第一章 降り出した雨

 一九九八年。七月三日。沖縄本島

 その男は総合病院のICU(集中治療室)で危篤状態に陥り、二十一年という若さで人生に終止符を打とうとしていた。

「本当に息子は助からないのですか……先生!」

坂本早苗はシワだらけの手を小刻みに震えさせ、酸素マスクで覆われた息子、玲児の顔をそっと抱き寄せた。

「はい。残念ですが最悪な場合に備えて身内や親戚関係者を呼んだほうがよいでしょう」

医者は玲児の死を宣告すると、早苗の肩にそっと手を当てた。

「う、嘘ですよね、先生。そんなの冗談ですよね!」

「申し訳ございませんが、彼が飲んだ薬の量は致死量を遥かに超えています。目覚めることはないかと」

「そんな馬鹿な、信じません。私は信じませんよ!」

「お母さま、気持ちは十分わかりますが事がことです。早く関係者をここへ」

「神様、お願いです。どうか玲児を、我が子を連れて行かないで」

そして数秒後、母の早苗はあまりのショックでその場でぱたりと倒れ、気を失った。

「早く点滴の用意を!」

側にいた二人の男性看護師は医師の指示で早苗をナースステーションの処置室へと運び、ベッドに寝かせた。そこへ玲児の姉、荒木直子が駆けつけて来た。

「おかん、大丈夫!」

そして生まれたばかりの赤ん坊を抱っこしながら、呆然とした面持ちで膝を床へ就いた。

「玲児君のお姉様……でいらっしゃいますか?」

看護師の問いに、直子は少し間をおいてからゆっくりと「はい」と返答し、首を上下へ振った。

「お姉様、お母さんよりも弟さんの命が」

「玲児は、弟は?」

「先生のお話しでは、弟さんはもう……助からないとの事で」

「そんな……」

 直子は看護師の誘導でICUへと足を運んだ。そこは惨い光景だった。玲児は鼻から管を通され、呼吸数、血圧、体温に加えて心電図などの波形情報をリアルタイムに測定する生体情報モニタ等、多くの先端医療機器が体の至る所に繋がれていた。直子はそれを見るなり手で口を覆うと思わず視線を横にそらした。しばらくして、ゆっくりとまた玲児の顔に目をやった。そしてこう思った。弟は間もなく≪死ぬ≫のだと。

「玲児……」

直子の頬を涙が流れてゆく。どうして神様はこのような無残な道を弟に用意していたのだろうか。

生命の危機が迫る玲児。彼がこうなった理由。そう、全ての原点はあの時から。そのストーリを少し振り返ってみよう。



 有賀島。沖縄本島から十五キロ離れた本部半島沖にある離島。フェリーで五十分、人口は四千人余りの小さな島だ。中央には『霧が山』と呼ばれる小高い山が聳え、訪れる観光客を季節を問うことなく出迎える。

 島民は農業や漁業で得た収益で生計を立てており、農業は主にサトウキビ、葉タバコ、電照菊、落花生栽培が盛んだ。

 そんな緑豊かな島で何不自由もなく、玲児は幼少期を過ごした。そして高校進学の為に沖縄本島へと出ると、青春という名の輝かしい時代を迎えるのだった。

 


時は一九九七年。

 玲児にとって高校時代は栄光の日々の連鎖だった。学年で偏差値はトップクラス。いわば優等生。パソコンを操らせれば、色とりどりに散りばめた細かなドット絵グラフィックを創作し、そして時には周りの生徒や教員までが絶賛する、沖縄の四季を彩るポエムを書き上げた。

 その時の玲児にはある思いがあった。それは≪一級建築士≫への憧れだった。従兄弟のお兄さんが一級建築士ということもあり、小さなころから建築士という言葉をよく耳にしていたから、そう考えるようになった。


