第20話 アンヘル・アッシュレイ
アンヘル・アッシュレイが社会は馬鹿で構成されていることを知ったのはいつのことだっただろう? 気がついたらそういうものであると認識していたような気がする。
そんな考えを持つに至ったのは、たぶん生まれた環境によるものであろう。己が生まれたアッシュレイという一族は色の称号を持つ多くの技術者、研究者を出してきた貴族の家系だ。生まれたときから多くの書物やら論文やらが身近にあり、それを当然のように摂取してきたし、親族の多くも勉学に秀でていた。
覚えている中でもっとも古いのは小学校に上がったばかりの頃。なんだか理解できないほど馬鹿な理由で喧嘩していた同級生を見て、ああこれが世の中の普通であると知ったのだ。
愚かであると思うと同時に、そんなヤツらのほうが当たり前であるという事実は幼くまだ外の世界を知らなかった当時の自分にとっては衝撃的で、なにより恐ろしいと思った。
いま思うとかなりスレたクソガキだったと思うところだが、かなり早い段階でそれを知れたのは幸いだったと言える。社会を構成しているのが馬鹿なのであれば、それから反目されるようなことをするのは損しかしない。数というのは暴力である。人が人である以上、圧倒的な暴力にはなすすべがない。であれば、多くを構成する馬鹿どもに敵視されない程度に無能であるように演じ、適当に合わせて利用しながら生きていくのが賢い生き方なのだ。
小学生になってすぐにそれを知ったことで、いままでずっと社会を構成する馬鹿どもから敵視されることはなかったし、うまいこと利用して得をし続けることもできた。
それに強い忌避感はなかった。現代社会がそういうものであり、それをどうにかすることもできないこともわかっていたので、すぐに諦めと妥協ができたからだ。そういうものであるという折り合いができて慣れてしまえば大抵のことはなんとかなる。人間というのはいつだって慣れる生き物なのだ。
なにより、馬鹿で構成されていなければできないこともある。社会を構成しているのが馬鹿でなければ、いま自分が行っている小遣い稼ぎは成り立たないのだ。
ネットワーク上のカジノ。暇つぶしに突貫で作ったものであったが、それがなかなかにうまくいった。
いや、うまく行き過ぎたと言ってもいいかもしれない。
大したことはやってないし、なにより違法でしかないのだが、ネットワーク上で違法なことをやっても露骨に同じ手段をやり続けたりしなければ、そう簡単に尻尾をつかまれないことはいままでの経験上わかっていた。ヤバくなったら適当に売りさばいて雲隠れしてしまえばいい。ネットワーク上で痕跡をごまかすこと自体はそれほど難しいことでもないのである。
うまくいったと言っても、これが違法であることに間違いない。いままでの感覚からして、そろそろ危険な気配を感じていた。人が集まれば、稼げるようになる反面、危険性も増大する。それが違法なものであればなおさらだ。
そろそろ手を引く頃かもしれない。ただ同然で売っても、損することもないので、足がつく前に引いておくべきだろう。
なにより、賭け事など馬鹿のやることだ。カジノなんてものはどうあがいても胴元が勝つようになっている。胴元にならずに賭け事に勝ちたいというのであれば、そもそも賭け事なんてやらないほうがいい。それ以外に勝ち筋なんて存在しないのだ。
そんなことすらもわからない馬鹿で社会が構成されているからこそ、賭博なんて娯楽が成立する。
それでも、馬鹿だからと言って侮ることはできなかった。馬鹿でも集まればそれは多き科危害を加えうる暴力になり得るのだ。
暴力は好きではなかったし、なにより女である。集団で暴力を振るわれなどすれば、勝てるはずもない。であれば、暴力を振るわれないように立ち回るより他になかった。
それにしても、こんな勝てるはずもない馬鹿げたことに熱を入れている人間が多いというのは驚きだ。登録者の中に自分が通っている学校の生徒の名もあった。いい家で生まれたからといって馬鹿ではないと限らない。それが知れたのもいい経験であっただろう。
それもそろそろ終わりだ。適当に偽装した経歴を使って、あのカジノを譲渡してしまおう。売ってもいいが、売るとなるとそれなりに手間がかかるし、資金を回収するとなると慎重にやらざるを得ないし、危険性もある。
あれを欲しがっている連中はそれなりにいるので、ただ同然で手に入るとなったら、多少危険性があったとしても問題はない。この手のことはいままで何度もやってきている。下手を打つことはまずありえない。
「はじめまして。あなたにお話があるのだけど」
そんなときに話しかけてきたのは、あのスターゲート家の令嬢である。本当に同じ人間なのかと思うほど異質な空気を纏った同級生だ。
