の長所なんだよ」

「そっか……そう言ってくれる奴は玲児、お前だけだ」

「自信を持てよ、祐樹。俺はいつまでもお前の味方でいるから」

すると、そこへ一人の男の看護師がやって来た。

「祐樹君、病棟移動の時間だよ。準備はできてるかい」

「ああ、大丈夫です」

そして祐樹は足をナースステーションへと向けて歩き出した。そして後ろを振り向いてこういった。

「なあ、玲児。一足先に開放病棟へ行っとくよ。そこでお前が来るのを待ってるぜ」

「分かったよ。元気でな」

そして祐樹は若葉病棟を去っていった。

≪あいつの自由はきっと不自由と隣り合わせってやつなのか?≫

玲児は何だか、そう思った。


 そして時は過ぎていった。


 十月二十日。午後二時。

 沖縄の日差しもようやくその力をひそめ始めた初秋。玲児は各部屋を回って壁掛けの扇風機を布で拭いていた。

≪これで当分この扇風機もお役御免だな≫

「ねえ、玲児。少し休憩したら?」

「ありがとう、エミリ」

玲児が脚立から降りると、エミリがマグカップにコーヒーを注いで渡した。

「サンキュー。まあ沖縄もこれからは涼しくなるぞ」

「そうね、去年の今頃は暑かったけど、今年の冬はどうやら早く訪れそうだね」

しばらく二人はコーヒを飲んだ。そしてエミリが口を開いた。

「ねえ、玲児の夢って何?」

「夢? そうだなあ、本当の幸せを得ることかな。だがしかし病気を治したいって気は正直思ってない」

「どうして?」

「病気が治るってことは良いことかもしれない。でもそうしたら心が錆びちまう」

「錆びるってどいうこと?」

「一般社会の人間は入院の苦しみを知らない。俺たちが病院で日々戦って暮らして、傷ついて、心が折れて、人生のどん底に落ちた苦しみ。それを知らずに生きている」

「そうよね、私たちって他の誰よりも苦しい日々を送っているしね」

「俺のおかんの姉も病気なんだ。精神病でね。俺は小さい頃から夏休みになると面会によく連れていかれた。その時の病院の患者を見て思ったんだ。この人たちは普通じゃないって」