高三のある日、玲児は大学進学という道を選択し、受験を決意した。そして至極当然という形で福岡県のとある大学『合格』を果たし、沖縄から海を渡った。

それは玲児の新たな人生のスタートだった。

 福岡での生活は≪平凡≫という二語で始まりを告げた。三畳一間のワンルームアパート≪緑樹館≫。そこで暮らす何気ない日々の中で、奇遇の縁で出逢った人々と絆を深めながら青春という日々を謳歌していった。友と一緒に趣味であるパソコンゲームに没頭したり、身近な出来事をネタにして漫画や短編小説を創作し、それで周りから笑わいを取るのが大好きだった。他の女子大生との合コン、飲み会、カラオケ、そしてボウリングなどの娯楽も思う存分に楽しんだ。だがやがてその日々に変化が現れた。大学の講義、特に専門分野の建築を学ぶうちに勉学に目覚めたのだ。

 

 玲児は建築士に成るのだ、その思いが強い夢となり、我武者羅に勉強に励みだした。巡る日々を≪勉学≫という時間で埋め始めた。それが実を結び、すぐさまその才能は開花した。

 彼の描き上げる設計図は実に素晴らしく、それは独創的、且つ画期的な発想を取り入れた作品だった。教授たちは揃って『美学の神髄を極をめているかのようだ』と称賛し、その才能を認めた。そしていつしか彼は≪天才≫という称号を得たのだ。だがそんな順風満帆な日々は長くは続かなかった。

 勉学に明け暮れる日々は反って社交的だった彼の性格をいつしか≪根暗≫という冷めた人格に一変させてしまったのだ。


 やがて天才と称される玲児に妬みを持ち始めた周りの学生たちや友までもが、彼を暗い虫≪ゴキブリ≫と罵って遠ざけるようになっていった。いつしか玲児は≪孤立≫し、更にその性格が≪虐め≫という悲劇を誘発させた。そう、玲児は天才と呼ばれるの見返りに惨い≪虐めを受ける≫という莫大な代償を支払うことになったのである。

 それを切っ掛けにして玲児はアパートでニート生活を送る日々に陥った。パソコンゲームに明け暮れるだけの孤独な生活。そんな日々が二ヵ月も続いた。そしてある日、突如彼に異変が起きた。そう、≪謎の声が聞こえる≫という不思議な現象である。


 謎の声、それは初め八階のアパートのベランダ越しに聞こえてきた。≪おい玲児、何してるんだ?≫という疑問詞だった。玲児は真相を確かめようとベランダに出てみた。

「ここはアパートの八階だぞ。誰かがいることなど有りえない」

やはりそこは一面草木に覆われた大地を見渡せるだけの高い場所に過ぎなかった。

 やがて謎の声は玲児の行動を観察しているかのような言葉になっていった。ゲームをすれば≪玲児はゲームが上手いな≫と聞こえ、お風呂に入れば≪お風呂は気持ちいいか≫とむやみに問いかけてくる。ある日、そんな謎の声に耐え切れず、これは何かおかしい、誰かがこの部屋に『隠しカメラや盗聴器を仕掛けたのだ』という疑念を抱き始めた。その思いに駆られて、タンスの中や部屋の隅々にその機器がないかと探し求めた。しかし幾ら探しても何もない。時間の経過とともに謎の声はエスカレートし、それらから逃れようとニートの玲児が唯一の友達である斎藤のアパートへと逃げ出した。斎藤にそのことを相談すると、彼はその声は『収音マイク』による嫌がらせじゃないかと話した。その言葉で玲児の頭には『尾行』と『監視』いう二つの言葉が脳裏に浮かんだ。そしてついに僅かな時間で」『ストーカ』という死神の存在をついに確立させたのだ。そう、それからストーカーから『逃げる』という衝動に駆られ、かくして玲児の日本列島縦断の『逃亡劇』が幕を開けた。

 

