第9話 ひかり、かがやく

 トラウマは存在しない、これも何かの心理学の本で読んだ本の一説だ。トラウマというものは今現在を生きていく中で避けたいことをやらないためにする理由にすぎず、そう言った心の傷のようなものは存在しないとかなんとか……。


 黒いモヤが見えたのは幼い頃に迷子になった時、助けてくれたお婆さんの家にいた男がきっかけだった。彼は恐怖で何もできない私の身体を触った。その時の恐怖と黒いモヤが紐づいてしまい、私の中でこれは俗にいうトラウマという形で残り続けた。

 それ以来、その黒いモヤは避けてきたし、モヤを持っているものは敵だと思って生きてきた。両親からそんなモヤが出てきたのも見たことないし、高校の時に付き合った男の子にもそういったものはなかった。

 社会に出てもモヤが出ている人がいる中でも、今のチームにはそういった人がいないことが救いであった。そして昨日、もう少しこの黒いモヤに向き合っていこうとしたそのすぐ後に親友から黒いモヤが出ていたという現実に、私は理由もわからず、軽いパニック状態に陥ってしまった。

 トラウマは存在しない、そんなものは嘘なのではないだろうか。現象とともに蘇ってくる恐怖。どうしてもそれを拭うことはできない。

 あれからなんとか家に帰ることができたが、まともにラミアの顔を見ることができず、なんとかタクシーを捕まえて、最後に別れる際に顔をみたくらいだった。その時、彼女から出ていたモヤはかなり薄まっていたと思う。


 これにもなにか私の中でバグのようなものがあるのだろうか。そもそもこのモヤはなんなのだろう。こんな見たくもないものが見えるせいで、私の人生は随分と狂わされたように感じる。見える必要のないものを見させられている感覚。

 たしかにそれは時として自分の身を守ることができたのかもしれない。ただ、これでは過剰防衛になってしまっていて、私というものがまともに機能しなくなってしまっているのも事実である。でも結局のところそのコントロールをするのは私自身なのだ。それもわかってる。

 ただ、この感覚をどう受け止めていいのか、考えが堂々巡りしている状態では答えを見つけることができなかった。


   *


 翌日、ラミアからメッセージが届いた。

 明らかに様子がおかしくなった私を心配していることと、もし可能であれば会って話したいとのことだった。

 なんて返信しようかと理由を探してみるも、体調が悪いわけでもなく、ただ頭が重いだけで、結局のところ昨日の一件からラミアに会うのに少し恐怖心が芽生えてしまている。あのモヤを見ると身体が強張ってしまうし、なによりも嫌な過去がフラッシュバックかのごとく、一瞬で目の前をよぎっていく。それをそのまま返信するのも申し訳なく感じ、私はそのメッセージになかなか返信することができず、一旦スマホを置いた。

 コーヒーだけの朝食を済まし、使い終わったカップをシンクにおいて、私は再びベッドへと戻った。

 ラミアからモヤが出たとして、もしもう彼女に会えないことになったら私はこれからどうやって生きていくのだろうか。

 愚痴や本心を語る場所が失われ、他愛のないくだらない話で笑うこともなくなり、私の知らないものを教えてくれることもなくなる。ただ、そう考えるとなんて自分は人任せなんだろうと鼻で笑ってしまうところでもある。


「私は来未明、よろしくね!」

 大学の講義でたまたま会った彼女は、底抜けに明るい雰囲気を放ち、当時真っ暗闇の只中だった私にも「光」を差し伸べてくれた。

 友達の多かった彼女と会うのはその講義だけであった。それでも彼女は私を見つけるといつもにっこりと笑って隣に座っておしゃべりを始めた。不思議とそんな光に誘い出された私は彼女の手をとって孤独の暗闇から抜け出していた。後になんで話しかけたのかなんてことを聞いた時に彼女は酔っ払いながらもこう答えていた。

「なんだろう、話しかけて欲しそうに見えたから?」

 おそらく見透かされていたのだろう。孤独でありながらも誰かと関わりたい、誰かと共に楽しく生きていきたいという心の奥底に沈めていた小さな願いを。

 彼女との交流はその後も続いていき、気付けばもうすぐ十年ほどになる。私の人生での友達歴としては最長だ。

 そんな友達を失うのかと私ははっとした。

 このまま拒絶することは簡単だが、それでも今の私からして、彼女の黒いモヤを受け入れることはそう難しいことなのだろうか。

 黒いモヤをまとった彼女はもう彼女ではないのか。

 私のこんな信じがたい話を真面目に聞いて考えてくれた。仕事で忙しくてもお互いの時間を共有して色々なものにチャレンジするきっかけをくれた。そんな大切な親友に、こんな正体のわからない黒いモヤが見えたということだけで離れようとしていいのか。

