第二章 悲劇の逃亡者

 一九九八年 七月十六日。午前十一時半。

 玲児は目の前に待機していたタクシーへ飛び乗ると、瞬時にこう言った。

「早く出発してくれないか、俺は急いでるんだ!」

運転手はびっくりして、読みかけの新聞紙をぐちゃぐやにした。

「お客さん、行き先は?」

「何言ってんだ、それくらいもう既に知っているだろ!」

「はっ? 何を言ってるんですか?」

「だから行き先は既に分かるだろ!」

玲児はテレパシーという妄想に駆られていた。

「ちょっと待ってください、そんな無茶なことを言われても困るんですけど」

「仕方ない。そうだ、取り合えず浦添市に向かってくれ」

「浦添ですね」

≪不思議な客だな≫

運転手は少し頭を傾げた。


 退院すればいい、その選択肢を選ぶこともできた。その正攻法の道に舵を取れば、手続きだの何だので時間がかかってしまう。だが玲児は一刻も早く≪開放されたい≫という強い望みを抱いていた為に、突然≪逃走≫を始めたのだ。

 

 タクシーは走り出した。病院ゲートを潜ると高台の頂上から坂道を下り、そして草木の生い茂る景色が徐々に遠ざかっていく。やがて沖縄の主要幹線道路である五八号線へと出ると、玲児はその街並みに見入った。

 S市は沖縄本島でも主要都市のひとつであり人口六万人余り。湾岸沿いに市役所、野球場、商業施設等のビルが展開し、市の背後には古生層の山地が聳える。

 玲児はその風景を横目にし≪看護師の追ってが来るかも知れない≫という不安感に駆られて何度もタクシーの座席から背後を振り返えった。

 運転手はバックミラーで何度も玲児の様子を窺った。なんせ第一印象が風変りな客だからだ。そして興味津々にこう話しかけた。

「兄さん、何処の出身ねー」

突然のことに玲児は戸惑った。そして口を開いた。

「有賀島だよ。つまり俺は田舎者だ」

「そうか、、ここは都会でしょー」

「まあそうだね、でも近年大分風変りしたな」

「そりゃあ変わったさ、これまでは市の中心部が栄えていただろ。そこも今では随分と古びたねー」

「中心街か、そこのハンバーガーショップにはよく行くんだ。中でもテリヤキバーガーが好物でね。上手い具合の甘さにハンバークがしっとりとしていて、それがたまらなくいい」

「わかいねー、兄さんは。私はそんな店よりもそば専門の大衆食堂へよく行くんだよー」

「沖縄のタクシー運転手って大抵そうだよな。暇があればソーキそばを食べるってイメージがある」

「そうだねー。私も仕事柄、一日に一回はソーキそばを食べるんだ。いつ食べても全然飽きなくてさー」

「まあ、そばじゃないけど、俺のおかんの作るソーキ汁は最高なんだぜ。それを目当てに実家には多くの従兄弟がやって来るんだ。月に一度だけど」

いつしか運転手は玲児を≪感じのいい好青年だ≫と思うようになっていた。


 玲児は黒いジーパンの後ろポケットから折り畳み式の財布を取りだした。その時……

≪ヤバい、五百円しかないぞ!≫

玲児に一度目の災難が起きたのである。『どうしたものか、このままでは運転手に交番へ連れてかれる』そう思った。そして思い切ってあることを運転手にお願いをした。

「すみません、運転手さん。今、持ち金が少なくってさ。料金は着払いでいいかな?」

話が弾んで気を良くした運転手はこう答えた。

「ちゃんと払ってくれるなら何の問題もないよー」

「ありがとう、助かるよ」

案外すっかりとその災難は解決できた。


 S市を発って一時間半が経ち、タクシーはようやく浦添市内へと入った。そして曲がりくねった住宅街の狭い通りを進むと玲児は合図をした。そこは二階建ての鉄筋コンクリート構造の建物の前だった。