 玲児は少しの着替えを黒いボストンバックに詰めると、足早にアパートを後にした。

「奴らから逃げなけければ」

その思いだけで頭が一杯だった。玲児は近場の駅に来たがあえて電車には乗らなかった。

「奴らを巻くにはタクシーに乗った方が得策だ。行きたい場所を自由に変えられるからな」

その思いで駅の前に待機していたタクシーに乗った。

「運転手さん、悪いがとりあえずここを離れてくれないか」

玲児の言葉を聞くなり運転手はタクシーのアクセルを踏んだ。とその時だ。

≪玲児、逃げられないぞ≫

突然、タクシーの無線機からそう聞こえてきた。

≪玲児は気持ち悪い≫≪お前を絶対に許さない≫

無線機から聞こえる声は徐々にエスカレートしてゆく。そして玲児は小倉駅でタクシーを止めて下車した。

 

 玲児は懸命に駆けだした。『逃げるんだ』と必死だった。謎の声が聞こえる中、小倉駅の至る箇所を駆け回った。そして小倉駅で東海道山陽新幹線に乗車し、一路横浜に向かった。そこには従兄弟の海斗兄さんが住んでいる。

「横浜まで行けば大丈夫だ、きっとそれまでには奴らから逃げ切ることができる」

そう思っていた。新幹線の自由席に座ると窓から田園風景やビル街がスクロールしていくのをしばらく眺めていた。しかし……

≪玲児、お前は逃げられない≫≪死んでしまえ≫

まだ謎の声は聞こえてくる。そしてある作戦を思い付いた。それはストーカーを巻くという飛びっきりの『フェイント作戦』だ。

 新幹線は新大阪駅に停車した。その時だ。玲児はストーカーたちに予定通り作戦を仕掛けた。それは新幹線を『俺はここで降りる』と見せかけて、そして新幹線が再度出発する手前でまた新幹線に乗るというフェイントを掛ける作戦だった。『作戦はうまくいったようだ。これでストーカーを巻けた』と、そう思った。だが、しかし……

≪玲児は逃げられない≫≪ぶっ殺してやる≫

またしても謎の声がそう告げた。玲児のフェイント作戦は失敗したのだ。その場に居合わせた人々は彼を変人だと思って見ている。そして名古屋駅でも同じ作戦を使ったが、謎の声からは逃れられない。

≪死んでしまえ≫≪お前を絶対に許さない≫

そしてついに新幹線は新横浜駅に到着した。

 玲児は新幹線を下車して駅から出ると、公衆電話の受話器を握った。初めは沖縄の有賀島に住む母の早苗にダイヤルを回した。

「おかん、俺だ。玲児だ」

「おや、久しぶりだねー。元気だったねー」

母がその言葉を言い終えるか否かで玲児はこう言った。

「大変だ、おかん。俺は誰かに追われているんだ」

「はっ!」

「だから、追われているんだよ」

「本当かい!」

母はびっくりした。

「今、そいつらから逃げている途中だ。横浜まで来た。これから海斗兄さんの家へ行こうと思う」

玲児はそう言った後、海斗兄さんの家の電話番号を聞いてメモした。そして電話を切った後、今度は海斗兄さんに電話した。そして兄さんにも母に言ったことを同じように伝えた。

兄さんは≪今から駅まで迎えに行くからそこで待っておきな≫と言ってくれた。

 

