第1話 神か悪魔か

 ハミルトン領……市街の中心地からはやや外れた場所に建てられた、豪勢なお屋敷。広大な敷地の中央部分を占めている庭園はたいそう美しく、風光明媚な景観で知られている。ここを目当てに領内外から訪問者がやって来ることも多い。

 そんな庭園を跨いで、お屋敷の北東側に位置する一室内。朝日が注ぐベッドの中で身じろぐ少女に、小鳥達の賑やかな囀りが耳元まで届いた。

 

「イルマ様~! 朝ですよ、イルマ様~!」

 侍女がわたしを呼ぶ声がする。

 わたし──イルマは、寝ぼけ眼をこすりながら少々気怠げにベッドの上で身体を起こした。くるくるとした猫っ毛が寝癖で爆発している。

 

 イルマは前世では地球、日本人として生きた記憶があった。この世界【カレヴィエーラ】に転生して十八年になる。ハミルトン子爵家という貴族の令嬢で、イルマという名を貰って育てられた。外見については桃色の長い髪がくるくるしており、眼もくりくりしていて、とても可愛らしい婦女子だ。もともと地球上では平民も平民、一般家庭出身だっただが、侍女がやってきて化粧を施されて紅茶を飲んで、という形式すらむず痒く感じてしまい、慣れるまでは相当大変だった。

「はーい! 起きてますよ〜」

 侍女に大きな声で返事をして、着替えに入る。あんまりうかうかしていると、寝坊助のイルマを心配して侍女が部屋に入ってきてしまう。最初は着替え方も分からなかった衣服達だが、今は慣れたものだ。と、そこへ、窓から一匹の蝶が入ってきてひらひらと舞い、近寄ってきた。銀と青が交互に入り乱れる、珍しい柄をしている。


『お、寝坊女にしては、今日は早いじゃないか』

 

 高圧的な態度の青年の声が、頭の中に響く。

 そもそもイルマがこんな事になっているのは、何を隠そう、この鬼畜蝶々……じゃなかった、ルオンのせいなのだ。


 

 

——イルマは地球で生きていた時、たまの休日を利用してトレッキングを楽しんでいた。山岳の頂上付近までは順調に進んでいた。万全に整えられた登山装備を身に着け、慎重に片足を進めたはずだった。降ろした右脚はと滑って、身体全体が谷底に引っ張られた。なんと不幸にも足を踏み外し、勢いよく転落してしまったのだ。「あっ」と呟くくらいしか出来ないまま、身体をあちこちぶつけながら落下していく。死ぬ時なんて一瞬だ。本当に、辞世の句を読む暇もなく死んだ。


『いやあ残念だったな。もう少しで頂上だったのにな?』

 死んだ直後、随分と冷ややかな調子の青年の声が、突然頭の中に響いた。


「いや、そう言いたいのはこっちだけど⁉ だれ! 何⁉」

 思いやりの欠片もない言い様にムカっときて、すかさず言い返す。

 しかし同時に、眼前に広がった景色を目の当たりにして驚き、絶句した。

 生前に見ていた山や谷底ではない、まったく別の場所に居るではないか。天空だ。まるで雲の上に開かれた楽園のような……それとも神の世界かな。手を伸ばせば届きそうなくらい、青空がめちゃくちゃ近い。雲と空ばかりの展望は彼方まで続いている。


 そんな幻想的な空の世界に、銀髪で色白な青年がひとり、ぽつんと立って居た。間違いなく地上ではないのに、透明な床に立っているように易々と直立している。衣服は白いボロ切れのようなものを纏っていて、修禅僧みたいな風貌でもあった。銀髪青年は誰かに話かけているらしく、口をぱくぱくさせている。


