第14話 ジャック・マスターズ
ジャック・マスターズは何よりも人というものが嫌いである。
自分が生まれた二十二区は治安が悪い。そういう場所に集まっている連中というのはえてしてその在り方が醜いものだ。育ちが悪けりゃなにもかも悪くなると言ってもいい。健全さなんてどこにもない。まともなヤツなんてのは搾取されるだけの存在でしかないのだから。
幼いころからそんな醜さばかりを見て育ってきたジャックが人を嫌うことになるのは当然だった。
なにより、環境を変えるために死ぬほど勉強してこの学校に入って実感したのは、満ち足りていることは健全さをはぐくむということだ。ここでは、二十二区で当たり前だった人の悪意や暴力は限りなく少ない。まあ、ここでもカスみたいな人間もいるが、あの場所に比べればたかが知れている。
――少なくとも俺には関係ない。他人を気にかけたところで、損ばかりするというのはわかりきっている。自分に被害が及ぶのなら容赦をするつもりはないが。
なんとかしてあの場所から脱しなければと思う。あんなところにいつまでもいたら、まともな暮らしなどできなくなる。ここに通わせてもらうために母に無理をさせてしまっているし、なにより歳の離れた妹には中学くらいまでにはまともな場所で生活させたいのだ。
だが、学校に通うというのは金がかかるし、金持ちが集まるような私立であればなおさらである。一応、いまのところ奨学金と学費の何割か免除はされているものの、二十二区で暮らしている自分たちにとってそれが厳しいものであることは言うまでもない。
母は気にせず勉学に励みなさいと言っているが、無理をしているというのはこちらからでも感じられるし、なにより気が引ける。
とはいっても、学校のあとに働くというのも、しっかりと授業についていこうと思うとなかなか厳しい。本当にこれでいいのだろうか。最近はそう思うことが多くなった。
「少しお話があるのだけど」
いきなりそう話しかけてきたのは同級生の有名人。この地区における最大の資産家にして実業家の六盟主スターゲート家のお嬢様だ。
背の高いジャックよりも頭二つ分ほど身長が低いというのに、相対した者を瞬時に威圧する存在感。その纏う空気からして他の連中とは明らかに違う。
金持ちのお嬢様というより、二十二区に巣くう犯罪者組織の元締めに近い。
「……いいけど、なんの用だよ。忙しいからさっさとしてほしいんだが」
「そんな焦ることはないわ。あなたにとっても悪い話をするつもりはないし」
「そういうこと言うヤツに限って悪意があったりするんだよな。馬鹿にしてんのか?」
「まさか。わたしがあなたを騙してなにか得をすると思うの? あなたのいままでの環境を考えれば、わたしの話を信じられないというのはわかるけど」
どうやら、こちらが二十二区の生まれであることはわかっているらしい。この女は、それをわかってて話しかけていることに間違いなかった。
確かに、この女を言う通り自分を騙したところで得られるものなんてないというのは事実である。なにより相手はこの都市でも有数の資産家である。二十二区に暮らしている野良犬を騙す必要なんてないだろう。
だからこそ、得体が知れない。
――なんつーか、人間と話している感じがしねえ。なんなんだコイツ。
異様な空気と存在感に見えない目的。
二十二区にもなにが目的なのか見えない人間はいたが、ここまで見えてこないのははじめての経験だった。
「そんな肩に力を入れなくていいわよ。見てわかる通り、わたしは寛大だから、大抵のことは気にしないし」
本気で言っているのか、冗談なのかまったくわからない。人を見抜けるかどうかが生死にかかわることも珍しくない二十二区で暮らしてきたジャックには、それなりに人を見抜く目があると自負していたのだが――
目の前にいるこの女は、まったく見えない。底の見えない谷を覗いているかのようだ。
「わたしに協力してくれるのであれば、それなりの対価を約束するわ。たぶん、あなたの母君と妹さんにも悪くない話だと思うけれど」
「てめえ……!」
それを聞き、反射的に手を伸ばしていた。