 三十分後、海斗兄さんが茶色の軽自動車で玲児を迎えに来た。

「玲児、大丈夫か?」

そう言って兄さんは玲児が追っかけられているかどうか確かめようと辺りを見回した。しかし怪しい者など一人もいない。

「兄さん、助けて。お願いだ!」

身を震わせながら玲児が言った。

「まあ、取り合えず車に乗りなさい」

海斗兄さんに言われるまま、玲児は車の後部座席に乗った。そこで玲児は両手で頭を覆い、身を横にした。

「なあ玲児、誰も追っかけていないと思うけど」

そう言って海斗兄さんは玲児を宥めた。

 そして三十分後、兄さんの住むアパート≪蓮華荘≫に着いた。その頃にはもう兄さんは玲児の異常に気付き始めていた。

「いらっしゃい、玲児君」

アパートでは海斗兄さんの妻、里香姉さんが玲児を優しく出迎えた。料理を作りながら待っていてくれたのだ。辺りはもうすっかり夜が更けて、午後九時を過ぎていた。

「お久しぶりです、里香姉さん」

そう言って玲児は辺りの様子をじろじろと窺った。

≪逃げられないぞ≫≪殺してやる≫

謎の声はまだまだ玲児を苦しめる。

 兄さんは家に入ると玲児に缶ビールを差し出した。

「まあ、これでも飲んで落ち着きなさい」

玲児はその言葉に甘えてビールを飲み始めた。そして料理が目の前に並べられた。ゴーヤーチャンプルーや中身汁、それにサラダまで。

「ありがとう」

しかし玲児はビールを一缶飲んだだけで、食事にはほとんど手を付けることはなかった。謎の声と格闘し、時は過ぎてゆく。

 

夜十一時。

「もう疲れただろう、玲児。そろそろ寝ようか」

そうして海斗兄さんは布団を敷いた。玲児が横になると部屋の照明電気が消され、辺りは薄暗くなった。玲児は謎の声に耐えながら眠れぬ苦痛の一夜を過ごすことになったのである。


 翌日、朝六時。お姉さんに続いて海斗兄さんも目を覚ました。

「おお玲児。どうだ、寝れたか?」

そう兄さんに問われると玲児は軽く首を上下に振るが、現実は伝えなかった。そして玲児は急に自分のボストンバックを持ってこう告げた。

「ねえ、兄さん。俺、福岡に帰るよ」

「どうしてだ、もっとゆっくりしていけばいいじゃないか」

「いや、ただ……大学に戻らないとね」

玲児は、『これ以上海斗兄さんに迷惑を掛けるわけにはいかない』という思いで一杯だった。

「でも、大丈夫なのか?」

不安そうな顔つきで兄さんが問う。

「うん」

玲児は一言返答した。海斗兄さんは玲児を車に乗せると新横浜駅へ向かった。玲児は駅に着くとお兄さんにあるお願いをした。

「ごめん、兄さん。俺、お金が足りなくて……」

「だったらこれを持ってけ」

海斗兄さんは紺色のジーパンの後ろポケットから財布と取りだして、万札を一枚玲児に渡した。

「ありがとう、いつかきっと返すから」

玲児は駅の改札口を抜けると、一度振り返って海斗兄さんに手を振った。そしてホームへ向かう人混みに紛れて兄さんの前から消えていった。この出来事は玲児にっとって一生忘れることはできない苦い思い出となった。

 


朝七時十五分。

 駅のホームには博多向け東海道山陽新幹線が到着し、玲児はそれに形振構わず乗り込んだ。

≪どうせ逃げられないぞ≫≪地獄を見ろ≫

謎の声に心を痛打されながら、昨日横浜へ来た時と同じようにフェイント作戦を行いながら、名古屋を過ぎ、大阪を過ぎ、小倉駅を過ぎ、そして博多駅で降りた。

 玲児は駅の改札口を出るとタクシーに乗車するなり、運転手のおっさんにこう告げた。

「何処へでもいいから早く出発してくれ!」

「おいおい、青年。行き先が分からないと困るんだが」

≪いったい何だ、この客は≫

運転手はそう思った。

「そ、そうだ。天神通りに向かってくれ」

≪ストーカーから逃れられるなら行き場所はどこだっていい≫

 彼はひたすらにそう思い続けていた。

 天神通りでタクシーを下車すると、いきなり玲児は駆けだした。

≪逃げなければ≫

ビル街を駆け回る玲児は辺りの人々に対して『こいつらがストーカーか?』と思いつつ、ひたすらに駆け続けた。厚い夏の昼下がり。体中から滲み出る汗が彼の薄汚れた服と黒いジーパンを湿らす。疲れたら一休みし、また駆け出す。息を切らしながらそれを何度も何度も繰り返した。


