【短編小説】米

にゃんぽち

読切作品でにゃん!

俺は飯を食っていた。

白米である。それ以外はない。

白米は美味い。それそのものがかつての日本で金と同等の扱いを受けていただけのことはある。

白飯に何かを添えて食べるなど言語道断だ。

白米は白米そのもので完結している。他に何もいらない。それだけで充分すぎる力と味を持っているのだ。

それもこれも、全国の農家の皆様が美味しいお米を作ろうと長年様々な工夫と努力を持ってして心血注いでくれたおかげである。米の一粒一粒に魂は宿る。俺はこの白米に関連する全てのものに感謝をする。水、稲、風、土、そこに住む生き物、そして人ーこの何か一つでも欠けていれば、今日の俺の食卓は成り立たなかったのだ。感謝しても感謝しきれない。この尊い白米を俺は今、この瞬間に口内に運び、己の糧とするために胃に叩き込む。食え、食えよ俺。白米はいいぞ。こんなにも尊いものがこの世に存在するのだろうか。

誰かは言った。正義とは何なのか。この目まぐるしく思想の移り変わる世界において、たった一つ、変わらないものがある。それは、他人に食べ物を分け与えるという尊さである。食べ物とは人間が生きていくのに絶対に欠かせないものである。それを分け与えるということは、自身の命の糧を相手に与えていることに他ならない。そしてそれが飢えに草臥れてる社会の中でなら尚更だ。まさしく、そのような社会では自身の食糧を顧みず、他者に分け与える行為は、何物にも変えられない尊き行為なのだ。そして、そのような行為は例えどのような時代においても正義と呼べるのではないか-

-だいぶ俺の脚色が入っているが、つまりその人は食を与える行為こそがこの世に存在するたった一つの正義なのではないか、と提唱したわけである。少なくとも俺はそのように解釈している。最も、その人が食のアイコンに携えたのは俺の最も嫌いな食べ物であるパンであったのだが。パンは…日本の伝統的な食文化ではないだろう。餡子が入っているから五分五分といったところか?ならおはぎでも良かったのではないか-しかしこれを唱えた人は、日本が戦争で負けて「正義」という概念がわからなくなったという背景がある。あえて米にしなかったのにも何か思うところがあったのだろう。あまり吹聴するようなことではないが、俺はそのようなことについて知識が乏しい。故に、あまりその部分については触れない。知らないものに、わからないものに、わからないままの頭で口を出してもそれは何も意味の無い行為だ。俺に出来ることは、こうしてお米の大切さを噛み締めて、この豊かな国…全体から見れば決して貧しいとは口にすることのできないこの日本という国で生まれた米食文化に感謝し、ひたすら、ひたすら頂くことである。


ヴィーガンという言葉がある。あれは、西洋諸国で生まれた概念だが、要するに、肉を食べることは生き物を殺して食べる非人道的行為だから、そのようなモノは食さず、植物性のモノしか食べない、という思想だ。

俺はこれに疑問を感じた。まず、そもそもヴィーガンの掲げる生物を殺して云々かんぬんの部分である。何を言っているんだお前達は。この世の中は食物連鎖という決して捻じ曲げられない自然の掟の中で循環が成されている。つまり、何をするにしても、生きるということは誰かの命を犠牲にして立っているということだ。ヴィーガンが生き物を殺さなくても、世界中の全ての動植物が絶えず捕食し、捕食されている。世の中の概念を、自然の理を変える力を持った神のような存在がいるなら別だが、お前達にそんな力はない。お前達がいくらそのような行為を行なったとて、その守るべき動植物が肉を、誰かを殺して食べているという事実に目を向けなければならないのだ。

加えてもう一つ。なぜ、「植物」は食べて良いのか?

俺は今、白米を食べている。とても美味い。非常に美味い。あまりにも幸せだ。

しかし、この幸せは「米」の命を犠牲にして成り立っている。沢山の稲の命を犠牲にして成り立っている筈なのだ。つまり、生き物の命を犠牲にして俺の食は成り立っているということだ。しかし、ヴィーガンは生き物の命を犠牲にして食をすることを良しとしない。しかし植物は食べる。これ如何に。彼等にとって植物は生き物では無いとでもいうのだろうか?