『ちょっとお前に話したいことがあってね。声を出せるか?』

「ええ? あれっ? わたし、生きてる……?」

 青年がこちらを真正面に見てくれたおかげで、ようやく自身が話しかけられていると気付くことができた。そう認識した途端に青年の声がはっきり聞こえて、話すこともできた。不思議だ。てっきり死ぬまでの豪華な走馬灯でも上映中なのかな、と思っていたというのに、まだ話せるくらいに生きているとは。


『そう、この僕がやったんだ、感謝しろよ。僕の名はルオン。この世界の《管理者》……神のようなものだ』

 銀髪の青年・ルオンは、自らを神だと名乗った。外見上は儚げで神聖な雰囲気が漂っているわりに、ずいぶん横柄な話し方だ。確かに恐いという意味では神らしくはあるけど、本当かな。イルマが疑っているのが分かったのか、ルオンの顔が途端に険しくなった。

『なんだ? お望みならもう一度殺してやってもいいんだぞ。ほら』

 すると一瞬、これまで経験のない恐ろしい痛みが全身に走った。心臓を鷲掴みにされ、血管や皮膚を無理やり裂いて引っ張り出そうとされているような感覚だ。あまりに衝撃的な苦痛で、叫び声をあげることすら出来なかった。

「……っは! 痛ッたぁ‼ 何⁉」

『お前の〈魂〉を直接引っ張ったんだ。痛いだろ? 僕の言うことが聞けないなら、そうやって死んでもらうことになるな』

「鬼か……?」

 ルオンは嘲笑いながらそう言ってくるので、イルマは震えた。なんだこの神様、ヤバすぎる。


『お前をわざわざ生き返らせたのは、頼みがあるからだ。これから転生させてやる先の世界で、過去に封じられた魔王の封印が解けかかっていてな。再封印をしてもらいたい』

「え? …………ちょっと待って、待ちましょう神様。えっと、ルオン様、だっけ? 私は今、死んだけども転生してもらえそうになっていて、代わりに、魔王ってやつを再封印? しなきゃいけない……って仰ってるってことで? いいですかね?」

『そうだ。何か問題があるか?』

「……すごいある‼」

 思わず神様を敬う姿勢を忘れて叫んでしまった。どう考えても、魔王の封印とかいう大層なことが出来るとは思えなかった。

 だってわたし、ただの一般的な地球人だ。トレッキングが少し好きでそこそこ体力あるくらい。武器を持ったことも喧嘩したこともない。どうせ転生するなら貴族令嬢になってイケメン達にモテまくってウハウハーレムしたいよ‼ ギャァー‼

『うるさ! 注文が多い女だな……まあ、少しは希望を叶えてやるよ』

 どうやらわたしの心の声は筒抜けになっているらしく、ルオンは死ぬほど迷惑そうに顔を歪めたが、一応は気休め程度に宥めてくれた。


『魔王の封印だが、もうあまり持ちそうにない。お前が二〇の歳を迎えるまでに再封印しろ』

「しかも期限付き⁉」

『二〇歳までに再封印できなかったら、お前を殺すことになるからな』

「うそでしょ」

 さらに困難な条件が追加されて頭を抱えた。現世でも同じ年齢くらいまでしか生きていないのに。


『それと、僕も下界に降りてお前の様子を見ているから』

「なるほど。……えええ⁉」

 悩んでいて、衝撃的な発言を流してしまうところだった。

 神様って下界に行けるんだ。その服で? さすがにボロ布すぎない?

『……オイ。僕はお前が何を考えてるかくらいはお見通しだぞ。服は必要ない』

「えっ? それってまさか、すっぱ……」

『じゃあ現世に送るぞ……』

 気になる! 急なうえにめっちゃ気になるところで送らないで‼ 

 精一杯に抵抗の意を表明したが、心底からすっごい軽蔑した目線をルオンに向けられただけだった。ふわふわ流れていく雲の景色がだんだんと掠れ、薄らいでいく。やがて視界がペンキをぶちまけたみたいな真白に染まっていき、意識も失われていった。

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