 午後三時。玲児は再びタクシーに手を挙げ、乗車した。

「すみません、近くのビジネスホテルまでお願いします」

ついに肉体の疲労は極限に達し、彼は休息を求めた。

 タクシーはある十数階建てのビルの前にくると停車した。玲児は下車するとそのビルの前で少し立ち止まった。

「博多メインシティホテル」

その入り口の回転ドアを潜ると目の前には真新しいブラウン色の受付カウンターがあり、二十代半ばの女性のフロント係が二人待機していた。

「すみません、一泊したいのですが?」

「何名様ですか?」

「私だけです」

「かしこまりました、シングルルームですね」

係員に言われた通りに受付を済ませると、玲児は三〇三号室へ案内された。

≪中々シャレた設計じゃないか≫

荷物をテーブルの上に置くと、玲児は軽くバスルームでシャワーを浴びて、ここ二日間でかいた汗を流した。白い清潔そうなバスタオルで綺麗に体を拭くとバスローブを身にまとった。それから久しぶりにタバコを加えて火を付けた。しばらくボーっと一点を見つめた。その時だった。

≪聞こえるか、玲児≫≪お前は逃げられないぞ≫

何と壁越しの隣の部屋からまた謎の声が聞こえて来るではないか。ついに玲児の我慢は限界を超えた。そして決断した。

「もう駄目だ、俺。明日沖縄へ帰ろう」

玲児はシングルベッドの横に合った電話の受話器を取って沖縄の母にコールした。

「ああ、おかん。俺だ」

「玲児ねー、あんた今どこにいるの?」

母の早苗は心配そうに言った。

「博多のホテルにいる」

「今日、海斗から電話があってさー、あなたの様子が変だったって言ってたよ」

独特の有賀島なまりである。

「明日、朝の飛行機で沖縄に帰るよ。だから銀行にお金を振り込んで欲しい」

「うんうん、それがいいさー。早く帰っておいで、おばーも待ってるよ」

「分かったよ、それじゃあね」

ただそれだけを伝え終えると受話器を置いた。『さすがにストーカーは沖縄までは追っかけてこないだろ』という期待感が湧いて来る。だがその考えは甘かった。


 翌日の朝九時。

 玲児はホテルをチェックアウトするとタクシーに乗った。そして途中で銀行に寄り、お金を五万円下ろした後、福岡空港で下車した。搭乗手続きを済ますと朝十一時十分、彼を乗せた飛行機はフライトを開始した。


 午後一時三十分。

 沖縄に到着した玲児はタクシーに乗り、一気に港までやって来た。そして有賀島行きフェリーに乗船した。全ての悪夢から『開放された』と、そう思った。だがしかし……

≪ついにここまで来たぞ≫≪お前は逃げられない≫

悪夢の謎の声はついに有賀島まで追いかけて来たのだ。


 

