第五話「尾行する地味男」




 一晩置いて考え、決めたことがある。それは由里香ゆりかが催淫されているか、されていないか、これをどうにかして確かめようということだ。


 方法はいくつかあるだろうが、直接聞くなんて野暮なことはしない。口では何とでも言えてしまうし、過去の経験からしても、女性たちは襲いかかる直前まで平然を装っていたことが多かった。


「――ここは……であるからして」


 あおいはノートに視線を落とし、授業の板書には目もくれず、これまでの経験を思い返していた。教室内で響く教師の声は耳に入らず、静かな時間が彼にとっての最高の思考タイムとなっていた。過去の出来事を整理し、由里香ゆりかについての結論を導き出そうとしていた。


 ――もし、由里香ゆりかが催淫されているなら、普段の行動に何らかの兆候が現れるはずだ。


 あおいはそう考え、いくつかの仮説を頭の中で組み立て始めた。過去に催淫された女性たちは、あおいの持ち物や身の回りの物に異常な執着を見せることが多かった。その中でも、彼女たちがあおいのいないところでこっそりと物を盗もうとしたり、後をつけたりしていたことを思い出した。


「……やっぱり、ストーキングしかないか」


 あおいはそう結論づけると、ノートに大きく「ストーキング」と書き込み、その下にいくつかの観察項目を箇条書きにしていった。例えば、彼女がどこで何をしているのか、誰と話しているのか、あおいの持ち物に触れようとしているかどうかなど、細かい点を挙げていった。


 ――まずは、昼休みだな。


 あおいは次の休み時間に、由里香ゆりかがどう動くのかを観察する計画を立てた。もし、彼女が自分に近づいてくるようなら、それはそれで観察のチャンスだが、彼女が一人で行動するなら、こっそりと後をつける必要があると考えた。


 その時、授業終了を告げる鐘が教室内に鳴り響いた。クラスメイトたちは一斉に立ち上がり、お弁当やパンを取り出し、友達同士で楽しげに話し始める。あおいは心の中で深呼吸をし、ノートを閉じて席を立った。彼はすぐに由里香ゆりかの動きを追い始めた。


 由里香ゆりかは笑顔で周囲の友人たちと軽く会話を交わしていたが、すぐに立ち上がり、教室の外へと向かっていった。あおいはその背中を見送りながら、心の中で決意を固めた。


 ――行くしかない。


 あおいは一呼吸置いてから、誰にも気づかれないように教室を出て、由里香ゆりかの後を追った。廊下を歩きながら、彼女がどこに向かうのかを慎重に見極めようとした。


 由里香ゆりかは一度も振り返ることなく、静かに歩を進めていた。あおいはその背中を数メートル離れたところから見守りつつ、隠れる場所や目立たない立ち位置を選んで移動した。彼女が急に曲がったり、立ち止まったりしないか、常に警戒しながらの尾行だった。


 廊下を進む由里香ゆりかの背中をじっと見つめながら、あおいは心の中で焦りが募っていくのを感じた。彼女が普通の行動をしているように見えても、その裏に何か隠された意図があるかもしれない。自分は果たして、その微細な兆候を見逃さずに観察できるのだろうか――そんな不安が胸を締めつけた。


 やがて、由里香ゆりかは学校の中庭に通じる小さな通路に入っていった。ここは人通りも少なく、普段はあまり使われていない場所だ。あおいは彼女がどこへ行くつもりなのかを見極めるため、少し距離を縮めていった。


 由里香ゆりかが通路の奥にあるベンチに腰を下ろした時、あおいは少しだけ安心した。彼女が誰かと会うために来たわけではなさそうだったが、やはり何かをしようとしている様子だ。彼女がポケットから何かを取り出すと、あおいは距離がありながらも目を凝らしてそれが何なのかを確認しようとした。


 彼は少しずつ距離を詰め、できるだけ物音を立てないように気を使いながら、由里香ゆりかに近づいていった。彼女が手にしていたのは、透明なタッパーだった。そのタッパーの蓋を彼女はそっと開けると、慎重に中身を地面に置き始めた。


 ――これは……?