「運転手さん、ここで結構です」

「はいよ。料金は四千二百円だねー」

「今お金を取って来るのでちょっと待っててくれ」

玲児は一階の部屋の前に立つと、インターフォンを何度か押した。

≪何としたことか、最悪の事態だ≫

二度目の災難が訪れた。姉、荒木直子は留守だったのだ。しばらく玲児はそこに立ち止まり、何かいい打開策はないかと頭をめぐらせた。

≪そっか、確か二階には大家さんが住んでいたな。その人に頼んで見るしか手はない≫

それは咄嗟に思い付いた玲児の最後の頼みの綱である。そして大家さんの元へと向かい、階段を上った。

「すみませーん、誰かいますかー」

ドアの前まで来ると声を上げながらインターフォンを押した。するとドアが開いて六十代と見受けられる叔母さんが姿を現した。

「誰ですか、あなたは?」

「俺は坂本玲児といいます。姉、荒木直子の弟です」

「ああ、直子さんの弟さんですか。何用で?」

「実は急遽姉に呼ばれてここへ来たのですが、途中で財布を落としてしまって困っているのです」

玲児は事実は伝えなかった。

「それで私にどうしろと? まさか……?」

大家さんは近くに止まっていたタクシーに目をやると、話の続きを推測した。

「すみませんがタクシー代を貸してほしいのですが?」

≪やはりそう来たか≫

しかし、当然簡単に『はい分かりました』と了承するはずがない。大家さんはある提案をした。

「あなたが直子さんの弟であるという証明をして頂けますか」

「例えば?」

「そうですね、母のお名前と、生年月日、住所、電話番号をお聞かせください」

そう言って大家さんは黒いボールペンと小さなメモ用紙を用意した。

「母の名前は坂本早苗、生年月日は××××」

玲児は丁寧に答えると大家さんは最後に聞いた電話番号を復唱した。そしてこう話した。

「今から早苗さんに電話して確認を取ります。しばらくお待ちを」

大家さんは玄関の側に置かれた電話機のボタンをプッシュした。


 五分後。

 大家さんは≪深刻な事態だ≫とその思いを形相が表していた。

「今確認が取れましたよ、玲児君。望み通りタクシー代を」

財布からお金を取りだすと玲児に渡した。そしてこう言い足した。

「お母さんが私に、直子さんが帰ってくるまであなたを見守って置いてほしいと……とても心配していましたよ」

どうやら玲児の病気のことをおかんが話したようだと玲児は推察した。

「分かりました、ありがとうございます」

玲児が運転手に料金を支払った後、タクシーはビル街へと消えていった。かくして二度目の災難も無事乗り越えることができた。


 その場で二人は直子の帰りを待っていた。

「玲児君、病気なの?」

その言葉を聞いて推察は確信に変わった。

「そ、そうなんです。ちょっと心の病でして……」

「そうですか、大変ですねえ」

それから大家さんは玲児に、年齢、出身高校、趣味、好きな食べ物等、色々な質問をしてきた。そう、玲児は家さんの一方的な質問攻めにあってしまったのだ。


 四十分後。

 白い乗用車が二人の前で止まった。直子が赤ん坊を抱っこして現れた。

「どうしたのー、玲児! どうしてあんたがここに……」

直子が声を上げた。

「弟さんね。実は……」

これまでの経緯を大家さんは簡潔に説明した。

「そうですか、弟がご迷惑をお掛けして申し訳ございません」

そう言って直子は大家さんに頭を下げてタクシー代を返して礼を言った。そして二人は家の中へと入った。八畳間の洋室と、四畳半の畳間が一部屋、十畳間ノダイニングキッチン。玲児は直子に続いてリビングでコーヒーを啜った