「まあ、そんな風に構えないでちょうだい。別にとって食うつもりなんてないわ。食べるなら人間より牛や鳥や豚のほうがいいし」
それが冗談なのか本気なのか判断できなかったが、正直笑えなかった。こいつの前で平然と笑えるヤツがいたのなら、それはもうある種の才能であろう。
別段、彼女がなにかしているわけではない。威嚇しているわけでも、声を荒げているわけでもなかった。だが、自分には認識できないなにかが常に向けられているようにしか思えてならない。
人間の姿をした怪物というのはまさしくこいつのようなヤツのことを言うのだろう。そんな危険すぎるヤツと関わりたくはなかった。
「時間を取らせるつもりはないわ。別に大したことをさせるつもりもないから安心していいわよ。あなたにもいい条件を提示するし」
堂々と、王者のごとく言葉を発するスターゲート家の令嬢。かつて貴族と呼ばれた階級の中では、こういう生まれながらの王者ともいうべき存在は珍しくないが――
相対するこの女は、その中でもぶっちぎりの存在だ。こいつと比べれば、いままで見てきた似たようなものがすべて偽物だったと言えるほどに。
「調べたところによると、あなた随分と面白そうなことやっているじゃない。ネットワーク上のカジノでお小遣い稼ぎなんてね。高校生がやることじゃないわ」
予想していなかった言葉を聞き、自分の中で守ろうとしていたなにかが割れた――ような気がした。
「あら、顔に出すなんて年相応なところがあるじゃない。やられそうなことはちゃんと予想して対応できないと、足もと掬われるわよ。悪いことをやるならね」
「それでなんだよ、あたしを脅すつもりか?」
「なにを言ってるの。わたしがあなたを脅してなんの得があるの? なんか面白そうなことをやってるみたいだから、話のきっかけにしただけよ。あなたがわたしの関係ないところで悪いことをやっていようがどうでもいいし。さっきも言ったでしょう。話があるって。脅すならもっと別のやり方があると思うのだけど」
スターゲート家の令嬢は淡々とした口調で澱みなく言葉を紡ぐ。
しかし、その通りであるのもまた事実だった。脅すつもりだったのなら、もっといいやり方をすればいい。こんな風に前に出てきてやる必要性などどこにもなかった。
「わかった。話を聞いてやる。だが、その代わりどうしてあたしがアレをやってることを知った? 足がつくようなことはやってないはず」
「知り合いに尾行とか調査が得意な娘がいてね。その娘にやってもらったわ。わたしはネットワーク関連のことはそこまで詳しくないし、その手の基本はゴミ漁りっていうでしょう?」
その言葉を聞いてぞっとするしかなかった。どこまで調べられていたのかわからなかったが、間違いなく深いところまで調べていなければ、自分があのカジノを作ったことなんてわかりようがなかったからだ。
「今回はこんなことになってしまったけれど、次回からそんなことをするつもりはないわ。まあ、あなたがわたしの敵にならなければの話になるけれど」
「あんたの話を聞いて、断ったらそうなるのか?」
「別に。そんなことはないわよ。それとこれとは別のことだもの。断ったくらいで敵にするくらいなら、わざわざこんな風に話をする必要なんてないじゃない。それとも、わたしがそこまで器が小さいように見えるのかしら」
見えるか見えないかで言えば、まったくわからないとしか言いようがなかった。あまりにも得体が知れなさ過ぎて、なにをしてもおかしくなかったからである。
でも、こちらを騙そうとする意図は感じられなかった。
それはいままで悪事をやってきて培われた勘だ。嘘を言っているヤツ特有の雰囲気がまったく感じられない。
話を聞くくらいなら、いいかもしれない。どうするかはそれから判断すればいいだろう。
「……わかったよ。で、話ってのはなんだ?」
「率直に言えばね、あなたのその技術を使ってわたしに協力してほしいの」
「……そんなことでいいのか?」
「なんで? あなたにさせるようなこと他にある?」
確かにその通りであるが、はっきりとそう真正面から言われて、なぜか悲しい気持ちになった。
「でも、わたしに協力するってことは危険なことになるってことも理解してほしいところね。その代わり、できる限りのことはさせてもらうわ。そこは出し惜しみするつもりはないから遠慮なく言ってくれていいわよ」
「そこまで言うって……詐欺じゃなかったらなにをさせるつもりだよ」
「なにかっていうと、こんな感じね」
スターゲート家の令嬢はまっすぐこちらに近づいてきて――
その指が額に触れた瞬間――
「それでどうするか決めてちょうだい。また来るわ」
この女がなにをしようとしているのか、なにをさせようとしているのか、すぐに理解できた。
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