第2話 朝から平常運転

「起きてくださいお嬢様」


 目を覚ますと同時に視界に入ってきたのは、私のメイドであるセレンである。その顔にはどこか心配そうな表情を浮かべている。


「何度声をかけてもお目覚めにならないので、なにかあったのかと」


「そうね。なにもなかったと言えばうそになるけれど――それは、あなたには関係ないことだからあまり気にしないでちょうだい。ここでわたしがおっ死んでいたところで、あなたが別に責任を感じることはないわ。あなたが殺したのでなければの話だけれど」


 彼女がわたしを手にかけるとはまずないだろう。なにしろ、十年くらい前にうちで引き取ってから、私のメイドとして姉妹のように暮らしてきた仲である。他人にどう思われようが知ったことではないが、これでもわたしは、他人に自分がどう見られているかはよくわかるのだ。少なくとも、いまに彼女からわたしに対してよくない感情を向けられている様子はない。他所から嘘や悪意を向けられることが多い生まれなので、その匂いには人一倍敏感なのである。


 こちらの言葉に対し首をかしげていたセレンであったが、すぐさま「朝食はどういたしますか?」と問いかけてくる。


「軽く食べていくわ。健康的に暮らしていくならちゃんと朝も食べないとね。なかなか起きなかったというだけで、それほど寝坊したわけではなさそうだし」


 時間的には、いつもの起床時間よりも十分ほど遅かったが、普段から時間には余裕をもって行動しているように心がけているので、朝食を摂る時間は普通にある。


「わかりました。もう準備はできておりますのですぐにお持ちいたします」


 そう言ってセレンは制服を翻して部屋を出ていく。やはり、朝から顔のいい女に世話をされるのは最高だな。金持ちの家に生まれてきてよかった。


 そんなことを思いながら、朝食が運ばれてくるまでに顔を洗い、歯を磨いてすぐに外出できるように身だしなみを整える。これでもわたしは年頃のお嬢様なので、多少なりとも身なりには気をつけているのだ。そういうところに最低限気を遣えなくなったら終わりだからね。まあ、見てくれ以外気にしなくなっても終わりだけれど。


 それにしても、あの変な夢はやっぱり夢だったのだろう。そりゃ脳内に直接話しかけてくる人なんて現実にいるはずもない。夢だからってすこしばかり自由にやりすぎじゃありませんことわたしの脳。


『現実逃避をするな。お前が見ていたアレは夢ではない』


 そこで聞こえてきたのは、先ほどの夢でわたしの脳内に直接話しかけていた人の声。相変わらず、性別も年齢もよくわからない声で偉そうに喋っている。


「驚いた。本当だったんだ。思い出の中で眠っていてくれたらよかったのに」


『驚いていないくせに白々しいな。現実でもそんな風にしているのかお前。やっぱ頭おかしいんじゃないのか?』


「脳内に直接話しかけてきている人にそんなことを言われるなんて心外ね。謝罪と賠償を請求するわ。訴えられる前にさっさと謝ったほうがいいわよ。いまなら三割引きで示談に応じるわ」