「一体どういうことなの? あんた入院したんじゃなかった?」

生まれたばかりの赤ん坊をあやしながら直子が問う。

「そうだけど、病院は俺には合わない」

「じゃあ無断でここに来たってわけ?」

「ごめんなさい」

玲児は事の内容をあっさりと認めた。

「全くもう、あなたときたら飛んでもないことをしでかしたわね。今頃病院は大騒ぎになっているはずだわ」

「そんなこと俺だって。でも……でもさ」

「でも何よ、皆がどれだけ玲児のことを心配しているのか分かってるの?」

「姉さんに俺の何が分かるってんだ! 病院なんて大っ嫌いだ!」

玲児が大声を張り上げた。すると赤ん坊がうぎゃあと泣き出した。

「薬は? 薬はどうするのよ?」

「それは……」

直子は一つため息をついた。

「退院したいのね? だったら今からその手続きをしに病院へ行こう」

「本当? 本当に退院できるの?」

「ええ、仕方ないでしょ。薬もないんだから」

そして少し間をおいてから直子はこう告げた。

「でもこれだけは覚えといて、おばーはあんたのせいで死んだのよ」

直子は冷たい目線で玲児を見た。そうだ、もうおばーは戻ることはない、そう思って玲児はまた傷心に浸った。


 午後四時。

 直子は助手席のチャイルドシートに赤ん坊を乗せ終えると、次は玲児を後部座席に座らせた。そして病院へと向かい、その場を後にした。二人は病院に着くまでの二時間、一言も言葉を交すこともなく、ただ窓の隙間か入り込む風の囁きの音だけが、その静寂を解き除く独り言だった。


 午後六時前。

 玲児を乗せた車が学風館病院の玄関前で鼓動を止めた。それを待ちわびるかのように四人の看護師が玲児を待ち構えているではないか。その看護師は車から降りた玲児を検挙した。まるで玲児は事件を起こした容疑者のようだった。そしてすぐさま若葉病棟(閉鎖病棟)ナースステーションへ連れていかれると筋肉注射を打たれた。

