第7話 支える

 プライベートでの先行きの見えなさは以前からでもあるが、仕事については順調であった。

 1人でお風呂に入っていると、またぼんやりと自分の人生について考えてしまう。このままずっと仕事して、このままずっと若いままで生きていけるわけではない。とはいえ、誰かと一緒に生きていくことなんて自分にできるのだろうか。

 蛇口から少し漏れるお湯がピチョンと音を立てて落ちていく。

 時は止まらない。

 今この時間の自分はもう元には戻ってこない。

 明日も似たように仕事をして、ToDoをこなしていき、そして家に帰って同じようにお風呂に入るのだろう。それは別に悪いことではないが、私はそこになぜか檻に入れられたかのような窮屈さのようなものを感じていた。

「仕事が悪い、社会が悪い、時代が悪……ブクブク……」

 思ってもないことを口にしながら湯船に沈む。何かのせいにしたところで結局何も変わらないことは私もわかっている。これは自由な証拠であり、自由すぎるがゆえに何をしていいかわからず、そのもどかしさからこの状況はなにかのせいだと思いたいのだろう。

「私は自由だぁ!」

 一旦、自分の知能レベルを底辺まで落としたところで湯船から出ることにした。

 湯上がりで肌をみると、やはり少しずつ歳をとっているなという実感からは逃れられない。私はいつもの順でスキンケアを終わらせて、お風呂場を後にした。


「アルバムちゃんと聞いてる?」

 ラミアからライブの準備はできているかというようなメッセージが届いた。

 この前買ったアルバムを聞いてばかりで、正直あまり聞いていなかったが、そこは素直にいうと拗れそうだったのでやんわりと返した。

 ひとまず今日を乗り切ればあとはリモートだと言い聞かせながら出社をする。リモートを知った身からすると本当にこの通勤時間が苦痛でしかなかった。そしてそんな電車の中でぎゅうぎゅうにされたあげくに革靴で足の指先が踏まれた。

「いたたた……」

 電車から降りて、しばらく柱に寄りかかり、痛みが引いてくのを待つ。

「現代社会よ……」

 などとぼやいて、痛みが引いてきたのでひとまず会社に向かう。今日は篠田がリモート、植木さんは定例会に出席するので不在だ。

 のんびりイヤホンで音楽を聴きながらシステムテストを進める。

 黙々と項目をクリアしていき、お昼もコンビニのパンで済まそうと思っていた最中、部署の扉が開かれる.

 ふと顔を上げると、経理の野見山がようと言わんばかりに手を上げた。彼はいつもぼんやりと黒いモヤが出ているので、いつもうまく笑顔が作れずに引き攣ってしまう。この時もまさしくそうであった。

「籠崎さん。どう、一緒にお昼なんて」

 今日はとことんついてないなと、吐きそうになったため息を飲み込んだ。

「……ちょっと今日は手が離せなくて、すみません」

「え、そうなの? 俺、元エンジニアだからわからないことあったらサポートできるよぉ?」

 黒いモヤが見えて仕方がないので、私は彼からパソコンの画面に視線を戻した。

「何言ってるんですが、野見山さんは経理の仕事があるじゃないですか」

「どれどれ、見せてごらん」

 私の話など何も聞かずに野見山は私の隣に立って画面をのぞいてくる。パソコンを見ているのにも関わらず、黒いモヤが加湿器の蒸気のように視界の邪魔をしてくる。

「大丈夫ですから」

 気を使うことを諦めて野見山の顔を少し睨むようにみた。

 野見山は少し困ったかのような素ぶりで肩をすくめて、はははと笑った。

 何もおかしくない、ヘラヘラしやがって、さっさと出ていけ、と自分の中のバーサーカーが暴れ出しそうであったが、なんとか理性がそれを抑えていた。

「あまり根詰めてもしょうがないよ、ご飯いこうよ」

 今はほぼ死語であるが、KYとは間違いなくこの男のために作られた言葉である。

「今日、うちはメンバーがいなくて忙しいんです」

 別に忙しさを知ってほしいわけではないのだが、モヤを見すぎた緊張と嫌悪でどうにかして追い払おうとして出た言葉がそれだった。

「あー、ほんとごめんね。わかった」

 野見山は両手をあげて私を宥めるようにそういった。

「ということで、ランチは大丈夫です」

「じゃあ、ディナーはどうかな?」

 は?と思わず声に出てしまう。

「仕事が終われば、もう忙しくないでしょ?」

 気持ち悪さや嫌悪感、全部ダムが決壊したかのうように流れ出し、先ほどまで必死に感情を抑えていた理性たちは無惨に流されていった。

「出てってください!!」

 こんな声が出るんだと思ったのは、そう叫んでから2秒ほど経ってからだった。その声に数名が部署を覗きにきていて、野見山もさすがにバツが悪くなったのか、ごめんねといってそそくさと出ていった。

