第百五十六話 彼がドキドキしている理由
ドキドキしていることをひめに気付かれてしまった。
(ど、どうする?)
動揺は大きいが、幸いなことにひめから俺の表情は見えていない。今ならまだ誤魔化すことも可能だ。
さて、どう説明するべきだろうか。
別に、密着しているからドキドキしているわけじゃない。
ほっぺがすりすりされているせいでもない。さっきまでは本当に落ち着いていた。
でも、ひめの一言のせいで心を保てなくなった。
『優しい……陽平くんの匂いがします』
なんでこんなに鼓動が激しくなっているのか、自分でもよく分からない。
ただ、ひめが匂いに反応しただけである。たとえば、相手が聖さんなら『臭くないかな?』と違った意味でドキドキはしていたかもしれない。
しかし、ひめは別だった。
なんとなく、ひめは俺に対して『臭い』と言わないという謎の信頼がある。この子の好意的な気持ちは痛いほどに伝わっている。
だからこそ、余計に困惑するのだ。
どうして俺は、その一言にここまでドキドキしてしまったのか。
自分でもよく分からなくて、しばらく言葉に悩んでいると。
「やっぱり、わたしを背負っているせいで無理しているのでしょうか……心拍数が上がっていますね」
ひめが違う解釈をしていた。
もちろん、疲れてはいない。別に無理してひめを軽いと言っているわけじゃない。物理的に、数字的な意味で本当に軽いので、数分のおんぶ程度では息すらあがっていない。
ただ、その解釈は……俺にとって、すごく都合がいいもので。
(乗っかれば、誤魔化せる……か)
俺の動揺を悟らせずにすむ。
ひめに対してドキドキしていることを、彼女は知らないままでいられる。
でも、その代償はちゃんとあるわけで。
「あの……無理は、しないでくださいね」
ひめは自分の体重を気にしていた。
俺に『重い』と思われることが嫌みたいで、おんぶされることをためらっていたのである。
ひめの言葉に同調したら、必然的に『ひめを背負うのが思ったよりもきつくて心拍数が上がった』ということになる。
それを許容できるか否か。
嘘をついた上に、ひめに悲しい思いをさせてまで、この気持ちは隠すべきなのか。
そんなこと――迷う意味すらない二択だった。
「……ひめはいつも、俺を幸せな気持ちにさせてくれるから」
静かに、言葉を発した。
大きな声を出す必要はない。いつもより近くにひめの顔があるからこそ、囁くように……それでいて、ハッキリと彼女に言葉を紡ぐ。
「不思議なんだ。ひめのおかげで、すごく心が穏やかになる……でもたまに、君は俺の心を動揺させてくる」
「……動揺、させているのですか?」
ひめはまだ不安そうだ。
唐突に俺が語りだしたことに対する懸念よりも、次に何を言うのかの方が気になっているらしい。
もしかしたら、怯えているのかもしれない。
「ごめんなさい。動揺させているつもりは、なくてっ」
彼女は、俺に嫌われることを恐れている。
その不安は――すぐに払拭しなければならないものだった。
「あ、ごめんね。回りくどかったか……つまり、ひめの言葉でドキドキしちゃっただけだよ」
一応、年上ではあるのだが。
残念ながら、俺は異性に対する経験はほとんどない。だから、もう少し余裕のあるセリフを言いたかったのだが、やっぱりそれは無理だったらしい。
むしろ、変に回りくどくなってひめを誤解させてしまった。このことはまた、後で反省しようかな。
とりあえず今は、この子の恐怖を取り除いてあげよう。
「悪い意味じゃないよ。良い意味で、動揺しちゃうんだ。ひめがいちいち、可愛いせいで……なんというか、鼓動が大きくなることがある」
今度は飾らずに、素直に伝えた。
それでも表現は曖昧だけど、そこは許してほしい。俺自身、まだ理解もできていないし、整理すらおぼついていない感情なのである。
でも、ひめは……そんな俺の言葉を、ちゃんと受け止めてくれるわけで。
「――可愛いせい、ですか?」
「うん。ドキドキしているのは、ひめが可愛いせい」
「……つまり、嫌いではないということですか?」
「もちろん。嫌いになることなんてないよ……こんなに可愛い子を嫌いになれるわけがない」
外見の話ではない。いや、ひめは容姿もかわいいのだが。
しかし、それ以上に俺はこの子の内面に惹かれている。愛らしいその性格に、強く魅了されている。
「だから、ひめは重たくないよ。背負うのが大変だから心拍数が上がっているわけでもない。ひめが可愛いから、ドキドキしてるだけ」
やっと、言えた。
伝えるかどうか迷ったけど、口にしてしまえば意外と……気持ち良かった。
やっぱり、隠し事は得意じゃない。
ちゃんと正直に話せて、すごくスッキリした気分だった――。
//あとがき//
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