伸ばした手が払われたかと思ったら視界が急に低くなって背中に重量を感じる。一瞬、なにが起こったのかわからなかったが、すぐに自分が倒され、お嬢様が背中に座っていることに気づいた。
「なかなか気合入ってるじゃない。いいわねそういうの。話をするのは売られた喧嘩を買ってからでもいいし。それがお望み?」
自分よりも遥かに体格が小さな相手に座られているだけだというのに、まったく振り払うことができなかった。この学校に進学してからはご無沙汰であるが、いままで喧嘩には負けたことがない。
背中に座っているお嬢様は怪しげな笑みを浮かべている。実に楽しそうであった。
「……いや、やめとく。こんなことやってくるようなのと喧嘩なんてやってられねえよ。思わずカッとなっちまった。とりあえず、そこからどいてくれないか?」
こちらがそういうと、お嬢様はすんなりと立ち上がった。
このお嬢様、ただ得体が知れないだけじゃない。こんな風に体格に勝る相手をこんな風に無力化できるというのは異常だ。喧嘩を売ったら、間違いなくやられるだろう。そんなことがわからぬほど、身の程知らずではなかった。
「で、俺に協力してくれってのはなんだ?」
「そのまま意味よ。詳しい話をするのは後にしましょう。先にこちらが提示する条件の話をさせてもらうわ」
ますますわからない。こちらがなにをしなければならないのかを話すほうが先だと思うのだが――
「まずこれね」
そう言ってこちらに渡してきたのは、不動産の情報であった。二十二区とは別世界と言ってもいい、スターゲート家のある第一区の物件。
「わたしの協力してくれるのであれば、その家に母君と妹さんを連れて引っ越すといいわ。引っ越し費用もこちらで持つし、家賃も必要ない。日常の使用に関しての費用は負担してもらうけど、なにか不具合や要望があるなら遠慮なく言いなさい。どうせ誰も使っていないものだから。けど、管理はしないといけないし、それなら誰かに使ってもらったほうが都合いいでしょう」
「……は?」
意味がわからなかった。
「あら、これじゃあ不満? なかなか欲張りね」
「いや、そうじゃなくて。いくらなんでもおかしくないか?」
あまりにもこちらに都合がよすぎる。騙すにしてももうちょっとあるだろう。なにが目的だ?
「そう? だって死ぬかもしれないし、それくらいの福利厚生は当然じゃない?」
その声から、それが冗談であるとはまったく思えなかった。
死ぬかもしれない。異様な雰囲気の女からそう断言されるのは、そこ知らないなにかがはっきりと感じられたが――
なんであれ、いまの状況をすぐに変えることができる手段など他にあるはずもなかった。
死ぬなんて、二十二区ではそれほど珍しいことではない。自分だって、過去に死んでいたかもしれない出来事に何度も遭遇しているのだから――
「いいぜ。なにをさせるつもりかは知らんが、その話乗ってやる。どうせ貧乏人のこっちには選択肢なんてありゃしねえんだ。やってやろうじゃねえか」
「その勢いはいいわね。悪くないけど、決めるのならこれを見てからね。選ぶのはそれからでもいいわ」
お嬢様はそう言って、ジャックの額に手を振れる。その瞬間、額から痺れるような感覚と衝撃が伝わってきて――
とてつもない情報の奔流とともに、この都市を巡る真実と状況、そしてこの女が自分になにをさせようとしているのか一瞬で理解した。
「これがさっき言った条件のかわりにあなたにやってもらうことになるけれど、それでもやる?」
「……当たり前だ。俺みたいな貧乏人に選べることなんてねえんだよ。忌み者でもなんでもやりゃあいいんだろ。それぐらい屁でもねえ」
ぐらぐらと揺れる身体をなんとか支えながら、そう返した。
「それじゃあ契約は成立ね。その物件に関しても含めてあとで契約書を送るからしっかりと目を通しておくのよ。そういうことができないと悪いのに騙されるわ。あなた、根本的なところで善人なようだし」
「うるせぇ……そんなん、常識だろうが」
「それじゃあね。今日はちゃんと休んでおくのよ。若い男でもしばらくつらいだろうから」
そんなことを言いながら、スターゲート家のお嬢様は手を振って去っていった。
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