貞操逆転世界で地味男やってます

@aroraito

第一話「とある日の体育の授業」

 木の幹に身体を凭れかけながらグラウンドを眺める。遠くには男の集団と女の集団が二つに別れてそれぞれスポーツを行っていた。男子はテニス、女子はサッカーをしているようだった。


「あづい……」


 今は夏だ。しかも8月という丁度ど真ん中の夏。いくら木陰にいるとはいえジリジリと照りつけるような暑さは身体を蝕んでいた。


 額から汗が流れ落ちる。この長ったらしい前髪をかきあげて思い切り拭いたいが、それができない、というのが実情だった。


 ……立花蒼たちばな あおいはインキュバスだ。


 それが全てに起因している。目の前の少し離れた集団が半袖短パンの体操服なのに対し、こちらが全身を覆うジャージ姿なこと、また頭髪も長ったらしく目を完全に隠すほどの前髪であることも。さらに加えて言うならば、この体育の授業に参加していないこともだ。


 それは、あおいがインキュバスであるためだ。


 インキュバスとしてのあおいは、人の欲望や感情に敏感であり、無意識のうちにそれを引き寄せてしまう。あおいの存在そのものが周囲の人々に影響を与える可能性があるため、学校では常に注意を払わなければならなかった。


 ――そのため、できるだけ地味な男に見えるよう、欲情を誘わないようにしている。


「やっぱり……こうして遠くから見るのが一番だな……」


 あおいは、遠くのテニスコートやサッカーグラウンドで楽しそうに運動する同級生たちを眺めながら、静かに呟いた。彼らの笑顔や歓声が、あおいにとっては遠い夢のように感じられた。


「あ、立花たちばなくん!」


 突然、名前を呼ばれ、あおいは驚いて顔を向けた。そこには、クラスメイトの一人、柊木由里香ひいらぎ ゆりかが立っていた。彼女は運動部に所属しており、いつも元気で明るい笑顔を見せていた。


「何してるの?こんなところで」


由里香ゆりかの問いに、あおいは一瞬言葉を詰まらせたが、すぐにいつものように笑みを浮かべた。


「ちょっと具合が悪くて、体育の授業休んだんだ」


「そうなんだ。この暑さだからねー」


 彼女の純粋な気遣いにあおいは内心で苦笑した。何しろ具合が悪いということはない。あおいの身体は至って健康であったからだ。


「でもそんなに悪いわけじゃないから。大丈夫だよ、ありがとね」


「そっか……でも、もしよかったら、来週放課後一緒に遊ばない?」


 由里香ゆりかの優しい誘いに、あおいは驚きと喜びを感じた。彼女の気遣いが心に染みたが、それでも自分の立場を考えると素直に受け入れることができなかった。


「ありがとう。でも、最近少しやることがあって……また今度、ね」


「分かった、じゃあまたね!」


 由里香ゆりかは笑顔で手を振り、あおいもそれに応える。由里香ゆりかが去っていくと、あおいは再びグラウンドを見つめた。彼女の言葉が心に残りながらも、あおいは自分の置かれた状況を再確認した。自分が誰かと深く関わることで、その人を傷つけてしまう可能性がある。だからこそ、あおいは孤独を選んでいた。


 それでも、由里香ゆりかの優しさに触れたことで、一瞬だけでも普通の学生生活を送りたいという願望が胸の中に湧き上がってきた。しかし、その願望を抱くたびに、あおいは自分がインキュバスであることを思い知らされるのだった。


「やっぱり、無理なんだよな……」


 あおいは呟き、自分を奮い立たせるように深呼吸をした。そして、ふと視線を上げると、遠くにいる由里香ゆりかの姿が目に入った。彼女は仲間たちと笑顔で話している。その光景があおいの胸に一瞬の温もりを与えた。


 次の授業が始まるまでの時間、あおいは静かに過ごすことに決めた。木陰に身を委ねながら、少しだけ目を閉じる。すると、風が優しく彼の髪を揺らし、ほんの少しだけ心地よい冷気が感じられた。


「いつか、いつか普通に……」


 その夢を胸に抱きながら、あおいは再び目を開けた。彼の瞳には決意が宿り、未来への希望が少しだけ色づいていた。


 そして、教師が集合の声がけが聞こえると、あおいはゆっくりと立ち上がり、教室へ向かった。どんなに困難であっても、あおいは前に進む決意を新たにしていた。由里香ゆりかや他の仲間たちと共に過ごす未来を信じて。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る