第17話 ブルース・ウェイグラッド
――生きるのであれば、正しくありたい。それはブルース・ウェイグラッドにとって生きるための至上命題と言える。
両親が法曹である家庭で生まれ育ち、その仕事ぶりを見ていたブルースがそう考えるようになったのは必然であった。
だが、正しくあるというのはなんだろう? 正しさというのは一定のものではない。自然法則や方程式のように普遍的な正しさなんてものは存在しないのだ。
現代において正しいとはなにを指すのだろう? 法律を順守することか、それとも正義を成すことか、あるいは悪と呼ばれる存在に鉄槌を下すことか。それはいる場所や取り巻く状況、人間によって大きく変わるものだ。正しさという概念に普遍的な正しさなんて存在しない。それがいままで生きてきたそれほど長くない人生の中で出た結論であった。
普遍的な正しさなんて存在しなくとも、正しくあるというのは大事である。人というのは簡単に悪へと墜ちる。正しくあろうとするのは、悪に落ちずに生きるための規範であると言ってもいい。規範もなく正しくあれるほど、人間は強くないものだ。魔が差し、一時の欲望に目がくらみ、悪を成してしまうことも往々にしてある。両親のもとに弁護を頼んできた依頼人がそうなっていたことも幾度も目にしてきた。
それでもなお、ブルースは正しくありたいと思っている。将来、両親と同じ道を歩むのであれば、そうあり続けなければならないのと思ったのだ。
誰か一人でもそうしていなければ、この世界に正しさがなくなってしまうような気がしたから。
そんなはずはない。たった一人が正しくいようがいまいが、世界がどうにかなるはずもないのだ。そんなことはとっくの昔に理解していたはずなのに、そうせざるを得なかった。
――たぶん、自分は正しさに狂っているのだろう。
何度かそう思ったことがある。いつだって正しくあろうとあり続けるなんて、まともな人間からすれば狂気としか言いようがない。正しくあり続けるというのは極めて効率が悪いのだ。
正しくあろうとしたところで、得をするわけではないというのが人間であり社会である。それどころか、正しくないほうが得できる場合も珍しくない。
正直者が馬鹿を見る――なんて言われるが、その言葉はよくこの人と人が作る社会をよく表している。正しくあろうとするより、正しくあろうとする人たちにただ乗りしたほうが楽なのだから。
人というのは楽をしたがる生き物だ。楽をできるのであれば、そのほうがいい。知識も、そこから生み出された技術も、つまるところそれが目的なのだ。楽をしたいという願いは人間を、社会を動かす原動力なのである。まったくもってその通りだと思う。正しくありたいと願っている自分も、その恩恵を受けていることに事実なのだから。
「ブルースくんよぉ、なに反抗的な顔してるんだ?」
そう言ってきたのは家柄だけはいいこの学校によくいるボンクラの一人。ブルースのことを数人で取り囲んで暴力を加えながらにやにやと笑っていた。
数人で取り囲んで、暴力を振るったり、金をせびったり、それを拒否すればまた暴力を振るってくる。
こんな目に遭うようになったのは、同じ組の大人しい子がこのボンクラどもにいじめられていたところを助けたからだ。弱い者を虐げて、悦に浸る。そういう正しくない連中なんてどこにでもいる。家が裕福であろうと関係ない。コイツらのようなクズはどこにでも現れる。本当に不愉快な存在だ。
彼がもう一度、被害に遭わないために、このような目を受けていた。ここで自分がやり返せば、こいつらはまた彼に手を出すだろう。
助けるのであれば、助けて終わりであってはならない。父がよく言っていたことだ。
「おらぁ! 黙ってんじゃねえよ!」
ボンクラがブルースの腹に拳を叩き込む。大した頭もない癖に、悪知恵ばかり働くこいつらはまさしくゴブリンのような連中だ。金持ちの家に生まれて、どのように育ってきたらこのようなゴブリンに育つのか理解できない。自分よりも遥かに恵まれている環境であったはずなのに。
思い切り腹を殴られたブルースは思わずうずくまる。ゴブリンどもがこちらを見下ろして笑っていた。ああ、本当にどうしてこうなのだろう。こんなどうしようもないクズがいるから、この社会は――
「随分とひどい状況ね」
気が付くと、ブルースの目の前にいたのは女子生徒。この学校の有名人である、スターゲート家の令嬢だ。いつの間に、というかなぜこんなところに? そんな疑問が浮き上がってきたが――
「おい女! どこから――」
「邪魔よ」
