第六話「地味男を捨てた地味男」




 地味男の日常はつまらないものである。会話がない、人肌が恋しい。こう感じてしまうのもきっと由里香ゆりかのせいだ。催淫のせいで酷い目に合ってしまうのなら孤独でいいと思っていたのに。


 だから今日は少し進んでみようと思う。


 目の前の観察日記と化してしまったノートをあおいは見やった。本日のやるべき内容がそこには書いてある。


「身体的な接触……」


 そう、あおい由里香ゆりかに実際に触れてみることで、催淫されているかを確認することにした。こんなに積極的に話しかけてくれてるのにつっけんどんな態度を取っていることも悪いと思っていたし、何よりも今のあおいは人との会話に飢えていた。


 本音を言うならば、あおいにこそちょっとした下心というのもある。可愛いクラスメイトと会話や触れ合いがしたい、切実な願いだった。


 あおいは静かにノートを閉じ、深呼吸を一つ。授業が終わったら、由里香ゆりかに声を掛けてみよう。自分の気持ちに正直になって彼女との距離を少しでも縮めることができれば、それだけで今日の自分は満足できる気がした。


 授業終了まで後一分。その時間が長く感じる。由里香ゆりかに話しかける、それだけのことで緊張しているのがあおいには分かった。きっとそれはこの世界的には少しおかしいことなのだろう。現在のあおいの立ち位置は以前の世界での女子。女子生徒が男子生徒に話しかけようとしてる、と考えられる。


 男子が女子に話かけるよりよっぽど気が楽なはずだ。前の世界も、いつだって女子は特に気にせず男子に話しかけていた。それなのに男子は恋心や下心がほんの少しあるからか、ちょっとだけ緊張して女子に話しかける。


 以前の価値観が抜け切っていない。あおいの緊張はこの部分から来るものだった。


 鐘の音が鳴り、授業の終わりを告げる。教室内はすぐに賑やかさを取り戻し、友人たちが一斉に立ち上がって話し始めた。しかし、あおいはその騒がしさに加わることなく、机に置かれたノートをじっと見つめていた。


「……よし」


 心の中で小さく呟き、あおいはノートを鞄にしまう。気持ちを落ち着けようと、手のひらに軽く汗が滲むのを感じながら深呼吸を繰り返す。これからの行動に対する不安と期待が入り混じり、胸の内がざわめく。彼の視線は自然と由里香ゆりかの座る席へと向かう。


 由里香ゆりかはすでに立ち上がり、友人たちと笑顔で言葉を交わしていた。その明るい表情を見て、あおいの胸の鼓動が少し速くなる。由里香ゆりかに声を掛ける、それだけのことがこれほどまでに自分を緊張させるとは思ってもみなかった。


「……でも、それでも」


 あおいは小さく呟き、席を立った。意識して呼吸を整えながら、由里香ゆりかの方へと歩み寄る。目標はシンプルだ。彼女に自然に話しかけ、少しでも身体的な接触を試みること。手が触れ合うだけでもいい。それが、今日のあおいの目的だった。


 由里香ゆりかあおいの接近に気づくと、一瞬驚いた表情をして笑顔を返す。


「わっ、た、立花たちばなくん……。どうしたの?」


 その問いかけに、あおいは一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに返事をした。


「い、いや、ちょっと話したいことがあって……」


 あおいはゆっくりと由里香ゆりかに近づいていった。心の中では変なやつだと思われていないか心配だった。


「何の話?」


 由里香ゆりかが首をかしげる。その仕草に、少しドキッとする。女性との接触を避けてきたあおいにとっては大ダメージだった。避けているからといって、欲が無いわけでは決してない。あおいだって、普通に青春を送りたい気持ちがある。そんな若干の幸福に包まれつつも振り絞って声を出した。


「最近……その、授業でわからないところがあって、ちょっと聞きたかったんだけど……」


 あおいはぎこちなくも由里香ゆりかに問いかけた。言い訳のような理由を付け足すことで、少しでも自然に話を進めようとしていた。


「え゛っ……!」


 時が止まったかのように由里香ゆりかが固まる。由里香ゆりかだけではない。それまで彼女と会話していた二人の友人も驚愕の表情をして固まっていた。


 その様子に、あおいは戸惑った。何かまずいことをしてしまったのか、不安に苛まれる。そんな不安からか反射的に口を開いた。


「……ご、ごめん、やっぱり――」


「――だ、大丈夫!!!」


 突然復活した由里香ゆりかが大きな声で叫んだ。少々息が荒く、顔も赤い。その様子にあおいは少し身を引いてしまった。というか、恥ずかしかった。余りにも大きな声だったものだから、注目されているのではないかと思ってしまったのだ。