 実家は沖縄古来の瓦屋で、そこでは母の早苗が自慢のソーキ汁を作って待っていた。

「ただいまー」

「よく帰って来たねー、玲児。おばーはうれしいさー」

初めにおばーが曲がった腰をかばうように四つん這いになって玲児に近づいてきた。

「おばー、元気だったか」

少し有賀島なまりで玲児が話した。

「玲児、おかえりなさい。怪我はない?」

母の早苗は目の前の頬のやつれた息子を見ると心を痛めた。

「おかん、俺はもう駄目だ。頭が狂いそうだよ」

家に着くなり玲児はそう言った後、すぐさま押し入れに籠って戸を閉めた。

「ど、どうしたのー。玲児。あんた大丈夫ねー」

「あいやー、たいへんなってるさー」

母はびっくりして持っていたお玉を床に落とし、おばーは涙ぐんだ。早苗とおばーはすぐさま玲児の異変に気付いた。『この子は病気かもしれないな』と。

それからというもの、玲児はほとんど寝ることもなく布団を体中に覆って寝るばかりだった。くる日も来る日も謎の声に苦しめられていたのだ。

≪ついに此処まで来たぞ≫≪お前を許さない≫

そんな声が一日中聞こえてくる。かくして日本縦断の逃亡劇は幕を閉じたが、謎の声はまだ消えることはない。


一九九八年 六月八日。

 ついに玲児は母の熱心な説得によって沖縄本島にある学風館病院精神科へとやって来た。外来病棟は多くの患者が様な雰囲気のオーラを発し、診察を待ちわびている。

 玲児は病棟に並べられてソファーに横たわると、両手で頭を覆った。

しばらくして。

「坂本玲児さん、一番診察室へお入りください」

医者のコールがホールに響き渡ると、早速診察室へ入った。

主治医の前田先生は初受診の玲児にこう言った。

「玲児君、君が聞こえるのは≪幻聴≫という幻なんだよ。それは病気の症状なんだ」

「でも俺にははっきりと聞こえるんですよ。まさか、病気だなんて!」

「君みたいな患者がこの病院には大勢いる。症状が重くなれば体に数々の障害が出る」

「じゃあ一体、その病気はどうしたら治るの?」

「取り合えず今日から薬を出そう、今後のことは様子を見てから考えよう」

「分かりました」

インタビュー(面談)は三十分ほどの時間をかけて行われ、初診後、睡眠薬と安定剤が処方された。その日から玲児は服薬を開始することになったのである。その服薬方法と言えば滅茶苦茶だった。幻聴のあまりの苦しさに昼間っから睡眠薬を飲んで寝る、それをひたすら繰り返すだけの日々。そんな同省もない生活が続いた。

 二回目の外来診察は二週間後でその時は五十日分の強い睡眠薬が処方された。それでも中々、玲児の症状は改善を見せない。


 七月二日。

 珍しくおばーが朝早くから台所で料理の腕を振るっていた。

「玲児、はいできたよー」

テーブルにヘチマちゃんぷるーとメインのソーキ汁が並べられた。

「ありがとな、おばー」

「たくさん食べなさい、栄養付ければ病気も直ぐよくなるよー」

「うん、いただきまーす」

玲児は小さい頃からおばーっ子である。

「玲児、おばーはいつでもお前を守っているよ。だから安心しなさいよー」

おばーは玲児が風邪をひいたとき、怪我をしたとき、泣いているとき、そしていかなるときも変わらずに玲児に愛情を注いでくれた。


 島の人々は温厚でとても優しい。特に従兄弟たちはこぞって玲児を心配してくれた。今こうして病に陥った玲児を心から心配してくれるのだ。そんな日々が続くと次第に玲児はそんな人々の心に甘えを持ち始めた。『俺は特別な存在になった』と思いだした。その考えは時間に比例してに大きくなり、いつしか玲児は周りの≪心配≫という気持ちをもっと得たいという欲望を心に生み出した。病気の苦痛、それに加えて周りが注ぐ愛情への喜びという二つの感情から玲児はあることを決意した。

