第5話 最も近いひとり目
「今日はありがとうございました」
いつも消耗品の購入の際に懇意にしている店のおじさんにお礼を述べると、いつものとおり陽気な調子で「いつもありがとうなセレンちゃん」とにこやかにそう言って笑みを返してくる。
この店は以前からスターゲート家が懇意にしている店のひとつで、自分も含め、他の使用人も多くもおじさんと顔馴染みだ。詳しいことはわからないのだが、このおじさんは頼めば大抵のものは仕入れてくれるという凄腕である。これまで何度も色々なものを頼んでいるが、駄目だったと言われた記憶はない。
「いつも通り、明日の午前中にでも届けるからよ。まあ、セレンちゃんは学校だろうから、顔を合わせることはねえだろうが」
「よろしくお願いします。いつも届けていただいて」
「いいんだよ。スターゲート家は俺にとっちゃ、仕事もらってる間は絶対に食いっぱぐれないくらいの金を出してくれる大口の上客だ。そこまで懇意にしてもらってるんだから、こっちとしても結構な無理だって聞いてやるさ。またよろしく頼むぜ」
おじさんは豪快に笑う。もう一度頭を下げたのち、セレンは歩き出した。
周囲はすっかり暗くなっていた。少し肌寒い。少し前まで夏のように暑かったのが嘘みたいだ。
町は仕事帰りの人たちが多く行き交っている。昼とは違った雰囲気のにぎやかさ。
「せっかくだし、お嬢様になにかお土産でも買っていこうかな」
セレンの主人であるソラネは言ってしまえば星のような存在だ。両親を亡くし、どうしたらいいのかわからなかった幼い自分に導きをくれたあの日のことはいまでも色褪せることなくはっきりと思い出せる。
いま自分がこうしていられるのはソラネとスターゲート家のおかげであることは間違いなかった。ソラネ以外のスターゲート家の方々も、一緒に働いている使用人の方々にも本当によくしてもらっている。ここまでよくしてもらって本当にいいのだろうかと思ってしまうほどだ。
とはいっても、大したものが買えるわけではない。自分が買えるものなんて、彼女にとっては取るに足らないものでしかないのだ。
それでも贈り物というのは気持ちが大事だと言う。なにか、日ごろの感謝のために、彼女でも喜んでくれるものが贈れればいいのだが――
たぶん、よっぽど変なものでなければ、あのお嬢様は喜んでくれる――と思う。なにしろ十年以上最も近いところで過ごしてきたのだ。雲のようにつかみどころのない人ではあるが、人の好意を無下にするような人ではないことはわかっている。
どうしよう。歩きながら少し悩んだところで――
「おじさんなら、なにかわかるかな」
スターゲート家と付き合いの長いおじさんであれば、なにかいい意見をくれるかもしれなかった。まだ彼の店が閉まる時間まで猶予がある。それを聞くぐらいなら、それほど遅くなることもない。
そう思って、いままで来た道を引き返し、ひとつ通りを入ったところにあるおじさんの店にまで進んでいく。
大通りに比べ、ひとつ通りを入ると、かなり暗くなる。
最近は治安が悪い。謎の失踪事件に新型薬物の蔓延、反政府勢力による暴力的な扇動の過激化。最近、よく耳にするのはこの三つだ。小さなものなら、もっと他にある。誰がいつ巻き込まれてもおかしくない状況であるが――
明かりが少なかったとしても、ここは大通りのすぐ近くである。いくらなんでも、犯罪者もこんなところで悪さはしないはずであるが――
「あれ」
しばらく進んだところで、おかしなことに気づく。
もうとっくにおじさんの店に到着している距離を歩いているのに、一向にたどり着かないのだ。まるで、まったく同じところを歩いているかのような状態。
さらに、まわりからあれだけあったはずの人の気配が消え失せている。まるで、世界に自分だけ取り残されたかのような静けさ。誰が言うまでもなく、異常な状況というより他になかった。
自分が異常な状況に置かれている。それを自覚してとてつもなく恐ろしくなった。
一体、なにが起こっているのか? 異常なことだけがはっきりと理解できる状況が、さらに恐怖を増大させた。
前に進んでも、来た道を戻っても、一向に風景が変わることはない。延々と同じところを彷徨っている。
お嬢様に連絡をしよう。そう思って渡されていた携帯端末を取り出したが――
普段なら、こんな街中では絶対にありえないはずの圏外という表示。外部と連絡を取ることも許されない状況。なんらかの理由でこの場所が完全に隔離されていることを示していた。
