第27話 そこにある空気感

 そこにある雰囲気や空気感を知るにはその場に足を運ぶのがいい。


 というわけでわたしはアンヘルの家を出たあと、少しだけ街を歩いてみることにした。


 わたしの見えているものが変わったのも関係しているとは思うが、いま街に満ちている雰囲気や空気感といったものが明らかに変質したように感じられる。はっきりと言語化できない違和感。


 アンヘルが住んでいる家があるのは三区の外れだ。比較的な裕福な中産階級が多く住んでいる地域で、銀行や大手の証券会社などが多く拠点を置いている地区でもあり、治安はかなりいい。


 そんな場所にうっすらと満ちているなんとも言えない空気感。ここにうっすらと満ちているなにかが健全なものではないというのは間違いなかった。


『なんというか妙な空気だな。見たところ、街並みからしてこの辺は治安がいい場所のように思えるが』


「あら、あなたもそういうのわかるのね」


『なんとなくな。そこにある雰囲気とか空気感なんてものはわりとわかるもんだろ』


「で、その雰囲気やら空気感からどういうものからどういうものが感じられるかしら」


『……そうだな。俺が感じるのは困惑と恐怖だ。ここにいる人間には強くはないが、漠然とそういうものがあるように思える。なにもなければ爆発はしないだろうが、それなりの燃料と火種が持ち込まれるようなことがあれば、一気に燃えていくだろうな』


 すぐに対処しなければならないというわけではないが、そのまま放っておくのは明らかに無視できない危険性を孕んでいる状態。各所で報じられている治安の悪化がそのうっすらとした空気感を作る一因となっているのは間違いなかった。


 街を見た限り、不審な人物もガラの悪そうな人物も見当たらなかった。場所柄もあるだろうが、多くは仕事中か仕事を終えて帰宅しようとしている男女ばかりである。見るからに犯罪に関わっているような雰囲気はなさそうな者ばかりだ。


 それにも関わらず、うっすらと感じられる恐怖と困惑。そういう報道をよく見かけるからというだけでここまで広くこの雰囲気や空気感は醸成されないだろう。


「どっかに、そういうのを扇動しているのがいそうね」


『かもな。扇動は秩序を乱す分断を作り出すのにうってつけだからな。人間かそれ以上の知恵をつけた忌み者なら、その程度のことをやってもおかしくないだろう』


「ただ暴れてくれるだけならそれを叩き潰すだけでよかったのに、こざかしい知恵をつけるってのは本当に性質が悪いわね」


『まったくだ。百年ぶりに呼ばれたかと思ったら、ここまでやり口が変わっているとは、本当に面倒くせえ。ここまで知恵をつけているとなると、決定的な状況になるまでは直接的な暴力は振るってこねえだろう』


「でしょうね。直接的な暴力は最後の詰めか、暴力に出る以外の手段ではどうにもならなくなったときでしょう。前者は言うまでもなく、後者もそうなる前になんとかしたいところではあるけれど」


 とはいっても、状況を考えると自分の期待通りに物事が進んでくれるとは思えない。理想は大事だが、理想を抱いた結果、見えるものも見えなくなってしまっては本末転倒である。犠牲が出てしまうことは承知で、犠牲を極力少なくするにはどうすべきか、結果として起きてしまった犠牲にどう対処すべきかを考えるべきだろう。


 わたしに力があると言っても、それは全能でも万能でもなく、すべてを救うなどは望むべくもない。実現不可能な願望など持っていたところでなにもならないのだ。


 なにがあっても犠牲を許容してはならないなどというような正義の味方面はなによりも我慢ならない。できもしないことを言っている暇があったら、いまできる最善を尽くすものだろう。どんなにきれいなことを言っても腹は膨れないし、銀行の預金残高だって増えないのだから。


「できることをできるだけやっていきましょう。結局、人間にできるのはそれだけだもの。起きたことは起きてから考えればいいのよ。明日のことは明日の自分に任せましょう」


 それで案外なんとかなってしまうのも現実というものである。所詮、人間も現実もその程度のものなのだ。それが起きてどうにもならない状態になってしまうときは、大抵はそれが起きるだいぶ前に詰んでいる場合が多い。ごくまれに本当にどうにもならないことが突発的に起きてしまうのも現実というものであるが、そういうのは事故や災害に巻き込まれるようなものなので、少なくとも現代の人間にどうにかすることは不可能だ。大人しく諦めよう。


『お前、たまに適当なこと言うよな』


「そうね。実務をするにあたっては適当なことも大事だもの。それにね、明日の自分にまかせると言っても明日の自分が面倒なことにならないようにしておくのも必要よ。結局、明日の自分も昨日の自分と地続きなんだから。それでもできないような状況ならたぶんとっくの昔に詰んでいる可能性が高いから、諦めたほうが苦しまずに済むわね」


 まあ、わたしは抵抗できるだけの力があるので、それができる限りは抵抗をするだろうが、それを他人にまで強要する趣味はない。


 三十分ほど三区を歩き回り、そこに満ちている雰囲気や空気感をなんとなく理解できたので、そろそろ帰るとするか。あんまり遅くなると、セレンが心配するし。なにより腹が減った。これから本格的に動いていくにあたって、ちゃんと食べて寝れることはとてつもなく重要だ。どこまでいっても、自分の身体というのは最後の最後まで付き合うことになる資本なのだから。


 そんなことを考えながら、薄暗くなり始めた三区の一つ奥に入った通りを歩いていると――


「ソラネ・スターゲートさんでよろしいでしょうか?」


 わたしに話しかけてきたのは恐らく二十代後半くらいと思われる男であった。


「俺はこういう者なんですが、ちょっとお話よろしいでしょうか?」


 そう言って男がわたしの前に差し出したのは、警察官であることを証明する証であった。

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