「看護師さん、姉が退院手続きをするって言ってたよ。早くしてくれないか」

「ああ、そのことか。今日はもう遅い。明日の朝、前田先生が来たら話せばいいよ」

看護師はそう言いながら玲児を保護室へと誘導した。そこで彼を待ち受けていたのは懲役刑を受けた犯罪者が籠るような狭き空間だった。

≪何という部屋だ。ここは本当に人間が住む場所なのか!≫

玲児はまたしても災難に見舞われのである。

 看護師は玲児に睡眠薬を飲ませた。

「大丈夫、鍵は閉めないからね」

そう言い残すと看護師は一つの役目を終えて去っていった。独りぼっちになった玲児は三畳一間の保護室でしばらくじっと身を丸くした。

≪大丈夫だ。明日には退院できるんだ≫

その思いだけが彼の心を照らす一筋の希望の光だった。


七月十七日

 保護室で過ごした時間は玲児の心にどす黒いペンキで地獄の風景を描画した。

 朝九時半頃だろうか、一人の看護師が玲児のいる保護室へとやって来た。

「玲児君、前田先生が問診室で待っている。さあここへ」

前日から徹夜したであろう看護師は相変わらず丁寧に語った。

 玲児が問診室の青色のレースを潜ると、前田先生が深刻そうな面持ちで待ち構えていた。そしてインタビューが始まったのだ。

「玲児君、どうして病院から無断で抜け出したりしたんだね?」

前田先生はカルテに書き記された内容を確認し、質問した。

「病院は俺が嫌いなんです、だから今すぐ退院手続きをさせて下さい」

「冷静に考えてみなさい、君は病気なんだよ。治療が必要だ。それを受け入れなければ」

「もういい、早く手続きを!」

「それは無理だ。君の病状はかなり悪い。当分、閉鎖病棟に入院してもらう」

医師は長年の経験を活かし、ベストな方法を選んだ。

「何言ってんだよ、姉も退院させるって言ってたぞ!」

「しばらくの我慢だよ」

「ふざけるな、退院させろー!」

玲児は発狂し、暴れた。辺りはカルテや数々の書類で散乱した。

「注射を打ちたまえ」

医者の指示を受けた二人の看護師は、強引に玲児を押さえつけて腕に注射器の針を刺した。そして保護室へぶち込み、鍵をロックした。

そう、それから玲児の悪夢の閉鎖病棟入院生活が始まりを告げたのだった。


 開放病棟。

 ≪病は気から≫その格言を時に肯定し、そしてまたある時には否定する短気な男がいた。

近藤剛。

「俺のアルコール依存症は人生に花を咲かせました。改めて健康という素晴らしさを実感しています」

その言葉を聞いた前田先生は剛の顔の表情を見るなりこう告げた。

「実に素晴らしい発言だ、今日は堂々とそう言い切ったか」

≪何が花を咲かせただ、気分屋め≫

そして先生はコーヒーをすすりながらこう付け加えた。

「君の退院は当分ないと思いたまえ」

そう宣告された剛は≪今日も同じか、所詮退院なんて夢のまた夢だ≫と嘆くしかできなかったのだ。

 毎週月曜日は開放病棟のインタビューの日だ。今日もここぞとばかりにナースステーション前は患者が羅列している。

「次、広瀬京平君。中へどうぞ」

女性看護師に名前を呼ばれた京平は≪よっしゃー、今日こそー≫と気合を入れるために自分の頬を両手で二回叩いた。そして一呼吸おいてから青いレースを開けた。

「よろしくねー、先生」

躁うつ病(双極性障害)の京平は案外緊張もせずに用意されてた椅子に座った。そしてインタビューが始まった。

「ふむっ……」

前田先生は京平の目をしばらくじっと見た。一秒・二秒・三秒……

そして数十秒後。

「君は調子がよさそうだ。だがもう少し治療が必要だな」

「ちょっとまってさー、先生、俺はまだ何も喋ってないよー!」

「目は口ほどにものを言う、それだけだ」

「……そうですかー」

必要最低限の会話で京平のインタビューは終わった。そしてムースで固めたリーゼント頭を手でかきながら問診室を後にした。

 京平がナースステーションを出ると剛が待っていた。

「どうでした、インタビューは?」

「今日は三十秒でノックアウトさー。何が『目は口ほどに……』だよー!」

「はは、また何か訳の分かんないことを言われたんですね」

「ふざけてるよ、あの堅物頭。ふーっ、うつが酷くなるってもんだよー」

時に医者も誤診する。型破りな性格の京平にとっては毎回のインタビューがそうだと思った。そんな憂鬱感を救ってくれるのは決まって剛である。

「まあ、これでも飲んで元気を出してくださいよ」

そう言って剛が缶ジュースを渡した。そしてこう言った。

「京平にとっては今日も友引ですね」

「どういう意味か?」

「だって君が苦しむと僕も苦しいからさ」

剛が笑って京平を皮肉った。


 その時だった。

 一台のパトカーは学風館病院の玄関口に着くとサイレン音を消した。二人の警察官が後部座席に乗っていたある男を抱え込んで降ろした。男の名は石橋祐樹。彼は体をふらつかせ、一人で歩行するのが難しい様子だった。

「何の騒ぎだ!」

剛と京平もびっくりしてその場に駆けつけた。そして辺りに居合わせた者たちの視線は祐樹に注がれている。彼を待ち構えていた四人の男性看護師は警察官に代わって祐樹を抱えると、そのまま若葉病棟へと向かって行った。

「祐樹の野郎、またやっちまったか」

「そのようですね」

京平と剛は不安そうにその景色を最後まで眺めた。


 若葉病棟(閉鎖病棟)。

 ここはまるで映画で目にするような世界だった。一面灰色の壁に覆われて外気をも遮断された密閉空間はタバコの煙と匂いが充満し、患者を隔離してる。そこでの生活は次第に時が過ぎる中で、壁の向こう側の平凡な社会が恋しくなってゆく。