「へえ、その頃から精神病院のことを知ってたんだね」

「でも今は分かるんだ。幼い頃に見た患者たちの苦しみが。自分が病気になってみなきゃあ、それに気づくことはなかっただろうな」

「何事も経験だわ。私もそう思う」

「俺は忘れたくないんだ、この気持ちを。その力で誰かを幸せにできるとしたら、俺は病気のままでも構わない。それが俺の唯一の夢だ」

「じゃあ、本当の幸せって何だと思う」

「それは今は知らない。それを知るときはきっと……命の灯が消えるときかもな」

玲児は少し間を置いて、こう付け足した。

「苦しみは自分自身の心の肥やしだ。その肥やしが多いほど幸せの花も成長して、それに見合うだけの美しい花を咲かせるはずだ。俺はそう信じている」

「玲児……」

エミリは思った。本当の幸せって苦しみの分だけ大きくなること、そして負けないこと、自分自身を信じること、それを玲児から教わった。

「いけねえ、作業の続きをしなきゃあ」

そして玲児はまた脚立に上って扇風機を拭きだした。


 午後三時。

 その業者のおっさんは玲児に会うたびに決まってこの口癖から会話を始める。

「よう、色男。タバコ買わないかい?」

陽気者のそのおっさんは自分のことを「タバコ売りのポール」と名乗っていた。

「いくつ買って欲しい、ポールさん?」

「マルボロをワンカートンどうだ?」

販売機にタバコを補充しながらポールが言った。

「悪いけどそんなお金は持っていないよ」

「そっか、じゃあ今日はサービスだ。ほれ」

ポールはその茶褐色の指先で自分のタバコを一本取りだして玲児に渡した。

「サンキュー」

玲児は大切にそれを胸ポケットにしまった。

「そういえば色男、お前のことを看護師が探し回っていたよ。早いとこナースステーションに行ってみな」

「分かった。ありがとよ」

玲児は十数歩進んでナースステーション前までやって来た。すると突然、男の看護師が声を掛けてきた。

「玲児君、外出許可が下りたぞ」

「はっ?」

「一日に一度だけ売店まで行っていいと先生から連絡があった」

「本当ですか!」

「だが看護師同伴というお決まり付きでな」

「ありがとうございます!」

嬉しさのあまりその場で飛び跳ねた。

≪早く爺に報告しなきゃあ≫

一礼した玲児は二二〇号室にいる爺の元へと急いだ。

「爺さん、吉報だー!」

病室のドアをぶっ飛ばすかのように開けて玲児が部屋へ入った。

「どうした? 沖縄に雪でも降ったか?」

爺は何事かと思って目をきょんとした。

「外出許可が下りたんだ。どうだ、凄いだろ!」

「おお、そうか。そりゃあよかったなあ」

爺が誰かのために喜ぶとは珍しい。

「今から売店に行ってくる。何かおごってやるよ」

「それじゃあ甘い物、チョコレートでも頼もうか」

「へっ、爺さん糖尿病だろ?」

「まあいいじゃないか、体のことは自己責任だ。それと……」

爺は一つ間を置いた。

「医者はお前を試すために外出させるんだ。これからは逃げたいなどという感情は一切捨てろ、いいな」

「ああ、分かった」


 三時半。

 玲児は付き添いの看護師に続き、近道であるリネン庫を通って外に出た。

空は青く透き通っていた。そんな素朴なことになぜ今まで気づかなかったのだろう。いや、三ヵ月間もの病棟暮らしで脳みそが麻痺しているに違いない……そうも受け取れた。

 数段の階段を降りるとそこに錆びたプレハブ構造の売店が建っていた。

≪ここが店か。初めてのご訪問だな≫

スライドドアを開けて中に入るとそこには数種類の菓子パンが並んでいた。その向かいには髭剃りなどの雑貨。更にその隣にはアイスクリームの入った冷凍庫。まあ数分もあればどこに何があるか把握できるくらいの品揃えだ。

「はて俺は何しにここへ来たっけ?」

外に出ることだけで頭が一杯だった為、欲しい物を考えていなかった。取り合えず先にハムサンドを手にした。次に爺さんへのお土産であるピーナッツチョコを二つ取って奥のレジで会計を済ませた。