「……そんなわけない!」

 知らぬ間に涙が頬をつたう。そして、私は掛け布団を蹴り上げて、またスマホを手にした。


   ※


 まるで決戦の地に赴くような表情をしているだろうと思った。

 集合場所へ向かう私の緊張感は今までにないものだった。未だに黒いモヤが出ていたらどうしようか、そんな不安に対しても、彼女は彼女だという言い聞かせがなんとか帰ろうとする私の足を踏みとどまらせていた。

 まるで高校生の時に付き合っていた人との初デートにでも向かうように不安を感じながらも少しの期待を持ったまま、彼女を待つ。どうにも落ちつかないまま、遠くからラミアが来るのを見つけた。

「ごめん、おまたせ!」

 近付いてきた彼女もどことなく不安げな様子であり、そしてなによりもモヤのようなものがぼんやりと見てわかる。

「大丈夫、行こ」

 私は彼女からモヤが出ていることを改めて認めながらも、不安とそれに争う気持ちのせめぎ合いが次第に激しくなっていく。

 色々と考え込んでしまっていたのもあり、店に着くまで彼女とまともに会話ができなかった。そんな私を見てか、ラミアが申し訳なさそうに声をかけてきた。

「ごめんね、無理矢理誘って、……大丈夫そう?」

「う、うん、なんとか。それについてもちゃんと中で話すね」

 そういって、店内に入り、今日はお互いにノンアルコールといくつかの軽い食べ物を頼んだ。

「えと……」

 何かを言い出そうとしている私を、ラミアはじっと待っていてくれている。まるで過去に男の人から黒いモヤが見えることを話そうとしていた頃のようであった。

「昨日のライブの帰りね、最初は見間違いかとも思ったんだけど、ラミアから出てたの……」

「出てた?」

「そう、黒いモヤ」

「もしかして、今も?」

「うん、本当にぼんやりとだけど」

 そういうと彼女は少し驚いた様子を見せながらも、片手で口を押さえながらも何か考えるようにして、タブレットから慣れた手つきでハイボールを頼んだ。

「なになに」

 唐突の彼女の行動に動揺すると、彼女は手のひらを見せてきた。

「ごめん、やっぱりここからはアルコールがないとちょっとしんどいです」

 間も無くして、運ばれてきたハイボールをぐびりと飲む。

「……どういうこと?」

 飲み終えた彼女はひとつ咳払いをして、私から視線を逸らした。

「いや、わからないんだけどね、その、ライブ見ているときのひかりの顔とか、なんか純粋に楽しそうにしているあんた見てたらなんか、その……」

 まだ一口だけだったのに少しずつ紅潮していく彼女の顔と相待って、うっすらと黒みを帯びていくモヤ。

「なんか、素敵だなって……」

「……」

 ふと彼女が何を言いたいのかを感じ取れた。そしてその様子とこの目の前に見える状況からわかったこともあった。ただその答えにたどり着くためには、それを確かめる必要がある。遠回しに聞くよりもわたしは直接、その答えを彼女に確認した。

「……私のこと、好きなの?」

「……あー、えー、うーんと」

 ラミアはその質問にどう答えるか頭を揺らしながら悩んだのち。

「いや、うん……、好きです」

 と答えた。この時すでに彼女からは湯気のようにモヤが揺らいでる。

「で、でもちょっと待って。これには色々と……」

「大丈夫、いくらでも話は聞くから……」

 目の前のモヤに多少のめまいを感じながらも、私は彼女の手を取った。いつか、彼女が私の手を取ったように。

 話を聞くと、ラミアは今までに私と関わる中でこれといって恋愛感情を持ったことがなかったという。そして何をもって好きで何を持って愛なのかが全く理解できなかったと。

 大学時代に私の隣に座ったのは本当にたまたま、ただ、その時からなんだか素敵な雰囲気があり、友達になりたかったというのもあったらしい。そしてそのまま当たり前のように友達になり、気付けばこんな長い付き合いになった。