 あおいは息を呑んだ。距離が遠く、よく見えないが、タッパーの中には茶色の固形状の粒がたくさん入っているように見える。あれはまるで――


「こはくー? ご飯だよー」


 由里香ゆりかが静かに呼びかけたその瞬間、茂みの中から一匹の猫が現れた。小柄で、毛並みの美しい茶色い猫だ。猫はすぐに由里香ゆりかの元へ駆け寄り、彼女の足元で甘えるように鳴いた。


 こはくは由里香ゆりかの足元に体をすり寄せ、優しく鳴き声を上げた。その様子を見て、由里香ゆりかは目を細め、まるで自分の子供に接するように穏やかな表情を浮かべた。


「今日も元気そうでよかった。こはく、お腹空いてたんだね」


 由里香ゆりかは優しくそう言いながら、こはくの頭を撫でた。こはくはその手のぬくもりに満足そうに目を細め、さらに彼女に甘えるように身を寄せた。その仕草に、由里香ゆりかは思わず微笑みを浮かべた。


「はい、ご飯。今日はあなたの好きなやつを持ってきたんだよ」


 由里香ゆりかはタッパーの中からキャットフードを少しずつ取り出し、こはくの前に置いた。こはくはすぐにそれに飛びつき、口いっぱいにキャットフードを頬張り始めた。その一心不乱な姿に、由里香ゆりかはくすっと笑みをこぼした。


「そんなに急いで食べたら、喉に詰まっちゃうよ」


 彼女の注意には耳を貸さず、こはくは夢中でご飯を食べ続けた。由里香ゆりかはその様子をじっと見守りながら、優しく手を伸ばしてこはくの背中を撫でた。彼女の手が触れるたびに、こはくは嬉しそうに体をくねらせ、もっと撫でてほしいとでも言うように近づいてきた。


「こはく、今日は何してたの?誰かにいじめられてない?」


 もちろん、猫が言葉を理解するわけではないが、由里香ゆりかはまるで親しい友達に話しかけるかのように、こはくに問いかけた。こはくは返事をするわけでもなく、ただ満足そうにご飯を食べ続けた。時折、顔を上げて由里香ゆりかを見つめるその瞳には、まるで感謝の気持ちが込められているかのような光が宿っていた。


 やがて、こはくがご飯を食べ終えると、由里香ゆりかは空になったタッパーを片付けた。こはくはそれを見送った後、由里香ゆりかの膝に飛び乗り、丸くなって座った。由里香ゆりかはその軽やかな動きに驚きつつも、膝の上で気持ちよさそうにくつろぐこはくを見て、再び微笑んだ。


「もう、甘えん坊だなあ」


 由里香ゆりかはそう言いながら、こはくの柔らかな毛を撫で続けた。こはくは目を閉じ、喉をゴロゴロと鳴らしながら、由里香ゆりかの膝の上で安心しきった様子だった。彼女はその重みと温かさを感じながら、まるで時間が止まったかのように穏やかなひとときを過ごしていた。


 二人――由里香ゆりかとこはくの間に流れる時間は、まるで永遠に続くような、静かで温かなものであった。


 あおいは物陰からその光景をじっと見つめていた。由里香ゆりかがこんな風に猫と接しているのを見たのは初めてだった。あの無防備な笑顔――自分には見せたことのない、まるで子供のような純粋な笑顔が、彼女の顔に浮かんでいた。


「……なんだ、俺は一体何をしてるんだろうな」


 思わず呟いた声が、自分でも驚くほど冷たく感じられた。今まで疑いの目でしか見てこなかった由里香ゆりか。彼女が催淫されているかどうかを確かめるために、こうして尾行までして――それなのに、目の前の彼女はあまりにも無邪気で、自然で、疑いようがないほどに普通だった。