「どうすれば」
理解のできない状況のせいで、湧き上がってくる恐怖がどんどんと巨大化していく。
ここで大声を出しても、恐らく誰もやってこない。それが確信できてしまうだけ、より恐怖が増大する。
前に進むことも、戻ることもできず、ただここで立ち止まっていることしかできない。永遠にも等しいそんな時間が続いたところで――
ざっざっざと、足音が聞こえてくる。一人ではない。恐らく三人か四人。この状況で近づいてくるということは――
こちらを挟み込むように現れたのは四人の男。二十代から三十代くらいの年齢。誰も別段特徴的ではなく、どこにでもいるような人間に見えるが――
そこから漏れ出る雰囲気は明らかなおかしなものだった。こちらを狙っている暴漢の類とは思えない空気。
だが、その四人の男たちが自分になにか害を成そうとしていることは間違いなかった。
四人に襲われたら、どうすることもできない。
その異常さもより恐怖を増大させる。
「…………」
こちらに対し、一切言葉を向けることなく、じりじりと近づいてくる四人の男たち。逃げようとしたところで、この場所が完全に隔離されてしまっている以上、どうすることなどできるはずもない。
あまりの恐ろしさに身体が震える。誰か――
そこまで思ったところで、上のほうでなにかが割れる音が聞こえた。
その直後、なにかが上空から降ってきて、こちらに近づこうとしていた男の一人が押しつぶされた。上から押しつぶされた男は、まるで圧搾機にでも巻き込まれたかのような原型を留めていない肉塊と化し――
「どうもーいつもお世話になっております。死をお届けに参りましたー」
隔離されているはずのこの場所に入り込み、こちらに近づこうとしていた男の一人を圧搾機のように押しつぶしたのは、自分の主人であるソラネに他ならなかった。
こちらを取り囲んでいた時は一切読めなかった男たちは驚愕の表情を浮かべていた。
「ねえ、どういうつもりでウチのもんに手を出したのかしら?」
人間をいともたやすく押しつぶした己の主人は、付着した血肉を乱暴に振り払ったのち、いまだかつて聞いたことがないほどの冷徹さで残った男たちに問いかけた。
彼女はいまとてつもなく怒っている。怒髪天といってもいい状況。肌が焼けるような怒りこちらにまで伝わってくる。
「貴様……抑止か?」
「答えろとは言ってけれど、質問を返せとは言ってないわよ。まあいいわ。言っても言わなくても殺すし。それがわかってて手を出したんでしょう?」
「俺たちでは抑止には対抗できん。とりあえずここはにげ――」
男たちが動き出そうとしたその瞬間、ソラネの姿が消えたかと思うと男の一人に接近し、拳を振り抜く。
ソラネの拳を食らった男は、まるで機関銃でも食らったかのように上半身が跡形もなく吹き飛び、血を垂れ流すだけの肉の塊と化し、ふらつきながら二歩ほど進んだところで倒れて動かなくなった。
それを見た残りの二人も逃げようとしたが、動き出したその瞬間に頭部を暗い青色の大振りの刃に貫かれたのち、突き刺さったそれが爆散して頭部を跡形もなく吹き飛ばした。頭部を吹き飛ばされ、噴水のように血が乱れ飛ぶ。
「こんなに派手にするつもりはなかったけど――まあいいか。見せしめにはなるでしょう。大丈夫? なにかよくないことに巻き込まれているようだったから迎えに来たわ」
それじゃあ帰るわよ、とむせ返るほど濃密な血の匂いを一切気にすることなく彼女は言う。
「どうしたの? あいつらになにかされた? それなら、憂さ晴らしにもうちょっと死体損壊していくけど」
「いや、そうではなく、服が……」
自分もソラネも、圧搾機のように押しつぶしたり、上半身や頭部を容赦なく吹っ飛ばしたことで乱れ飛んだ血で染まっていたのだ。
「あ、ほんとだ。きったね。確かにこれじゃ歩いて帰るわけにはいかないわね。それじゃあ――」
ソラネはそう言ってこちらを抱きかかえて――
「このまま屋敷まで飛んでいくわ。これなら大丈夫でしょう」
「え? ええ?」
「危ないから大人しくしてなさい。せっかく助かったんだから」
いつもと変わらない調子でそう言って――
生身のまま、夜空を切って飛ぶという絶対にできない経験をしたのだった。
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