 祐樹はパトカーで搬送された後、若葉病棟ナースステーションで急遽インタビューを受けていた。

「祐樹君、また吸ったようだねえ」

飽きれた形相で前田先生が問うが、祐樹はそれに返答しなかった。彼は慢性有機溶剤乱用中毒、いわゆるシンナー中毒である。

「今すぐこいつを保護室へ叩き込め!」

先生の指示通りに看護師たちは祐樹を保護室へと誘導した。

 玲児がいる保護室の隣の部屋に祐樹をぶち込んだ看護師は、抜かりなく扉の鍵をロックした。それを見ていた玲児は≪こいつも暴れてここへ追いやられたのか?≫と思った。

 しばらく二人は各々の保護室で回り続ける時間を持て余した。その後、寂しくなってきた玲児は隣部屋の男に声をかけることにした。

「なあ、聞こえるかい。君、名前は?」

少し声を張り上げて玲児が聞いた。

「石橋祐樹だ。お前こそ名乗れ」

シンナーを吸って酔っていた祐樹は口をごもらせていた。

「俺の名は坂本玲児。訳ありでここにぶち込まれたんだ。君は何故ここへ?」

「いきなりそう来たか。それは想像にお任せする。」

そして祐樹は間を置いて話を続けた。

「なあ、てめーもこの保護室から抜け出したいか?」

「何だって? 抜け出す?」

それは無茶な話だと玲児は思った。何せ、この完璧に隔離された場所から抜け出すことなど不可能だと言える。

「お前はタバコを吸えるか?」

祐樹はいきなり玲児に問った。

「ああ、一日で一個吸うけど。それが何か?」

「じゃあ、ライターを俺に渡せ」

そう言って祐樹は金属製の扉のわずかな隙間から手を玲児へ差し伸べた。そして言われた通り持っていたライターを祐樹へ渡した。

「サンキュー。それじゃあ、ショータイム!」

それが病院の歴史に残る大惨事を起こす引き金となった。

 祐樹はライターを点火すると突然、何とベッドの上にあった茶色い毛布に火を付けたのだ。そして……

 火災報知器が病院全体に響き渡った。

「おいおい、一体何が起きたんだ?」

開放病棟にいた者、閉鎖病棟にいた者、全ての人々はぶったまげだ。

「火事だー、火事だぞー」

院内は騒々しくなった。慌てて逃げ出そうとして階段から転げ落ちる者、発狂してパニックに陥る者、意味が理解できずに佇む者、そして身動きの取れない身体に障害を持つ者もいた。