「催淫されてるかどうか、なんて……」


 あおいは自嘲気味に笑った。もしかすると、自分が無理に疑っていただけなのかもしれない。過去の経験から来る不信感が、由里香ゆりかを普通に見られなくしていただけかもしれない。それを証明するかのように、彼女はただ、目の前の小さな猫と穏やかに触れ合っているだけだ。


 あおいの心の中で、何かがふと柔らかく解けたような気がした。これまで彼女を警戒し、遠ざけようとしていた感情が、今、少しずつ溶けていくのを感じる。その原因が彼女の無邪気な笑顔と、猫との微笑ましいやりとりにあったことに、気づかざるを得なかった。


 あおいは静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。もう少しだけ、彼女のことを知ってみたいと思った。催淫の疑いを持つのではなく、普通の一人の女の子として、彼女を見つめ直してみたいという思いが、心の奥底から湧き上がってきた。


 しかし――それでも警戒心は完全には消えない。過去のトラウマが、彼を完全には自由にさせてくれない。それでも、今この瞬間、あおいはほんの少しだけ、由里香ゆりかに対して心を開く準備ができている自分に気づいた。


「もう少し、観察を続けてみるか」


 あおいはそう呟いて、再び目を開けた。まだ完全に安心できるわけではないが、彼女の本当の姿を知るために、もう少しだけ様子を見てみようと心に決めた。


 あおいはしばらくその場に留まり、由里香ゆりかと「こはく」の微笑ましいやり取りを眺めていたが、ふと我に返って教室に戻ることを決めた。静かに踵を返し、気配を消すようにして廊下を歩き始める。教室に戻るまでの間、彼の心の中には様々な感情が渦巻いていた。


 ――催淫なんて、本当にあったのだろうか?ただの自分の思い込みかもしれない。


 そんな考えが頭をよぎりながらも、あおいはまだ完全に疑念を捨てきれない自分に気づいていた。それでも、今日見た由里香ゆりかの姿は彼の心に確かな印象を残していた。


 教室に戻ると、昼休みの終わりが近づいていることを告げるように、クラスメイトたちがそろそろ席に着き始めていた。あおいは自分の席に腰を下ろし、鞄の中からノートを取り出した。今日は何も進展がなかったと簡単に結論付けるわけにはいかない。だからこそ、観察結果をきちんと記録しておく必要があった。


 ノートの表紙をゆっくりと開き、ページをめくると、すでにいくつかの観察項目が箇条書きされているのが目に入った。あおいはペンを取り、今日の出来事を順を追って書き記していく。


「昼休み中に教室を出て、廊下を歩き、中庭に向かう。途中、一度も周囲を気にせず、一定のペースで歩行。中庭のベンチに座り、持参したタッパーから茶色の粒を取り出し、猫に餌を与える。猫に対して非常に優しい態度を取り、終始無防備な笑顔を見せる」


 あおいはここで少し手を止め、ペン先を軽く唇に当てながら考え込んだ。彼女の行動には、これまで観察してきた「催淫された女性たち」の行動とは大きな違いがあった。しかし、それが「安全」だという確証にはならない。過去の経験から言えば、油断は禁物だ。


「補足、現時点では"催淫"の兆候は見られないが、引き続き観察が必要。今後、別の兆候が現れる可能性も考慮」


 あおいはノートにこれだけのことを書き込むと、ペンを閉じて再び鞄の中にしまった。今日の結果は何も証明しなかったが、それでも彼の中にわずかな変化が生まれたことは間違いなかった。由里香ゆりかのことをただの「観察対象」として見るのではなく、もう少し人間らしい目で見てみてもいいかもしれない――そんな考えが頭の片隅に浮かんでいた。


 あおいは深呼吸をして、少し重くなった気持ちを和らげるように背もたれに寄りかかった。そして、昼休みが終わるのを静かに待ちながら、あの時の由里香ゆりかを思い出し考えにふけるのだった。

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