 息が荒くなっていることに気づいて、叫んだ際に立ち上がっていたがそのままぺたんと腰を抜かすように椅子に座る。

「ほら、アレなんじゃない?」

 遠くでそんなようなことが聞こえたので、また頭に血がブアっと上がる。そして立ち上がり、扉の前まで行って、思いきり開けて言ったやつを見つけてやろうとしたが、私はドアノブから手を離した。

 これだから出社は嫌なのだ……。

 このチームはうまくやっていても会社には多く人間がいる。みんなが良い人なんてことはこの世の中にはないということは私には目に見えてわかっている。

「深呼吸だ、深呼吸」

 自分に言い聞かせるようにゆっくりと自席に戻った。

 テストも項番のどこまでやったかが飛んでしまい、大きなため息と共に私はデスクに俯いた。

「野見山ぶっ殺したい」

 社内チャットで篠田に思わず愚痴ってしまう。

「また、あの人すか」

「まじ人の仕事の邪魔しかできんのかっていう」

「あの人ほんと女癖悪いすね。前に経理の人付き合って別れてやめさせちゃうし」

 この話は社内でも有名で、そんな状況においてもこの会社を辞めなかった野見山はバケモノのようなメンタルの持ち主という話で一躍有名人になった。

「まじそんなのに目をつけられるのは勘弁よ……」 

「一旦テストは掛川さんの手が空いてる時にやってもらうことにして少し長めに休んできたらどうすか」

 篠田が気を使ってくれるので、思わず愚痴ってしまったことを申し訳なく思う。

「ありがとう、でも今出るとまたそのクズに会いそうだからすこしずらして休むわ」

「はーい」

 チャット窓を閉じて、しばらくぼうっとする。

 佐々木さん、これはやっぱり受け取り方の問題じゃすまないですよ……、きっと。


 明日はリモートで在宅ということもあって、今朝のやり取りからラミアと夜ごはんを一緒に食べにいくことになった。予定していた作業は全て終わらせて、少し遅れながらもラミアと合流する。

「ほんとにストレス……、部署内の人は全然問題ないんだけどね」

「私だったらその黒いモヤがあるだけでめっちゃイラつきそう」

「いや、ほんとにイラつくのよ……」

 そうは言っても単純な感情ではない。

「でもなんか、あのモヤがあるとやっぱり怖いし、なんか俺は凶器持ってるんだぞって脅されているような感じ……」

「いやだなぁ、そんな銃社会みたいな感覚……」

「ほんとにね」

 ふと、私の話題のせいで、ラミアもなんだか盛り上がりにかけるような雰囲気になってしまっていることに気づいた。

「あ、ごめん、ごめん。そんなことよりアルバムだよね、ちゃんと聞いてるよ」

「ひかり」

 作り笑いで必死に話題を変えようとしたのを見透かされたように真面目な顔をしているので私の下手くそな笑顔はすぐに崩れ去った。

「あのね、無理はしないで」

「え?」

「もし、怖かったり、辛かったり、悲しかったらちゃんと素直に教えて」

「う、うん」

「なんだったら、困ったらいつでも電話してもいいからさ!」

 その時の目は彼女に黒いモヤのことを相談し始めた頃の目に似ていた。彼女は過去にも私を守ろうとしてくれていた。何か困ったことがあったら、辛いことがあったら、その言葉に今までずっと甘えてきていることに改めて気付かされる。

「あ、ごめん。なんか思わず声大きくなっちゃった。だって、私にはそのひかりの言っているモヤなんか見えないし、正確な気持ちはわからないけど、怖かったんだなって思ったらなんか急に悔しくなっちゃって……」

 ラミアは目を潤ませながらも笑顔を取り繕ってそういった。昔から変わらないラミアに私は胸を熱くしながらも彼女に微笑みかけた。

「うん、私もなんかごめん……」

「あはは、なんでひかりが謝るのよ」

 ラミアはお通しを小鉢からかき込むようにペロリと食べて、いつもどおりハイボールをグビリと飲んだ。

「嫌なことは忘れて、飲もう!」

「うん、そうしよっか」

 そうして結局はいつものような他愛のないやり取りが始まり、ふとその帰り道に植木さんからの定例会のフィードバックを見ていないことを思い出した。


 翌日、在宅での仕事に取り掛かろうとするのと同時に会社で貸与されているスマートフォンがなった。

「朝から誰……」

 とそれを手にしてみると、グループ長と表記されていた。グループ長は私たちのようなチームをまとめるうちの会社の統括のような立場の人である。普段はこんな風に電話をかけてくることはないのだが、それを見た瞬間からの嫌な予感を私は拭うことができず、恐る恐る通話ボタンを押した。

「はい、籠崎です」

「あー、おはよう」

「おはようございます」

「いや、ほんと朝から申し訳ないんだが」

 グループ長はもうすぐ60歳になるというが、とてもハキハキしていて、低音のとても聞きやすい声をしている。そのため、電話越しだと本当に年齢がわからなくなることで有名であった。私もこのイケボに慣れるまで数年はかかった。