「皆さん、落ち着いて下さい。大丈夫です」

看護師たちはすぐさま患者をビル外にある駐車場まで誘導した。それから安否確認をし、患者は全員無事だという報告がなされた。

「出火場所は保護室だ!」

看護師たちは煙の立ち込めた保護室へやって来ると消火器を取りだして消火活動に当たった。

それから一時間ほど経ち、騒動は収まった。そしてしばらく院内は火事の話で持ち切りとなった。

 保護室は全焼し、隔離されていた玲児と祐樹は止むを得ず若葉病棟へと移された。そして、その場で……

「君が祐樹か?」

「ああそうだ。どうやらお前が玲児とやらか」

「祐樹、火事を起こすとはあんたもやるな」

「なあに、保護室から出るためだ。その為には俺は手段は選ばない」

「実に恐ろしい奴だな、お前は」

それが二人の初の顔合わせとなったのだ。

二人は今後、一緒になってあることを目指すことになる。


 七月十七日。夜十時。

 若葉病棟の初夜、玲児は二二〇号室の二人部屋にいた。ベッドに横たわると天井に設置されていた蛍光灯をじっと見つめて微動だにしない。

「おい青年、一体いつまでそうしているんだ?」

今日から共に暮らすことになった玲児の様子を見かねて、つるっぱげの老人が声を掛けてきた。それでも玲児は様子を変えない。

「いい加減にしろ、青年。挨拶の一つぐらいもできねーのか!」

それでも玲児は一点を見つめるままだ。

「チェッ、変わった奴だ」

しばらくして。

「俺の名は坂本玲児。あなたの名前は?」

ようやく玲児の沈黙が解かれた。

「吾輩の名は桐生陽介だ。お前がまともに名乗れるとはな」

この病棟では自分のなまえすら言えない者も多い。陽介は玲児が名乗れるだけの頭はあるようだとほっとした。

「爺さん、この病棟から逃げ出した人っているの?」

玲児は初めて目線を老人に向けた。

「逃げ出すだって! そんなことできたら吾輩は今頃ここにはいないよ」

「そうか、じゃあ外にでる方法は全くないと?」

「あるはずがない、ここは完璧に隔離されているしセキュリティも万全だ」

「そっか」

そして玲児はまた天井を見上げた。

「お、おい青年。まさかお前、ここから逃げ出そうって腹か?」

爺さんは身を起こして話を続けた。

「まあ、気持ちは分かるがそれは考えるだけ無駄というものだ。考え直した方がいいぞ」

そう言った後、二人は交わす会話もなくなり、眠りの途に着いた。


 七月十八日、朝九時。

 玲児はナースステーション前のホールで逃走作戦を練っていた。その時だ。

 ある患者が「タバコが切れたから開放病棟まで買いに行かせて欲しい」と看護師に頼んでいた。その患者は何とそのまま開放病棟へ向かって行った。

≪これだ、この作戦だ!≫

そして玲児はある作戦を決行する。しばらく落ち着いたようにタバコを吸い、その後。

「看護師さん、昨日はご迷惑をお掛けしてすみませんでした」

それは謝罪から始まった。

「お願いがあるんです。販売機のタバコが売り切れなので買いに行きたいのですが」

「本当に逃げないと約束できる?」

「当たり前ですよ。僕は病気です。中途半端に退院してもそれは治らないし」

「分かりました。では開放病棟の販売機まで行って買って来なさい」

「すみません、すぐ戻りますので」

その後、公衆電話の受話器を取ってタクシー会社にダイヤルした。

「すみません、学風館病院まで一台お願いします」

その後、看護師に開放病棟へと続くルートの通行許可をだされ、無事外にでた。

玲児は開放病棟の販売機でタバコを買う素振りを見せて時間を稼いだ。看護師は全く疑う気配はまるでない。そして……

≪五分経った。今しかない≫

階段を何事もなかったかのように下り、ビルの外に出た。そしてあらかじめ若葉病棟から電話で予約していたタクシーが、作戦通りに待機していた。そしてに乗車した。しかし……

