第二話「地味男、始めました」




 ――この世界は貞操観念が逆転している。


 それは自分、立花蒼たちばな あおいが確信した確固たる事実である。

 元々あおいは、一般的な夫が家庭を養い、妻が家事をする、そんな世界にいた……つもりだった。しかし、ある日突然その常識は変わった。男女に関する様々な価値観が変わってしまったのだ。それに合わせて過去も改変されてしまい、頭を抱えたくなった。


 そんな矢先だった。あおいがインキュバスという事実が発覚したのは。発端は中学生の頃だった。


 貞操観念が逆転したばかりである中学生の頃、変わってしまった日常に戸惑いながらなんとか学生生活を送っていた。幸い友人関係は変わっていなかったが、友人達の考え方が明らかに以前とは違っており絡みづらくなっていた。


 結果、あおいは孤立した。虐められていたとか、はぶられていたとかではない。単純に自ら離れたのだ。今まで知っていたものが変わることは受け入れ難いことだった。


 そんなあおいに近寄ってきたのはクラスの女子達だった。今まで色恋沙汰の無かったあおいにとって、それは少し嬉しい出来事だった。だったのだが……一つの違和感が当時のあおいには存在していた。


 ――あれ、なんか顔が赤いし、早口じゃない?こんな感じだったっけ……?


 明らかに情欲の色が伺えた。女子達はあおいを狙った狩人の目をしていたのだ。少ししてからあおいはそのことにようやく気づいた。貞操観念の逆転にようやく馴染んできたころのことだった。


 そうしてある日起きた朝の時。鏡を見ると……そこには小ぶりな翼と尻尾が生えた自身の姿があった。しかし一瞬の出来事だった。瞬きをした次の瞬間には消えていた。手で探ってもそこには何も無く、空を切るだけだった。


 そしてその日、あおいは放課後、教室に残っていた。すると、クラスの女子生徒の裕美ゆうみが静かに近づいてきた。普段の笑顔とは違って、彼女の顔には真剣な表情が浮かんでいた。


 「あおいくん、少し話がしたいの」と裕美ゆうみが言った。あおいは驚きつつも頷き、彼女について行った。裕美ゆうみは教室の隅に案内し、他の生徒がいない場所に到着した。


 「実は、私、ずっと前からあおいくんのことが気になってたの」と裕美ゆうみが告白した。彼女の瞳には真剣な光が宿っており、あおいは一瞬、言葉を失った。


 「ごめん、今忙しくてそれどころじゃ……」とあおいが答えると、裕美ゆうみの表情が急に変わった。彼女の目には明らかに欲望の色が浮かび、あおいの肩に手を伸ばしてきた。


 「どうして?どうして私の気持ちを受け入れてくれないの?」裕美ゆうみの声には、悲しみとともに強い決意が混じっていた。彼女はあおいに一歩近づき、彼の身体に触れようとした。


 あおいはその異常な状況に動揺し、後ずさりしようとしたが、裕美ゆうみはさらに強くしがみついてきた。「やめて!」と必死に叫んだが、彼女の手はあおいの腕にしっかりと絡みついていた。


 あおいは力を振り絞って裕美ゆうみを押しのけ、教室を急いで飛び出した。廊下を駆け抜け、階段を駆け上がり、自宅にたどり着くと鍵をかけた。壁に寄りかかりながら震える手で深呼吸を繰り返し、心臓が激しく鼓動しているのを感じた。


 異常な出来事だった。あんな目に合うのはもうこりごりだった。だから必死になって調べた。研究をした。


 その行き着いた先が、あおいの魅力に微かでも惹かれた女性は誘惑されてしまう……まるでインキュバスとも言えるような体質だった。あの時見えた尻尾や翼はまだ見えていない。しかし……きっと自分は普通の人間とは違う。

 これがあおいの結論付けた結果だ。


 ――だからこうやって、昼休みに一人黄昏れて本を読んでいるってわけ。


 これはある種大事なムーブとも言える。高校に進学して間もないが、印象というのは最初が肝心なのだ。ここで、あおいという男は地味でつまらなくて変な男、そう印象付けるのだ。更に、この日のために前髪を伸ばし続けて顔を隠す用意周到ぶり。まさに完璧であろう。ここまですればあおいに魅力を感じる人間はいないはずだ。