 そして昨日のライブである。

 彼女曰く、楽しんでくれていた私を見て、心臓がぎゅっと掴まれたような感覚があったという。

「あの時、笑ってくれた顔を見た時、ずっとこの笑顔と一緒にいれたらいいなって思っちゃって……、そんな風になったら、それだけでも何か満たされるような感覚があった」

 そう言い終わるとまたハイボールをぐびりと飲んだ。もちろんそれは濃い目のものであった。

「……待ってね、ということは、この私が見えてるこのモヤの正体って」

 今まではこのモヤは悪意があったり、何かしらやましい考えがあったときに見えるものだと思っていた。それが、今のラミアの話を聞いた限りでは……。

「思っていたものとは真逆で、好意、が見えるってことだった……?」

「間違っても、私はひかりに対して、悪意なんて持ってない」

 そのラミアの言葉で、私の心の中で何か重りのようなものが崩れ落ち、今まで信じ込んでいたものが覆されたような感覚があった。

「多分ね、多分なんだけど、それは最初に見えたきっかけがそうだったからであって、ひかりがそう思い込んじゃっていただけなのかもしれない」

 そして、それは今まで生きてきた中でのこのモヤの概念を破壊し、再度構築していくには十分な言葉だった。

「……でも、やっぱり少しは怖いかも」

 どことなくモヤが見えていることで拒絶反応のようなものがあるのは自分自身が一番感じている。

「ただ、そうだとしたら高校の人と付き合ってた人は……」

「それはもう確かめようはないけど……、たとえば、罰ゲームだったとか……?」

「……それはそれで、なんかショック」

 そういうと少しの時差でラミアが笑い、それにつられて私も思わず笑ってしまう。

「まさかこんなことになるなんて思わなかった、昨日ひかりが急に具合が悪くなったから本当にびっくりしちゃって」

「うん、ごめん……、急にラミアからモヤが見えちゃったから動揺しちゃって」

「まぁそうだよね……、でもほんと今日会ってくれてありがとう、そんなモヤが出ている人と会ってくれるなんて」

「だって、ラミアはラミアだからさ」

 それを聞いたラミアは目を少し輝かせるようににっこりと笑った。

「ほら、そういうとこだよ」

「え?」

「ひかり、あんたからしたら私は黒くモヤって見えるかもしれないけど、私から見たあなたは、最高に輝いて見えるのよ」


   *


 仕事は順調、私生活だってこれといった問題はない。いや、あるとすれば。

「ねぇ、このマンションのネット、すごく遅くない?」

 ということくらいだった。

 発端は黒いモヤの正体についてわかった数日後、ラミアの提案のよる「モヤ克服強化計画」というアルコールから生まれたようなバカみたいな計画であった。

 計画といっても期間が決まっているというわけではない、これはラミアによる語彙選択の結果である。

 ちょうどお互いの住んでいる賃貸物件の契約期間が近かったこともあり、少し広めの部屋での私とラミアでシェアハウス生活をしてみることにした。

 引越ししてまだ荷解きも半分くらい残っているところでラミアがネットの速度が遅いことに嘆き始めた。

「まぁマンションのやつだからしょうがないよ、別でホームルータでも契約しようかねぇ」

「さすが、IT強者助かる!」

 ラミアは私に好意を向けてくれている、それは彼女の周りに垣間見えるモヤから見てわかる。今はまだ不安なことも多いけれど、彼女と一緒であれば、この先も悪くないのではないかとも思える。


 仕事も植木さんは無事に戻ってきて、少し照れくさそうに私と篠田に軽く謝罪した。

「別にいいっすよ、俺も迷惑かけることもあるかもしれないので、その時はお願いします」

 篠田は柔らかな物腰でそう植木さんに冗談ぽく笑って見せた。

 植木さんはグループ長に呼ばれて、そのまま席を外した。

「篠田、この前自分で人の心を持ってないって言われたって言ってたけど、全然そんなことないよ」

 私のその言葉に少し驚いたような顔を見せて、くしゃっと笑って見せる。

「なに言ってんすか。さ、さっさと仕事終わらせちゃいましょ」

 そう言って、照れたようにキーボードを叩き出した。


 人との繋がり、私は今まで何も見ようともせずに断ち切ってしまったことは多々あった。嫌なものを見ようともせず、それが自分を守ることだと思っていた。それは間違いではないかもしれない、それでもそれでは自分の人生を狭めているだけだ。

 黒いモヤはきっと私の妄想に過ぎない、見えたところでその本質はわからない。これから先もきっとこのモヤとは生きていくことになるんだろう。

 まだ少し変な感じがする時もあるけど、これもきっと私の受け取り方次第なのだ。


 これからも私の人生は続いていく、私や職場の仲間たちや、大切なパートナーと一緒に。

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ひかりかがやく 高柳寛 @kkfactory2020

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