 それを見た由里香ゆりかがあわあわと手を振る。


「あっ、ごごごごめん! 予想してなくて嬉しかったっていうか、つい……」

「う、ううん、気にしてないよ」


 「そっか……」と由里香ゆりかが胸を撫で下ろす。束の間をおいて由里香ゆりかは側で聞き耳を立てていた二人の友人にキッと鋭い眼差しを向けた。


 友人二人は何かを感じ取ったのか、「あっそうだ、アタシ今日昼休みに先生に呼ばれてタンダー」「ワタシもー」とこの場を去る。これにより、ここにいるのは同じ教室にいる少し離れた場所のクラスメイト、そして目の前の由里香ゆりかだけとなった。


「それで、どの授業の話?」


由里香ゆりかが少し前屈みになりながら、あおいの顔を覗き込む。近くで見ると、彼女の瞳は驚くほど澄んでいて、まるで吸い込まれそうな感覚に陥る。あおいは一瞬言葉を失ったが、どうにか頭の中で考えをまとめる。


「あ、ああ……そうだね。えっと、数学の授業で……」


 あおいはぎこちなくもノートを開き、適当なページを指さす。実際に困っている問題というわけではなかったが、何か話す口実が欲しかっただけだ。それに気づいているのかいないのか、由里香ゆりかはそのページに目を落とし、少し考え込んだ様子を見せた。


「ここかな? それともこっち?」


 由里香ゆりかがノートに指を滑らせながら、あおいに向けて質問を投げかける。その時、ふと彼女の指先があおいの手に軽く触れた。柔らかくて、温かい。ほんの一瞬の接触だったが、あおいにとってはその瞬間が強烈に刻まれる。


 ――ってそうじゃない!今回の目的は接触をした後の様子の確認だ!


 あおいはかぶりを振ると、バレないように由里香ゆりかをまじまじと見つめる。こういう時に目線を隠してくれるから長い前髪は便利だ。


「…………っ?」


 おかしな部分はない。今まであおいが催淫してしまった人物は少しでも身体が触れると症状が酷くなることがあった。それを踏まえての今回の実験だったが、今のところは問題はなさそうだった。


「ここの部分がちょっと」

「あ、あー、分かりにくいよね」


 由里香ゆりかあおいのノートを指しながら、問題の解説を始めた。彼女の声は落ち着いていて、少なくともあおいの耳では変わった部分はない。それを確認しあおいはほっとした。しかし、まだこれだけでは判断材料が少ないだろう。


 ――接触部分が小さすぎたかもしれない。もう少し大きな接触を試さなきゃ。


「ねえ」


 あおいは少し身を乗り出し、由里香ゆりかの手に軽く触れた。由里香ゆりかは一瞬驚いた表情をし、身体を震わせるがすぐに穏やかな笑顔を浮かべた。


「……うん、何?」


 その優しい声にあおいは戸惑った。由里香ゆりかの反応は以前と変わらない。何の異常も感じられない。


「いや、何でもない。……ありがとう」


 あおいはそう言って手を離した。


「う、うん」

「……ふっ」


 今の反応を確認できてほっとした。あおいの見ていない影でもおかしいところはなく、直接接触しても違和感はない。由里香ゆりかに催淫の兆候はほぼほぼの確率でないと断言していいだろう。あおいは舞い上がる気持ちでいっぱいだった。そして、新たな気持ちが芽生える。


 ――このまま由里香ゆりかと仲良くしていきたい。青春が、したい……!


 この世界でのまともな女友達がようやくできたかもしれないのだ。催淫にかかっていないなら、きっと仲良くできるはずだ。


 つけ加えていうならば、由里香ゆりかは催淫に掛かりにくい体質なのだとあおいは思う。


 いくら地味男ガードがあるとはいえ、ここまでの接触があったのに催淫の反応を出さないとなれば、それはもう確実だろう。つまり、素の自分を出せる存在になりえるということ。運命の人、そんな単語があおいの頭に浮かんだ。


柊木ひいらぎさんが良ければ、一緒にお昼食べながら話さない?」


 あおいはついに地味男としての顔を隠すことをやめた。この繋がりを失いたくなかった。これからは由里香ゆりかの前でだけは立花蒼たちばな あおいとして、積極的に仲良くしようと決意したのだった。

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