当然、植物は生き物だ。観葉植物にしたって、光の当たり具合や湿気、他の動植物に触れられるなどでストレスを感じることが科学的に明らかになっている(筈)。

今挙げた特徴は、彼らは知能のない生命体、感情のない生命体は命を奪ってもそれそのものに痛みを与える行為に在らず、という独自観念を持っている-という俺の勝手な仮定に基づいた理念から特徴を挙げさせてもらった。しかし、植物には感情があるのは確定的に明らかだ。痛みを与えればストレスがかかるし、丁寧な環境で育ててれば植物も生き生きとしてくる。無論、これは米にも大きく関係することだ。お米農家の方々は稲がすくすく育つように様々な工夫や努力をこなしている。それはつまり、稲のストレスコントロールをしていると言っても差し支えないだろう。稲は生きている。そして、感情がある。それが、人間のそれとは、脊椎動物やひいては細胞の部分からして違うとしても、しかし植物には植物なりの感情と呼べるようなものが備わっているのは事実である。この事実を無視してヴィーガンは知的生命体の感情に向き合い、非道な行いをせず、食べても人道的に許されるものを食している、などという与太話を俺は到底肯定する気にはなれないのだ。

というか、そもそも植物って生き物だから、それ食べてる時点で植物の命奪って生きてるやん、バカじゃねーの?

俺は、何故こんな無駄な思考をしてしまったのだろうと自分を愚かに思ってしまったのと同時に、改めて命というものの尊さと、それが存在する世界の残酷さ、そしてその中で生まれ、生き、あまつさえ食に困ることなく暮らしを送れている自身の環境に感謝をすると共に、またまた白米をひたすら頬張るのだった。


底を尽きた。

それは唐突だった。いや、俺にとって、俺の感覚にとって唐突に思えたようで、実際には徐々に減っていっていたのは確定的に明らかなのだが-

白米が、底を尽きたのだ。

3時間前、6合を鍋釜で炊いたばかりだというのに、俺はそれを全て平らげてしまったのだ。

無論、物理的に我が家から白米が底を尽きたわけではない。俺は常に買いだめをしているので、白米は大量に存在する。

あくまで、今日食べる分の、炊いたお米が底を尽きたという話だ。

とはいえ、明日の分をがっつくわけにもいかないだろう。なんのための貯蓄だというのか。このまま賞味期限が切れてどうしようもないというならまだしも、まだまだ日持ちする状態にある。俺は卑しい人間だ。この世の中には食べたくても食べれない者達が沢山いるという中で、俺は贅沢をしているのだ。不必要なまでに膨大な量の米を食いまくっているのだから。成人男性が1日に摂る分の量をたかだか一食で遥かに超えているのだ。過食という他ない。しかし、それでも箸が止まらないのが俺なのだ。それは米に対するリスペクトであり、お米農家の方々に対するリスペクトでもあり、地球へのリスペクトでもある。食べれる環境にいるものは、食べれない者の分まで食べてやるのがせめてもの救いではなかろうか。これが例え俺のエゴだとしても、食糧を食べずして廃棄するような行為よりは云億倍はマシな主張であろう。俺は確かに食べ過ぎを超えた食べ過ぎだが、だからこそ見える世界もあるのだ。俺は一体どこまで食べれるのだろうか-俺は今自分の限界値を測定する機会にあると踏んでいた。明日の分は、明後日の分に、明後日の分は、明々後日の分に-

俺は、台所に積まれた5キロのコツヒカリを持ち出し、ハサミで袋を開け、カップで量を調整し、また6合分の米をボウルに入れ、水を注ぎ込むー素手のまま米を研ぐ。しっかりしっかり、米を研ぐ。傷まないよう、慎重に力を入れながらも、6合分の米を研ぎ、研ぎ-

少し寝かせてから、鍋に入れて炊くための水を適量注ぎ込み、ガスのつまみを捻り、点火させる。

-また暫く経つと、こうして、米農家の方々が汗水垂らして作り上げたお米が炊き上がり、見事な艶でもって俺を迎えてくれるわけなのだ。

これを見ずして我慢することなど出来るだろうか。否。そんなこと出来るはずがない。稲だけに。

さてまた俺はこうして炊けた米をしっかりかき混ぜ、どんぶりにそのまま入れ込み、そそくさと卓袱台の方へ持っていく。

都内遠方の古びた四畳半のアパートの一室から、騒音手前の大声でもって男は口にするのだった。

「-いただきます!」


-終-

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【短編小説】米 にゃんぽち @sabaki37

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