第七十三話 硝子の餃子

 ひめの制服にアイスティーが零れてしまった。


「ごめんなさい、ひめお嬢様……お怪我はない?」


「大丈夫です。ただ、お洋服にかかってしまいました」


 紅茶が冷たくて良かった。とりあえず火傷の心配はないだろう。


「ふぅ、良かった~」


 聖さんも安堵の表情を浮かべている。

 俺は近くで見ているのですぐに無事だと分かったのだが、彼女はベッドの方にいたせいか状況の詳細を分かっていなかったのかもしれない。さっきは驚いたような、不安そうな声を上げていたが、今は安心したのか笑っていた。


 ……まぁ、聖さんの気持ちはよく分かる。

 正直、俺もヒヤッとした。


 コップが床に落ちていたら、割れた破片が危険だった可能性はあるものの……幸いなことに転倒の勢いが弱かったおかげで、テーブルの上に残っていた。


 大きな被害はない。強いて言うなら、洋服の汚れくらいだろう。


「このままだと染みになりそうですね……着替えてきます」


「あ、ちょっと待って! どうせならお風呂に入ったら? 芽衣ちゃん、まだ夕食まで時間あるんだよね~?」


「ええ。入浴の準備もしてあるわ」


「さっすが芽衣ちゃん♪ ひめちゃん、行こっか」


「でも、お姉ちゃん……陽平くんが暇をしてしまいます」


 ひめ、俺のことを気遣ってくれている。優しい子だなぁ……その思いやりに頬が緩んだ。その気持ちだけでも十分だ。


「俺のことは気にしないで。ついでだし、入ってきてもいいんじゃない?」


「……ごめんなさい。せっかく来てくれたので、もっとお話がしたかったのですが」


 ひめはまだ申し訳なさそうな顔をしている。

 しかし、そんな彼女を聖さんがひょいっと抱き上げた。


「ほら~。よーへーもそう言ってくれてるんだから、早く行こ?」


 聖さんって意外と力持ちだなぁ。

 ひめを軽々と持ち上げている……と、いうのはさておき。


「あれ? 聖さんも入るの?」


 てっきり、ひめが一人で入るのだと思っていたけど、聖さんが当たり前のように一緒に行こうとしていたので気になった。


 当然だが、彼女の制服は汚れていない。わざわざお風呂に入る意味はないと思ったのだが。


「ひめちゃんは一人だと『がらすのぎょーざ』だから私がいないとダメなんだよ~」


「がらすのぎょーざ?」


 硝子の餃子、と書くのだろうか。なんだか物騒な字である。

 知らない日本語だったので意味が分からずに戸惑っていたら、抱き上げられたひめが不服そうな顔で訂正を入れてくれた。


「『烏の行水』です。いえ、違いますけど」


 なるほど。そういうことか。

 つまり、ひめの入浴は意外と雑らしい。


「ひめちゃん、せっかく綺麗な髪の毛なんだから丁寧にケアしてあげないと。よーへーだって、髪の毛はつやつやでサラサラな方が好きでしょ? 撫で心地いいから」


「まぁ、たしかに」


 ひめの髪の毛には前に触れたことがある。

 あの時も思った。サラサラで綺麗な髪の毛だなぁ、と。

 触り心地も良かったので、たしかに聖さんの言うことは間違っていないだろう。


「なるほど……陽平くんは、サラサラな髪の毛がいいのですね?」


「え? あ、うん。そうなる、のかな?」


 別にサラサラに拘っているわけじゃないけれど。

 とはいえ、髪の毛が綺麗であることは良いことだと思う。なので彼女の言葉に頷くと、ひめは態度を一変させた。


「分かりました。お姉ちゃん、行きましょうか」


「はーい」


「あと、下ろしてください」


「いやでーす」


「……じゃあそのまま連れて行ってください」


 お風呂を渋っていたのに、今はどこか前のめりである。

 聖さんに抱えられたまま、二人は部屋から出て行った。


 さて、と。

 そして俺は一人きりに……って、違う。


(あれ? 芽衣さんもいる?)


 この場にはまだ、彼女が残っている。

 いつの間にか、芽衣さんと二人きりになっていた――。




//あとがき//

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