第百五十五話 ほっぺすりすり
「…………」
しばらく無言で、廊下を歩く。
背中に背負ったひめは、最初こそ落ち着きがなさそうに身じろぎしていたのだが……今はすっかり大人しかった。
どんな顔をしているのか気になるのだが、おんぶしている状態なので表情を見ることはできない。その代わりにふと窓の外を見ると、太陽の位置が思ったよりも下にあることに気付いた。
夏至が過ぎているせいか、夕方にもかかわらずまだまだ空は明るい。おかげで時間の感覚が朧気だった。そろそろ帰ってもいい時間帯かもしれない。
「…………」
ひめはまだ無言だ。寝ているのかなと一瞬疑ったのだが、首筋にかかる吐息に規則性がないのでたぶん意識はあるだろう。ただただ、何も言っていないだけに思える。
あるいは、恥ずかしくて何も言えなくなっているのか。
(おんぶはやっぱり、子供扱いされているみたいで嫌なのかな?)
事情を知らない第三者から見ると、妹を背負っている男子高校生――に見えるかもしれない。
まぁ、この学校にひめのことを知らない人間はいないのだが。
今日がテスト期間で良かった……そうでなければ、他の生徒たちにジロジロと見られていたかもしれない。夕方だが普段なら部活動をしている生徒がまだ残っているのだ。不幸中の幸いである。
……なんてことを考えながら、足を進めている最中のことだった。
「えへへ」
唐突に、かわいらしい笑い声が聞こえた。
小さな声である。たぶん、意識的に笑っているわけじゃない。でも、耳元に彼女の顔があるおかげで、よく聞こえてしまった。
(反応した方がいいのかなぁ)
ちょっと迷った。機嫌が良さそうなのは嬉しいのだが、気付かないふりをしてあげるべきか……と、迷っていたら、急にひめの手がキュッと絞まった。
首元に回された手に、さらなる力込められている。
ただし苦しくはない。息ができないほどの力ではないのでそこは安心している。
つまり、ひめの抱きしめる力がちょっとだけ強くなっただけだ。
おかげで、更にひめの体が密着していた。俺の背中にぺたんと張り付いている。
(ひめ、ドキドキしてる……?)
心臓の鼓動が聞こえてきた。やっぱり鼓動は速い……ただ、激しくはない。
高揚している、程度だと思う……と、いうことは。
ひめ、もしかして喜んでいる?
疑念は、次の瞬間には確信へと変わった。
「んっ」
今度は肩付近がこすられた。
いや、正確に言うとこすりつけられているのかもしれない。
どうやらひめがほっぺたをこすりつけているみたいだ。
すりすりと、甘えるような仕草で。
(なんか……本当に子猫みたいに見えてきた)
おんぶした直後こそ、借りてきた猫みたいに大人しかった。
しかし時間が経って慣れてからは、愛らしく甘えてきている。
こんなことをされて『かわいい』と思わないわけがないだろう。
ことあるごとに、ひめは心をくすぐってくる。こそばゆい感覚だった。もちろん、嫌いではない。
「陽平くん、疲れてないですか? 休憩は必要でしょうか」
一方、ひめは俺が反応しないので何も気づいていないと思っているのだろうか。
まるでいつも通りと言わんばかり声で、そんなことを聞いてきた。
……指摘すると恥ずかしがりそうだし、俺もいつも通りの態度をとった方がいいのかもしれない。
「大丈夫だよ。ひめが軽いから、全然疲れていない」
「それなら良かったです」
「ひめこそ、乗り心地はどう?」
「今まで経験した乗り物の中で、一番快適です」
と、言いながらもひめはまだすりすりしていた。
肩付近の感触が気に入ったのだろうか。ちょっとだけくすぐったい。
「力強くて、たくましくて、温かくて……あと、落ち着きます」
そして彼女が、小さな声でこう囁いた。
「優しい……陽平くんの匂いがします」
――本当にこの子は、ずるい。
その一言で、なぜか知らないが大きく動揺してしまった。
匂いをかがれたからではない。
ひめが嫌がっているわけではないのだから、別にそこはいい。
ただ、なんというか……とにかく『かわいい』と思ってしまったのである。
「あれ? 陽平くん、ちょっとドキドキしてますか?」
そして現在、ひめが背中に密着しているわけで。
どうやら、俺の鼓動も彼女に届いてしまっているみたいだ――。
//あとがき//
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