『示談もクソもあるか。よくもまあ思ってもいねえことをぺらぺらまくし立てられるな。どういう風に育ってきたらそんなバケモンが仕上がるんだ?』


「さあ? 時代の流れってヤツじゃないかしら」


 大抵のことは時代が悪いってことにしておけばどうにでもなる。便利な概念だね時代って。


「まあ、冗談はそこそこにして。あなたがいるってことは、あそこで話していたことは本当だったのね。いまのところ、あまり実感も現実感もないのだけれど」


 最近、都市の治安が悪いのは間違いないが、忌み者による事件や呪いによる汚染などは、少なくとも私が生まれてから起きた覚えはない。


『本当だ。そんな嘘を言ってどうする。そんな嘘を言ってお前を騙したところで、俺になんの得がある。自分が得しない嘘なんて誰かを騙す嘘以上に悪質だろうが』


「それもそうね。こうしてあなたが私の脳内に直接話しかけていることは紛れもない事実みたいだし。仕方ないから受け入れてあげるわ。感謝しなさい」


『なんで俺がお前に感謝しなきゃいけねーんだよ』


 期待通りの突っ込みを返してくれるわたしの脳内に直接話しかけている人。偉そうにしているけど、結構扱いやすい性質なのかもしれない。


『なんか、失礼なことを思われている気がするんだが』


「そんなまさか。脳内に直接話しかけている人に対して失礼なことをするわけないじゃない。というか、脳内に直接話しかけている人っていうの、面倒だからやめないんだけど。名前を教えろとは言わないけど、どう呼んだらいいのか教えてくれると助かるわ。そういうの、お互い面倒だし、そっちのほうが効率がいいでしょう?」


『さんざんおちょくっておいてその言い分は疑問しかないが――まあいい。俺としてもいつまでも脳内に直接話しかけている人なんて呼ばれるのは心外だ。そうだな、俺のことはアベルとでも呼べ』


「へえ……」


『なんか文句でもあるのか?』


「別になにも。ただ言ってみただけ」


『死ね』


 まっすぐな罵倒。俺じゃなきゃ聞き逃しちゃうね。やっぱり扱いやすいわこいつ。一番近いところにいいおもちゃができたのはなかなか悪くない。どうしようもなく暇になったらこいつをからかって遊んでみよう。飽きたら別の遊びを見つければいいしね。人生なんてそんなもんよ。


 アベルの実に気持ちのいい罵倒を聞いたところで、ドアがノックされる。わたしは「大丈夫よ」と返答。 


 セレンが朝食を運んできた。ごくごく一般的な朝食。金持ちだからと言って、朝から豪勢な食実をしているわけではない。というか、金持ちというのは必要性のないところには金を使わないものなのだ。必要性もなく金を使いたがるのほど、いわゆる成金という存在である。その辺、アテクシは教育が行き届いておりますからね。育ちがいいので。


「わざわざノックなんてしなくてもよかったのに」


「いえ、誰かとお話をされていたようでしたので。邪魔はよくないですし」


「別いいわよ。どうせたいしたことではないし。そんなことであなたの仕事が滞ることのほうが問題よ。ここで私の世話をしつつ、学校に通っているのだし」


 わたしがそう言うと、アベルは不満そうになにか言いたげな感じを出していたが、そんなの知ったことか。


「そう言っていただけるのはうれしいですが、別に無理をしているわけではありませんので気にしないでください。私がこうして暮らせているのは、スターゲート家のみなさまのおかげですから」


 セレンは、ここで昔働いていた使用人の娘で、身寄りのないところをうちが引き取ったのだ。わたしとしても同年代の人間がいなかったので、近い年代の話し相手ができてうれしかったのをぼんやりと覚えている。


 手早く朝食を済ませ、冷たいコーヒーを飲んでひと息ついたところでいい時間となった。


「そろそろ行きましょう。片づけは他に任せなさい。もし、それでなにか文句でも言われたら私にチクりなさいな。とりあえずぶちのめしておくから」


「いえ……大丈夫です。皆さまよくしてくれておりますので」


 嘘や隠ぺいの匂いは感じられない。彼女は、わたしがうその類を簡単に見抜いてしまうことをよく知っている。うそなど簡単につけるはずもない。だから、彼女の労働環境に問題ないことは確かだ。なにより、この女はそもそもうそを吐くのが大変へたくそなのであるが。


「それでは、こちらは台所まで持っていきますので、お待ちください」


「大丈夫よ。その間に着替えておくわ。あなたも準備しておきなさい」


 セレンにそう返すと、彼女はなにも残ってない皿を器用にまとめて部屋を出ていった。


 セレンが部屋を出て行って、多少離れたところで――


『あのさぁ、ひとつ言っていいか』


「いいわよ。わたしは寛大だから」


『お前の、俺に対する態度とあの女に対する態度、ずいぶんと違くねーか?』


「そんなの、当たり前じゃない」


 脳内に直接話しかけてくるだけの素性のしれない存在と、わたし好みの美人の女。どっちを優先すべきかなんて言うまでもないでしょうに。

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