「もういいのか、買い物は?」

「ああ」

看護師の問いに一言だけ返した。

「せっかくだから、タバコでも一本吸ってから戻ろうか」

「それはありがたい」

看護師は意気なはからいをしてくれた。

≪今日は初の外出記念日だ、どうやら努力は報われたようだな≫

そう思いつつ、玲児はポールさんから貰ったタバコに火を点けた。


 二二〇号室。

 部屋では玲児の帰りを爺がベッドに座って待っていた。

「待たせたなー、爺さん」

「おお帰ったか、随分と待たされたぞ!」

「悪かったな……はいこれ」

玲児がピーナッツチョコレートを差し出すと、爺はしわくちゃの手で受け取った。

「まあここに座れ、吾輩はお前に大事な話がある」

その顔は真剣な様子だった。

「な、何なんだよ。畏まって」

「お前にこの話をするのは今しかない」

「ん? どうしたんだ?」

「いいか、玲児。お前はすでに医者の心を動かした。外出許可が下りたのがいい例だ」

「まあな、それで?」

「だが開放病棟へ移る条件はまだ満たされていない」

「他にどうしろってんだ?」

「もう一押し必要なんだよ」

「ひとおしねえ。一体何なんだ、それは?」

玲児はハムサンドを齧った。

「最後の一手は医者を喜ばす、ということだ」

「喜ばすだって?」

「医者の喜ぶキーワードがある。一つ目『先生のおかげで気が楽になりました』。二つ目『

先生を信頼しています』。そして最後は『先生に助けてもらいました』以上の三つだ」

「それをあの堅物に言えばいいってことか」

「よく聞け、『一回のインタビューに付き一つのキーワードを言う』これがツボだ」

「ふむっ、それじゃあ最低あと三回は機会が必要になるな」

「そう、さすれば閉ざされた開放病棟へ行くための条件は満たされるはずだ」

「分かった。それと、爺さん……」

「何だね、まだ何か疑問でも?」

「何でそこまで俺のことを思ってくれるんだ?」

その言葉を聞くなり爺は天井を見上げてこう言った。

「弱気は強み、弱さは人を助ける力だ。それはいずれ社会をも動かす大きな核となる」

「よくピンとこないな」

「吾輩はお前に期待しているんだよ。何かどでかいことを仕出かすのではとな」

「分からないよ、そう言われたってさ」

「なあに、時がお前を導くはずさ」

「そっか……」

玲児は爺が言った『何かを期待する』という言葉だけは心に刻まれた。


 それから二日後の木曜日。玲児は問診室で面談を受けていた。ついにそのキーワードを使う時が来たのだ。

「調子はどうだい、玲児君」

「はい、先生のおかげで気が楽になりました」

一つ目のキーワードを言った。その言葉を聞くと前田先生は『ふむっ』と腕を組んだ。

 その次のインタビューの日。

二つ目のキーワード「先生を信頼しています」と伝えた。

 そして十一月に入って初めてのインタビューでそれは起こった。

「どうだい、調子の方は?」

「先生に助けてもらいました」

最後のキーワードを玲児が口にすると、前田先生はついにその言葉を切り出した。

「よろしい。立派に回復してきたねえ、玲児君。君の開放病棟への移動を許可する」

「本当ですか!」

「ああ、二言はない。君がこうして私を敬う姿勢を嬉しく思う。移動予定は四日後の月曜日にしよう」

「ありがとうございます」

玲児は小さくガッツポーズをした。部屋へと足を運びながら、これまでのことを思い出した。開放病棟からの逃亡劇、初めてこの病棟に来た時のこと、爺さんや祐樹にエミリとの出会い、それから必死になって掃除をしたことなど、色んな思い出が頭の中で交差した。

