第25話「史上最大の作戦」その⑤


 ちょうどそこへ雪月が戻って来た。


 飲み物のグラスを2つ持っている。


「お待たせしたわね。……あら、金糸雀。どうしたの?」

「あ、お、お姉ちゃん。ちょっと朝日さんに挨拶をしていただけですよ。決して下着なんか――」

「下着?」


 あっ、と小さく呟いて金糸雀は僕の方を見た。


 僕は敢えて無視することにした。


「い――いえ、なんでもないんです! それじゃ二人ともごゆっくり!」


 金糸雀はバタバタと部屋を出ていった。


「どうしたのかしら、あの子」

「……さあ、どうしたんだろうな」


 僕は断じて何も知らない。


 ここ数分の記憶は、脳内メモリーから抹消した。


 黒のレースの下着? 何のこと?


 ……汚職事件とか談合とかってこんな風にして起こるんだろうなあ。


「まあ、良いわ。今日は来てくれてありがとう。早速だけど勉強を始めましょうか」

「ああ、そうだな」


 雪月がグラスをローテーブルの空いたスペースに置く。


 僕は机の上に広げたままだった教科書やノートをひとまとめにした。


「まず古典から教えてくれるかしら。ちょっと待って、私もノートを取ってくるわ」

「分かった」


 再び立ち上がった雪月は自分の机へ向かうと、ノートと教科書の束を抱えて戻って来て、そのまま僕の隣に座った。


 雪月の肩が僕の肩に触れる。


 その瞬間、さっき記憶から消したはずの黒い下着が脳裏を過った。


「……どうしたの、朝日くん。顔が赤いわよ」

「な――なんでもない。気にしないでくれ」


 言いつつ、僕は無意識のうちに雪月の胸の辺りを見つめていたことに気が付いた。


 ヤバいってそれは。煩悩の化身かよ、僕は。


 しかし今日雪月が着ているのは白のニットで、胸の辺りの生地が限界まで伸びきっているのはずっと気になっていた。


 こうしてみると雪月って着やせするタイプ――って、だからそんなこと気にしてる場合かよ。今日は期末考査の対策をしに来たのであって、決して保健体育の勉強をしに来たわけではない。


「本当に大丈夫なの? 熱はどうかしら」


 と、雪月が僕の額に触れる。


 僕の心臓が大きく跳ねた。


「だ、大丈夫だよ」

「そう?」

「ああ、金糸雀はよく熱を出していたかもしれないが、僕は違うからな」

「そう言えば……前もこうしてあなたの体温を測ったわね」


 相合傘で雪月を家まで送ったときのことだ。


 金糸雀が昔よく熱を出していたから、こうして額に手を当てて熱を測っていた――雪月は確かそんなことを言っていた。


 つい最近の話なのに、ずいぶん昔の出来事みたいな気がする。


 雪月は冷たい手を僕から離すと、グラスの中のお茶を飲んだ。


 白い喉が上下する。


「……とりあえず試験範囲になっているところから始めるか」

「ええ。そうしましょう。朝日くんはいつもどうやって勉強しているの?」

「僕の場合は基本、丸暗記だな。本文と現代語訳を覚えておけば何とかなる」

「丸暗記ね。でも、覚えようにもどういうお話なのかよく分かっていなくて」

確かに……現代語訳を見ても、だからどうしたんだよって内容も多い気もする。個人的な意見だけど。

「でも、一応日本語の内容は分かってるわけだからさ。後は意地でも頭に入れるって覚悟をだな」


 言いかけて、雪月の表情が暗いことに気が付いた。


 根性論は苦手なタイプだったか……?


「そういうわけにもいかないのよ、朝日くん」

「いや、勉強の仕方なんて人それぞれだからな。あくまでも僕はこうするってだけで」

「そうじゃないの。実はね……日本語訳もよく分からないのよ」

「え? でも黒板はノートに取ってるんだよな?」

「もちろん、取ってはいるのだけれど……」


 そう言って雪月は僕に向かって古典のノートを開いた。


 ごく普通の見た目をしたそのノートに記されていたのは―――象形文字や楔形文字を想起させる、ぐにゃぐにゃの線で描かれた何かだった。


「ちょ、ちょっと待て、これって……」


 いや――よく見ろ、僕。これは日本語だ。ひらがなを崩して書いたような――どちらかと言えば行書体に近い。


 そう思えば、なんとなく読めなくもない。


「授業がよく分からなくて眠たくなって、でもノートを書かないといけないわけにもいかないから慌てて書いたらそうなってしまったの」

「雪月ってそんなに授業中寝てたっけ?」

「バレないように眠るコツがあるのよ。ポイントは、頭を正面に向けたままにしておくことね。下を向いてさえいなければ先生に寝ていると勘づかれる可能性はかなり下がるわ。あと、目を少し開けておくこととか」


 こいつ、居眠りを極めてやがる……っ!


「でも、そんな風だと古典は分からなくなる一方だよな」

「ええ。特に漢文なんて何を書いているのかさえ分からなくて……」


 雪月からノートを受け取った僕は、その中身をパラパラとめくった。


 古文らしき単元のノートは辛うじて読めたものの、漢文のページになると全く何を書いているのか分からなかった。


 これじゃ期末考査も対策のしようがないよな。


 さて、どうしたものか……。


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