「待ちなさい、玲児君!」

何と看護師に見つかってしまったのだ。

「運転手さん、有賀島行きの港まで急いでください!」

看護師が駆けつけた時には既にタクシーは出発ていた。しかし看護師はタクシーの会社名を把握していたのだ。

数分後。

 タクシーの無線があることを運転手に伝えて来た。

「只今、学風館病院にて黒いシャツを着た客を乗せたタクシーは、至急病院へ戻ってください。繰り返し連絡します……」

運転手はその情報から察して、この客のことだと気づき、タクシーをUターンさせた。

「待ってください、戻らないでください!」

「お客さん、勘弁してください。会社の命令には従わないといけません」

玲児は必死になって運転手の説得に努めたが、運転手は聞く耳を持たない。

 タクシーは再度、学風館病院へと戻ってきた。

≪終わりだ、全て終わったんだ≫

玲児は待ち構えていた三人の男の看護師に囲まれて、再び若葉病棟へと戻された。

「玲児君、また裏切ったわね。これからはもう一歩も外へは出しませんから」

女性の看護師にそういわれると怒りが爆発し、ホールにあったテーブルや椅子、灰皿を蹴っ飛ばして暴れだした。

「ふざけんな、俺は犯罪者か!」

「玲児君、落ち着きなさい」

「うるせー、貴様らに俺の何がわかるってんだ」

「早く玲児を押さえつけろ!」

そしてまた、男の看護師に押さえつけられて玲児は注射を打たれた。


 二二〇号室。夜十時。

 その日の夜、玲児は部屋でいつものようにベッドに横になり、ボーっとしていた。

「見事な逃亡未遂だったな」

居合わせた老人が皮肉そうに言った。

「知ってるのか、今日のこと?」

「ああ、吾輩は病院一の情報屋だからな。お前のことも耳に入っているよ」

「笑いたければ笑えばいいさ」

「そんなに外にでたいか?」

「ああ、出たい」

「その理由は?」

しばらく間を置いてから玲児は口を開いた。

「何かさ、今思うんだよな。自由っていいなって。この病院の患者は自由を求めたりしないのかなって思う」

「何故にそのようなことを考える?」

「さあ、今はまだ分かんない。でもこの病院は何かおかしい気がする」

今度は爺が間を置いた。

そして。

「教えてやろう、外へ出る唯一の方法を」

爺は白くなった長いあごひげをさすりながら言った。

「何だって!」

いきなり玲児は飛び起きた。

「だが吾輩はただで情報を教えるようなボランティア主義者ではない」

そう言って右手を差し出した。玲児はためらわずにポケットから百円玉を一枚出して爺に投げ渡した。

「ふふっ、よし、それじゃあ教えてやろう。耳をかせ」

二人は顔をいっぱいに近づけた。

「答えは一つだけ、それは『おとなしく時がくるのを待て』、だ」

「何だ、そんなことかよ!」

玲児は期待外れの言葉に落胆するしかない。

「しかたないだろっ、他に方法はない。いいか、玲児。外にでたけりゃおとなしく働け」

「働く?」

「ああ、朝起きたらまずホールの掃除をしろ。そして次の日は廊下だ」

爺はタバコに火を付けて話の核心に迫った。

「いいか、まずは看護師に好かれることだ。奴らはお前の一日中の行動をチェックしてカルテに記入するからな」

「へえ、それで、その次は?」

玲児は目ん玉を大きく開けた。

「インタビューは一番最後に受けること、これがミソだ。それによって落ち着いてきたなと看護師は思い始める」

「つまり、病院側から信用を得ろということか?」

「結論はそうなる。逃げることを考えるより、そこに頭を向けた方が一番の近道だ」

「爺さんはそれを知ってるくせに、何故まだここに?」

爺さんは遠くを見て言った。

「吾輩は二度、その手を使って開放病棟に出たことがある。だが……」

「だが?」

「吾輩は糖尿病をもっている。外にでりゃあお菓子を食いまくるんで、医者はついに吾輩を外に出さなくなったんだよ」

「そっか、それは……大変だな」

「玲児、こうしてお前を見ていると何だか昔の自分を思い出す。十年以上前のな」

「十年!」

それを聞いて玲児は気が遠くなった。目の前の爺さんはそれほど長く辛い病院生活を送っているのかと思うと、何だか胸が締め付けられた。

「つい、余計な話までしちまった。でもこれだけは覚えとけ、外にでたけりゃあ信用を勝ち取れ。分かったな」

「ああ、分かった」

「それでいい。吾輩たちは今後長い付き合いになりそうだ。よし、今夜は寝るとしよう」

爺の話を聞いて玲児の気持ちは少し変わった。『ここから外に出る道。それは信頼を得ることしかない』そう思えるようになった。そして爺の話した『信用を勝ち取れ』という言葉を信じてみよう、そう思った。

≪俺は負けないぞ、いつの日か周りを変えるんだ≫

そう、その思いを抱き始めたのはそれからだった。

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