≪人生まだまだ捨てたもんじゃない≫

そう思えるようになっていた。



 その光景を目撃した玲児はただびっくりして目をぱっちりと開けた。

「おう、いい乳してるなあ。もっと触らせてくれよー」

「キャーッ、ちょっと、看護師さんやめて!」

何と男の看護師が洗面所の奥で琴美ちゃんの肉体を両手で抱いていた。

「いいじゃねえか琴美ちゃん。ほら胸をもんでやるよ、ほらほらーっ」

「やだーっ、もうだめよーっ!」

看護師は琴美の体を大喜びしながら触りまくった。

「何してんだ、嫌がってるだろ」

玲児は近づいて拳を天に突き上げて威嚇した。それ以上は踏み込めない。今問題を起こせばまた目の前に用意された自由が逃げてしまいそうだったからだ。

「おお、玲児君。お前も一緒にどうだ。琴美ちゃんも喜ぶぞ」

看護師はそう言うなり、今度は自分の陰部を琴美の腰にこすりつけた。

「もう、やめてって言ってるでしょー」

「ほら、俺のあそこもなめなめしてよ、さあさあ」

そして看護師は自分が身に着けていた下半身の白い制服を下ろし始めた。

「やだーっ!」

琴美は発狂した。玲児はもう我慢が出来なかった。そして次の瞬間……

「てめー、ふざけんじゃねーっ!」

玲児は大声を張り上げると近くに有った棒たわしを握り、看護師の顔面をぶっ叩いた。

「た、大変だー、玲児が暴れたぞー!」

血を垂らしながら看護師は叫んだ。すぐさま三人の看護師が駆けつけた。

「こいつが突然俺を殴りやがった」

悪者に仕立てられた玲児は再び問診室へと連行され、再診が行われた。

「一体どういうことだね、玲児君」

前田先生は残念だとばかりに頭を抱えた。

「ただイラついていただけだ」

玲児が返答すると前田先生は一気に失望した。

≪何を言ったってそれは信じてはくれないだろうし、ただの言い訳だ≫

そう思い、玲児は真実は語らなかった。

「落ち着いていたと思ったらこの有り様か。開放病棟行きはなかったことにする」

「好きにしろ」

そう玲児は言い捨てた。その時だった。

「待ってください先生、私の話を聞いてください」

そこにエミリが割り込んできた。

「私は見たんです。あの看護師が女性患者の肉体を触って喜ぶ姿を」

「何だって!」

前田先生は困惑した。

「嫌がる女性の胸を無理やり触り、げらげら笑っていました。相手はしかも患者ですよ」

「それは本当のことか?」

「はい。玲児君は同じ病を持つ、しかもか弱い女性を助けるため、自分の将来を顧みずにあの看護師を殴ったんです」

「証拠はあるのかね、エミリさん?」

物事は真相に迫った。

「あります。あの看護師の手の匂いを嗅いでみてください。女性の香水の香りがするはずです」

そしてエミリはあの憎たらしい看護師を睨みつけた。

「君、私の前に来なさい」

真相を確かめようと、前田先生は看護師に命令した。

容疑者の汚名を掛けられた看護師はびくびくしながら前田先生の指示に従った。そして先生はその看護師の手に顔を近づけた。

「うむっ、これはまさしく女性の香りだ」

と、その時。

「す、すみません、先生。全ては私の出来心からしたことです!」

引くに引かれず、看護師は自ら白状した。

「何ということだ、これは病院にとっての一大事だ。君にはもう仕事を任せられない!」

前田先生は即、その看護師のクビを宣言した。そして玲児の顔を見てこう言った。

「玲児君。君のしたことは理にかなっている。実に立派な義を果たした。予定通り開放病棟行きを認める」

「ありがとうございます」

その場は丸く収まった。玲児はエミリに窮地を救われた。

 ナースステーションを出た後、玲児は感謝の気持をエミリに言い続けた。

「エミリ、本当にありがとう。おかげで助かったよ」

「別に私は真実を語ったまでよ」

二人の間には男女の垣根を超えた仲間という強い絆があった。


 十月二十四日。

 月曜日の朝、ホールの片隅に玲児の開放病棟行きを見届けようと、エミリと爺がやって来た。

「玲児、いよいよね。まあ色々あったけど、私はあなたから色んなことを学んだわ」

「吾輩はお前に出逢ってからというもの、何だか若返った気がするよ」

「チェッ、そのはげ頭のどこが若いってんだ、はげ」

「はげだと、馬鹿野郎。げんこつしてやろうか」

「はっはっは!」

そこには笑いの花が咲いていた。そして爺はある思いを玲児に伝えた。

「これからお前は自由を得る。しかしな……」

「しかし?」

「開放病棟とは仮初の自由ということを肝に刻んでおけ。そしてお前は本当の自由を求め続けろ」

「本当の自由?」

「なあに、吾輩が見込んだ男だ。意味は時期に分かるはずだ」

そして一人の男の看護師がやって来た。

「玲児君、時間だよ」

ついに別れの時が来た。

「さようなら、玲児。私の心はあなたと共に」

「さらばだ、息子よ」

「今までありがとう、エミリ、爺。じゃあ行くよ」

看護師が開放病棟へ続くゲートの鍵を解除した。扉が開くと玲児は振り向くことなく外に出た。そして扉が閉まり終えるまでエミリと爺は玲児の姿を見届けた。ゲートは閉まった。そして彼らを別々の世界へと別けた。少し強がりになっていた玲児も既に泣いていたのだ。

≪さようなら、また会う日まで元気でな≫

だがこれを最後に玲児は爺の声さえも二度と聞くことが出来なくなる。そのことを彼はまだ知らなかった。

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降る雨、晴れた青空 ~愛と自由を求めて~ 岡本蒼 @okamotoao

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