第五十九話 おかえし

 いつものように、校長室で星宮姉妹と昼食を食べている。

 ひめと横並びで座っているのも、いつも通りである。


 ただ、ひめから「あーん」されているのは、いつも通りではないだろう。


「陽平くん、どうぞ」


 ふたきれ目のとんかつが差し出される。

 8歳のひめのことを考えられているのか、聖さんのトンカツと比べたらサイズ感は小さくて食べやすい。お嬢様なだけあってたぶん高いお肉が使われていると思うので、味もとても美味しい。


 そして何より、ひめがなんだか楽しそうだ。

 だから断ると言う選択肢がなくて、ふたきれ目も素直に食べてしまった。


「ありがとう。いただきます」


 少しかがんで、ひめが口元に持ってきてくれたトンカツを頬張る。

 まったく筋張っていない柔らかいお肉は、数度咀嚼しただけで溶けるかのように原形を失う。ほのかに感じている甘みは、恐らく上質な脂身と表現できるものだろう。


 美味しい。少なくともコンビニのトンカツ弁当よりは、はるかに。

 こんな味を経験させてくれて感謝だ。とはいえ味はもう十分に堪能できたので、そろそろひめにも自分の分を食べてもらおうかなと、思っていたのだが。


「陽平くん、もっとありますよ?」


 ひめが止まらない。三きれ目まで差し出してきたので、さすがに気になった。


「これまで食べちゃうと、半分くらいなくなっちゃうけど……」


 ひめはまだ弁当に一口もつけていない。このままだと俺が全部食べる勢いだ。


「食欲がなくて」


 と、ひめはいつものように抑揚の薄い口調でそう言ったのだが。


『ぐ~』


 不意に、音が鳴った。

 空腹の鐘楼を発したのは、聖さんかと思って彼女の方をつい見てしまった。


「……え? 私じゃないよ!? 違う違う、こんなに食べてまだおなかペコペコなわけないからねっ」


 違った。さっきから無言でトンカツ弁当を頬張り続けているおかげなのか、聖さんの状態は空腹ではないらしい。そしてもちろん、俺のお腹から鳴った音でもないわけで。


 つまり、その音源は。


「…………」


 すました顔で口を閉ざしながらも、ちょっと顔を赤らめているのが愛らしい。

 音を鳴らしたのは、ひめだった。


「ひめ……?」


 隠してもバレバレだよと、名前を呼んでみる。

 すると彼女は観念したかのようにそっと視線をそらして、恥ずかしそうに小さく呟いた。


「ご、ごめんなさい。お腹が空いていない、わけじゃないのですが」


 そう言いながらも、トンカツを差し出す手は下ろさない。

 食べてほしい、と……いや、食べさせたいと言わんばかりに、むしろ俺の方にグイっと近づけてきた。


「陽平くんに食べてもらうのが、楽しくて」


 楽しい、のだろうか?

 俺があまり腑に落ちていないのが、ひめにも伝わっているのだろう。

 補足するように、彼女が分かりやすく説明してくれた。


「お菓子を食べさせてくれる陽平くんの気持ちが、分かりました」


 なるほど……それはすごく、分かりやすい。

 言われて、思い出す。お菓子を食べて幸せそうなひめの笑顔を。


 あんなに愛らしいリアクションはしていないと思うのだが、それでもやっぱり多少は表情も明るくなっている気はする。トンカツも美味しいし、ひめに食べさせてもらうという行為も、多少の照れはあるが決して嫌いじゃない。なんだかんだ楽しんでいる。


 そんな俺を見ることが、ひめは楽しいみたいだ。


「あと、いつものお返しができているみたいで、つい……空腹を忘れていました」


 だから、もっと食べてください。

 そう言わんばかりにお箸を近づけてくるひめ。


 こんなに愛らしいことを言われては、遠慮することなんてできなかった――。

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