スターゲート家の令嬢に近づいたゴブリンが、急に糸が切れたように膝から折れてそのまま動かなくなった。その倒れ方は、的確に顎を撃ち抜かれたときのもの。格闘技で何度か見たことがあった。
「わたしはあなたたちが可愛がってたブルースくんに話があるのであって、あなたたちにはなにもないの。邪魔するならそれなりのことをするけれど、その覚悟はあって?」
同じ人とは思えないほどの異質さを放ちながら、ゴブリンどもに相対するスターゲート家の令嬢。数人の男を前にして、恐れている様子はまったくなかった。ゴブリンどもも、その圧倒的な空気に思わず気圧される。
「おい……こいつ」
ゴブリンの一人が、彼女が何者であるか気づいたらしい。六盟主たるスターゲート家はこの地区では最大の資産家である。その令嬢に手を出したとなったら、大きな問題になる可能性が大いにある。
「あら、わたしが誰かわかった途端にビビりだすとか、さすがこんなこすいことをする連中ね。こすい連中だからこそこんなことしかできないのか。ま、そりゃそうよね。いじめなんてやるの、こすくて無能である馬鹿の証明だもの」
スターゲート家の令嬢による露骨な挑発。その言葉を聞いたゴブリンどもから苛立ちがはっきりと感じられた。
「警告しておくわ。わたしはそこの彼と話があるのであって、あなたたちにはなにも話すことはないの。さっさと消えないと、あなたたちがこれまで彼にやっていたことをバラすわ」
そう言って端末の画面に映ったのは、いつしかの光景だった。自分がゴブリンどもに暴力を振るわれている動画。大きな画面で見れば、暴力を振るっているヤツらの顔も充分特定できるだろう。
「これが世間に流失することなったらどうなるかしら。こうやって脅されたりしたら、思わず公開しちゃうかもね。これでわたし怖がりだから。その結果どうなるかはわからないけれど、気になるわね。ちょっと試しにやってみようかしら。流行りの炎上ってやつ。別にこんなのが世間に流れてもわたしは困らないし」
見せびらかすように端末をもてあそぶスターゲート家の令嬢。
それを突き付けられたゴブリンどもに動揺が走るのが見えた。
「てめっ!」
そう言って、ゴブリンどもは愚かにもその端末を奪おうとする。
奪おうとしたゴブリンはスターゲート家の令嬢に足を払われ、宙に浮いた身体に手を触れると、弾けたように吹き飛んだ。吹き飛んだゴブリンはそのまま昏倒する。
「あらやる気? いいわよ。喧嘩なら言い値で買ってあげるわ。盛大にね。どういう結果になるかはわかりきっているけれど、売られたものはちゃんと買ってあげないと失礼だもの」
二人倒されたゴブリンどもは完全に戦意を失っていた。どうあがいたところで、この令嬢に勝てないという現実を突き付けられたのだ。
「くそ」
吐き捨てるように言って倒れた二人を放置して去っていくゴブリンども。
「手ひどくやられていたようだけど、大丈夫かしら」
しゃがんで倒れこんでいたこちらを覗き込むスターゲート家の令嬢。確かにこちらを見ているはずなのに、自分を見てないように思えてならなかった。
「ひとつ言っておくわ。正しくあろうとするのはいいけれど、それを貫くつもりなら強さが必要よ。要は暴力ね。必ずそうしろってわけではないけれど、選択肢ってのは多ければ多いほどいいものよ。正しさに目がくらんでそれを減らしてしまうのは愚策としか言えないわ」
なによりも冷たい声でスターゲート家の令嬢は言う。
確かにその通りだ。いままでこのような目に遭ってきたのは、自分に力がなく、それを振るう覚悟もなかったからに他ならない。
「でもまあ、あなたなかなか面白い人間ね。こんな正しさに狂ってる人間なんてそうそういないもの。決めたわ。わたしに協力してくれない?」
どういう意味だ? そう言おうとしたが、腹を思い切り殴られていたせいで声が出てくれなかった。
しかし、自分が正しさに狂っているという評価は間違いなく正しかった。
「わたしに協力をしてくれるのであれば、正しさを貫くだけの力を進呈するわ。どう? ほしいかしら」
断る理由などどこにもなかった。
正しくあろうするのであれば、正しさを貫き続けるのであれば、力が必要だ。
息を整えながら、ブルースは頷いた。
「それじゃあよろしくねブルースくん。わたしとの契約を守っている限り、その力を自由に使うといいわ」
そう言って彼女はブルースの額に触れる。
同時に、とてつもない衝撃が脳髄を駆け巡って――
ブルースの意識は暗黒へと墜ちていった。
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