「俺が死ねば自分は楽になれる。たとえそれが未遂に終わってもその見返りは周りの人々から『更なる愛情』を得られる」、そう考えてオーバードーズを試みた。

「それが俺の本望なんだ」

玲児は睡眠薬から安定剤に至るまで、大量の薬を冷水で一気に飲んだ。

数時間後、畳部屋で倒れていた玲児を発見した母、早苗は慌てふためいた。その後、玲児は島の診療所を経て沖縄本島の総合病院へ搬送されたのだ。

気付けば既に彼の天才と称された栄光の時代は終わっていた。



 現在。

 玲児は危篤状態に陥っている。直子は医者の指示に従い、親戚や関係者に電話で事情を伝え、病院へ来るよにと伝えた。

 翌日、朝九時半、病院待機所には喪服を着た人々が玲児の死が告げられるのを待っていた。


同日、午前十一時三十五分。

「早く電気ショックの用意を!」

ICUにいた医師と看護師はあわただしく動き回った。玲児の心肺機能がついに停止した。

ばらくして……

 玲児の心肺機能は再びそ活動を再開した。だが後はそれはいつまで持つかということだった。

 待合室では親戚一同は心配した面持ちでその時を待っていた。

「玲児がついに死ぬなんてな」

「ああ、本土の大学に進学させたからこうなったんだ。沖縄の大学にしときゃあよかったんだよ」

そこに集う者は揃って玲児の福岡行きを許した早苗を非難した。そしてしばらくして……


 同日、午後三時四十三分。

 奇跡は起こった。

「玲児、玲児君が目を開けました!」

ICUにかん高い女性の看護師の声がひびき渡った。そして主治医がやって来た。主治医はびっくりして玲児の容態を確認した。

「どうやら奇跡が起きたようです。この子は一命を取り留めました」

神は玲児の天界入りを拒んだのだ。すぐさまその報告は待合室にいた者たちに届けられた。その人々は目を覚ました玲児の姿を一目見ようとICUへやってきた。

「皆さん……俺は……」

玲児は喪服姿の親戚たちを確認した。とその時、今度はそこにいた直子を一人の女性看護師が呼び出した。

「電話が入っています」

看護師はそう言って受話器を渡した。

「はい直子だけど。ああ、俊一。どうしたの?」

「おばーが死んだ。急性心不全だとさ」

直子の夫、俊一は重苦しそうにそう告げた。

「何ですって!」

玲児にその一報が届いたのは三時間後のことである。

「へっ、おばーが死んだ! まさか……」

受け入れがたい現実だった。それは『おばーは俺に命をくれたんだ』『おばーは俺が殺したんだ』という人生で一番の後悔となって心に刻まれた。

「ごめんね、おばー」

玲児は点滴のしずくが一つ、また一つと落ちていくのを悲しげに見つめた。


 七月十四日。

 玲児は無事病院を退院した。おばーの葬儀には間に合わなかった為に、その日家に着くと仏壇に飾られたおばーの顔写真を見るなり大泣きした。

「おばー、ごめんなー!」

後は涙が止まらずに言葉にならない。しばらくしてから、母にこう告げた。

「俺、学風館病院に入院するよ」

「そうだねー、そのほうがいいさー」

母もまた泣き出して、玲児の体を両手でギュッと抱きしめた。


 七月十五日。

 玲児は母、早苗と一緒に学風館病院へやって来た。

「総合病院から私宛に情報提供がありました。事情は察しています。玲児君、入院しますか?」

前田先生は蒼いカルテを開いて言った。

「はい、入院するよ」

「お母様もそれでよろしいですか?」

「息子をよろしくお願いします、先生」

その後、入院手続きを終えた玲児と早苗は女性の看護師にビルの二階へと案内された。そして中央にある開放病棟ナースステーションで簡単な入院に関する説明を受けた。


 午後二時。

「玲児、頑張って病気と闘いなさい。天国のおばーもそれを願っているからさ」

母は玲児の肩に両手を当てた。

「分かってるよ、おかん」

「じゃあね……」

そして母、早苗はタクシーに乗ると港へと向かって病院を後にした。

 

 それから玲児の病院生活が幕を開けたのである。


 病室は開放風鈴病棟の二人部屋、二〇六号室だ。隣のベッドは空いていた。

 玲児は風鈴病棟ホールでタバコを吸って辺りを見回した。そこは普通の病院とはまるで違う異様な雰囲気だった。独り笑い、独り言、見た目から形相がヤバい者、大きなお腹を張り出して薄汚れた服を着てゲラゲラと笑う者など。そんな風景を見て、玲児は急に≪不安≫を覚えたのである。

 突然、見知らぬ初対面の患者が『おい、そこの青年。可愛い顔してるなあ。僕といいことしない」と言って性交渉を求めてきた。それで不安は≪恐怖感≫に変わった。揚げ句の果てにはげ頭がずっと玲児をにらみ続けていはいるし、いきなり発狂する者などもいる。『恐ろしい、ここはなんてところだ』と思った。やがて玲児の心に入院したことに対する≪絶望≫と≪後悔の念≫が生まれた。

「こんなところにいたら、俺まで気が狂っちまう!」

 そう思い、入院二日目の朝、玲児はある決意をし、行動を開始するのだった。


 いつしか既に、彼の心には冷たい雨が降り出していた。

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