「なにかあったんですか?」

「実は昨日、植木がなぁ」

 やはり植木さん関連か、と思いながら次の言葉を待つ。

「なんかお客さんに反発したらしくって、昨日の夜に猛クレームがきてな。一応鎮火はしたんだけども」

「植木さんが? お客さんに?」

「そう、俺も聞いた時は自分の耳を疑ったよ。あのイエスマンの植木が異議を唱えるなんてな」

 それには私も同意見である。

 ここにきて、植木さんも篠田が如く佐々木さんの何かしら変化が現れてるのか。

「それで昨日、あいつに直接話を聞いてみたら、今のチームは支え合いが必要だと思ってだと」

「支え合い……」

 ぼんやりと、一昨日私が自分で言った言葉を思い出す。あ、これ私のせいか。

「あの、もしかしたら……」

「なんだ?」

「あ、いえ、勘違いかもしれないんですけど、打ち合わせの前日に植木さんをちょっと励ましてて……、定例会憂鬱だって言っていたので、その、元気付けようと……」

「それでか? だからあいつは支え合っていこうみたいなこと言ったってことか?」

「……おそらく」

 それを聞いた途端スマホ越しによく響く笑い声が太鼓が響くように私の鼓膜を激しく揺らした。

「本当にあいつはなぁ」

 しばらく笑ったあとでグループ長はそう漏らした。

「まぁ、今回は先方には言い方が悪かったかもしれないが植木なりのちょっとした提案であったと濁してなんとか許してもらえたから案件としてはそのまま継続だ。植木についてはまぁ昨日のこともあったからな、今日は休んでおけと伝えて有休取らせている」

 それを聞いて、あまり大事にはなっていないようで少し安心した。

「了解しました」

「あいつは良くも悪くも一直線でしか物事を捉えられないからなぁ。コロナが流行った時もずっと出社してたし、佐々木がやめるって聞いてからずっと片意地はって自分がリーダーとしてやっていくって気張ってたくらいだし……、まぁ佐々木がいなくなってどうなるかと思ったが、これはこれで面白いチームになりそうだな」

 なんだか人ごとみたいな言い方だなと思ったが、まぁ貶されているわけではないとは感じた。

「篠田とお前は同期だけどな、どっちかというとお前の方がまとめ役に向いてるとおもってお前に連絡したんだが」

「まぁ、篠田に比べてはそうなるかもしれないですけど、基本的に私は人の面倒みるの苦手ですよ?」

 変なイメージが付かないようにその部分は払拭しておく。

「ふふ、グループ長としては今の発言は聞かなかったことにしておくぞ。というわけだ、ひとまず今日はよろしく頼むよ」

 そう言って、グループ長の脳まで届く声は途切れた。

「植木さんもなんというか……」

 思わず漏らした独り言だったが、どことなくチーム同士が繋がっていること感じたのは嬉しくもあった。仕事は時間さえかければ1人で出来る。ただその分責任も全部のしかかってくる。この話を聞いたのも佐々木さんからだった。

「1人で仕事をするのは最初は気楽です。でも継続していくうち、蒔いていった種から実に成ったものの全てに責任を取らなきゃいけない。あまりの多さに手に負えなくなっても誰もその面倒の見方もわかってくれないので、1から全てを説明しないといけない。その説明の間も次の種が蒔かれ続けていってしまう。1人で仕事をするというのはそういう全てを管理できるようにならないといけません。だからチームで動くんです、共有し、協力し、1人にかかる負担を減らしながら次の種を蒔いていく。それに1人で仕事してたって、楽しくないですしね。私はおしゃべりが好きなので」

 そんな佐々木さんの笑顔を不意に思い出し、ため息をつく。

 これからは私たちでうまくやっていかないといけないのだと改めて自覚させられる。

 案件が波風立たずに進められてきたのはある意味イエスマンである植木さんのおかげだったのかもしれない。仕事は順調だと思えたのは彼のおかげだったのかも。まぁ、とはいえ、その分いくらかは苦労をしてきたところもあったが、それほど、今の案件を進めていくことが難しいものだったとしたら……。

 さらにはそんな案件の途中で佐々木さんが辞めるという話を聞いてから、植木さんは毎日なんとかしなければいけないという責任感に責められていたのかもしれない。

 これらは私の憶測でしかないので、実際に彼がどう思っているのかはわからない。それでも私はこんな風に植木さんの身になって考えたことはなかった。チームっていうのはただ単純に支え合うだけではなく、こうやって考えることなのかもしれないな。

「お疲れ様です、グループ長から話はききました。作業については大丈夫ですので今日はゆっくり休んでください。来週からでもまたチームとしてがんばりましょ」

 打っている最中から余計なお世話な感覚もあったが、少しでも励ましになればと送信ボタンを押した。

「さて、私は私でやっていきますかね」

 今日のやることリストを確認し、私は作業を始める。

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