遺言

第8話

洗濯物を干しにバルコニーに出ると、隣の部屋に珍しく人が来ているようだった。昨日から心地の良い気温が続いているし、こんな町でも外に出たくもなるか。


「カラ、少し聞いてくれないか」


バルコニーから戻るとアニマは少し改まってそんなことを言ってきた。


「なんだアニマ」

「カラに、時間逆行理論を教えておきたい」


時間逆行理論。俺はその理論を全く知らない。


「なんでだよ、俺馬鹿だから教えられても分かんねーよ」

「分からなくていい。分からなくても君が一人で逆行出来るようにしておきたいんだ」


俺はアニマが考えていることが分かったような気がして、耳を塞いだ。


「いいいい、聞きたくない勉強なんかするもんか」

「とりあえず、少しだけでいい、機械を見てくれ。俺が何をやっているのか知ってくれよ」


このまま無視を通すのも可哀そうだと思い、俺はベッドの隣の椅子に座った。

アニマは張り切ってディスプレイとキーボードを出して行く。


「まず、時間の設定は慎重な計算が求められる、大きなところで言えば、地球の自転、公転を考えなかったら地中に埋まる」

「やば」


ベッドの脇にある背丈ほどの自作コンピュータを叩く。


「俺が毎回それをやる必要はない。早く、正確で莫大な量の計算はこいつに任せる」

「へぇ」


俺は洗濯物を干す時に邪魔だとしか思っていなかったわ。


「その計算の設定と、命令、確認は俺がやらなくちゃならない」

「あ、俺無理」


アニマは俺の頬をつねった。

痛くもなんともなくて嫌になる。


「すぐ諦めんな」

「無理なもんは無理なんだよ」


アニマはため息をつくと、ディスプレイに向き直った。


「そんなに難しいもんじゃない。今から設定してみるから見てろ」

「はいはい」


アニマは何か数字と英語を黒い画面に書き込んだ。

数十秒後何か別の数字が表示される。


「既にカラの体は反物質に対応できるように設定してあるから、ここをクリックするだけで昨日の10:00に行くことが出来る」

「へぇ」


俺はマウスでカーソルを動かした。


「現在に戻る時も同じことをすればいいだけさ」

「へぇ…。どうなってんだこれ、もうちょっと詳しく…」


カチッという音がした。


「「あ」」


逆行が始まる。


『ヘッドフォンをつけていて本当に良かった』

「だな。これからは絶対外さないわ」

『逆行している間はどうにもできないんだ。だから昨日の10:00に着いたらすぐに現在に戻す』

「頼むわ」


俺は昨日の10:00に飛んでしまった。


「あ、これまずいかも」

『「え、なんで?』」


この声は、一つはヘッドフォン現在のアニマ。そしてもう一つは昨日の10:00のアニマだ。


「あー、あらかた予想はついた。どうせ俺がカラに時間逆行理論を教えようとしたら、カラが間違って押したんだろ?」

「当たり」


俺は少し恥ずかしくなりながらそう言った。

昨日のアニマにも勝てないな。


「一応、カラ、あー現在のカラは買い物に行ってるよ」

「一応俺が現在のカラなんだけどな」


俺が俺自身に出会った時、どうなるかはまだ試したことがない。

アニマは何が起こるかはまだ研究段階だから避けようと言っている。


『昨日の俺と話してないで。帰る準備できた』

「あーはいはい」


俺は雑に返事をした。そして昨日のアニマに手を振ろうとしたのだが、そこで泣き声のようなものが聞こえてきた。


「アニマ、これ聞こえるか?」

『「隣部屋のおじいさんが泣いている』」


アニマとアニマの声が響く。


「アニマ、これはなんだ?」

「分からない。俺は君が目の前に来るまで寝ていたから。たぶん君が来なかったら気づいていない」


隣の部屋には老夫婦が住んでいる。そういえば今日は珍しく人の出入りがあったな。


「アニマ、ちょっと俺見てくる」

『「現在に帰らないのか』」


どちらも心配そうな声で笑ってしまう。

アニマはアニマ、一日で人は変わるわけがないんだが、笑ってしまう。


「ちょっとだけ」


俺はうちと同じくボロボロの錆びついた扉を叩いた。

大丈夫、もう何も、変えない。殺さない。









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