 だと思っていたのに。


「…………」


 ずっと見つめられている。隣の席の柊木由里香ひいらぎ ゆりかという女子に。彼女に見つめられるのは初めてではないが、それが気になってどうしてもこちらもチラチラと目線を向けてしまい、その度に黒髪ポニーテールの彼女の姿が映る。


 あおいは少しずつ焦りを感じていた。彼は「地味でつまらない男」としての自分を印象付けるために、万全の準備をしてきたはずだった。しかし、隣の席に座る由里香ゆりかは、まるでその仮面を見破るかのように、じっと彼を観察している。

 実は一度声をかけられたことがある。その時は無視をしてやり過ごした。声もちいさかったし、ハッキリと名前を呼ばれなかったからだ。しかしこうも連続で見つめられるとは……。


 どうしてこうなる?あおいは内心で自問した。自分が周りに興味を持たれないようにしているつもりだった。しかし、由里香ゆりかの視線はその努力を無駄にしているかのようだった。


 彼女は一見スマホをいじっているように見えるが、あおいにはわかっていた。彼女は確実に自分を見ている、と。鋭い観察力を持つあおいだからこそ、その視線を感じ取ってしまったのだ。


 ――無視しよう。


 あおいは心の中でそう決めた。これ以上彼女に意識を向けるべきではない。視線を合わせてしまうと、彼女が自分に興味を持つ理由を与えてしまうかもしれない。それは最も避けたい事態だ。だから、あおいは再び本に集中しようとした。


 だが、由里香ゆりかの視線は鋭いナイフのようにあおいの意識を切り裂いていた。ページをめくるたびに、どうしても彼女の存在が頭をよぎる。集中できない。本に目を落としても、文字が全く頭に入ってこない。


 ふと、由里香ゆりかが動いた気配を感じた。あおいは無意識に彼女の方をチラリと見た。そして、彼女が自分に話しかけるために口を開こうとしていることに気づいた瞬間、あおいは心臓が跳ね上がるのを感じた。


「ねぇ、立花たちばなくん……」


 その言葉が発せられた瞬間、あおいは息を止めた。まさか自分に直接話しかけてくるとは思っていなかったのだ。心臓が早鐘を打ち、頭の中が真っ白になる。


「……何か用?」


 冷静を装いながら、あおいはそっけなく答えた。自分に興味を持たれないように、できるだけ短く簡潔に言葉を返した。しかし、その声はほんの少し震えていた。


 由里香ゆりかは微笑んだ。その笑顔は無邪気で、あおいが何を考えているのかを全く気にしていないかのようだった。


「ごめんね、ずっと見てたから気になっちゃって……立花たちばなくん、何か悩んでることがあるの?」


 予想外の質問にあおいは驚き、瞬時に言葉を失った。彼女の言葉には、全く悪意が感じられなかった。それどころか、彼女は本当に心配しているように見えた。


「いや、別に……何も悩んでないよ」


 あおいは必死に冷静を保とうとしたが、心の中では混乱が渦巻いていた。どうして由里香ゆりかが自分にそんな質問をするのか理解できなかった。


「そう? でも、立花たちばなくんっていつも一人で本を読んでるし、なんだかちょっと寂しそうに見えるんだよね」


 彼女の言葉にあおいは戸惑った。どうしてこんなに自分に関心を持っているのだろう?ずっと目立たないようにしてきたのに、由里香ゆりかの目には何か別のものが映っているのだろうか?


 「そんなこと……ないけど」


 あおいは目をそらしながら返事をした。しかし、その言葉は自分に対しての言い訳のように聞こえた。


 由里香ゆりかはしばらくあおいを見つめていたが、やがて優しい笑顔を浮かべてこう言った。


「もし何か困ってることがあったら、私に相談してね。いつでも力になるから」


 そう言うと、由里香ゆりかは立ち上がり、あおいに軽く手を振って教室を出て行った。


 あおいはその後ろ姿を見送りながら、胸の中に生じた奇妙な感覚をどう処理すればいいのか分からなかった。由里香ゆりかの言葉は心に深く刻まれ、あおいが一人でいられないような不安をかき立てた。


 彼は自分が孤立していることで安心していた。しかし、由里香ゆりかの言葉によってその安心感は揺らぎ始めた。もし自分が本当に孤立しているのだとしたら、果たしてそれが正しい選択なのか?そして、彼女は一体どうして自分に興味を持っているのだろうか?


 あおいは再び本を開こうとしたが、由里香ゆりかの言葉が頭から離れず、結局そのまま本を閉じたまま次の授業を迎えた。

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