「とある日というか、今日起きたことというか、これが日常というか」















 結花ちゃんの帰りは遅い。


「ただいま…」


 絶賛ブラック企業勤めな彼女は夜の8時過ぎに帰ってきて、しんどい顔でカバンを定位置に置いた。


 そして、キッチンで真っ先に鍋をコトコトさせていた私の元へ歩み寄って、このクソ暑い残暑がまだまだ残る気温の中、後ろからひしっとくっついてくる。


 いくらクーラーの冷気が部屋中に漂っているとはいえ、外を歩いてきた彼女のまとう空気は汗も相まってジメっとしていて暑くて……ため息をつきたい気持ちで、コンロの火を消した。


「暑いんですけど」

「ごめん〜……でも辛くて」


 話を聞けば、今日は上司と先輩に理不尽な怒りをぶつけられ、心の大荒れ警報発令中なんだとか。


「慰めて……あきちゃん」

「えっちな意味で?」

「それは将来の彼女のためにとっといてるから、だめ」

「はいはい。…大変だったね、お疲れさま」


 とりあえず振り向きざまに彼女を抱き締めて、頭でも撫でとく。そうすると落ち着いてくれるから。


「今ね、生理前なの」

「……ムラムラしてるってこと?」

「ちがう。…だから、イライラして八つ当たりしちゃうかも」

「あー……しんどい時期だね。大丈夫だよ」


 私も女だから気持ちは分かる、と同調して……汗がすごかったから、一旦お風呂に入っておいでと伝えておいた。


「やだ。一緒に入る」

「私もう入っちゃったよ」

「一緒に入るの」

「えー……また入るのめんどくさいかも」

「ん……じゃあいい。ひとりで入る。あきちゃんのばか」


 駄々をこねつつも最後にはお風呂場へ向かったその後ろ姿を見送って、作っていたシチューを味見している時に……ふと。


 そういえば、頼んでいた初の短篇集が届いていたことを思い出した。


 さっそく薄めの文庫本形式のそれを手に取って、結花ちゃんに自慢しようと企んだところで……向こうからも「ちょっと来て」と声をかけられる。


「どうしたの?」

「なんか、右乳だけ垂れてる気がするから確認してほしい」

「は?」


 洗面台の鏡と向かい合って、何やら真剣に悩んでる様子の彼女に乳を見せつけられた私は、どう対応していいか分からず首をひねった。


「まじで。確認して。右乳だけ垂れてるかも」

「いや……別に。そんなことないと思うけど…」

「ほんと?」

「うん。強いて言うなら右乳のがデカいだけだよ。だからそう見えるんじゃん?」


 思った感想をそのまま伝えたら、彼女はおとなしく浴室へと入っていった。


 そうしてお風呂上がり。


 ご飯を食べ終えた頃、例の本を彼女に見せてみたら。


「お、おぉ……これはいかがわしい…」

「でしょ?けっこうえろいよ」

「いかがわしいよ、あきちゃん…!」


 何やら興奮した様子で、パラパラとページを捲っていた。


「こうして読むと、より小説感が増すね」

「そうなの。いいよね、やっぱ。形に残るって」

「うん!もう一個頼んで、私の本棚にコレクションとして追加しようかなぁ」

「そこまでしてくれるの?」

「当たり前じゃん!だって私は、あきちゃんの一番のファンだもん」

「ははっ、うれしい」

「それにしても、ほんといかがわしい……よくこんなエッチな本かけるね」

「作者が変態だからな。ははは」

「……そのわりに、性欲強くないよね」


 どうしてか、急にじっと睨まれて言われてしまった。


「なんでそう思うの」

「だって……私の体見ても普通じゃん。何もないじゃん」

「そりゃ、友達の裸には興奮しないでしょ。何かある方がヤバいって」

「ふぅん……あきちゃんって、どのくらい性欲あるの?」

「恋人が居たら毎日でもしたいくらい」

「わお。けっこうだね」

「そりゃあねぇ……私だって人間ですから」


 ちなみに結花ちゃんの性欲は、本人曰く「相手がいない限り発動しない」そう。


「逆に結花ちゃんはさ、私の小説読んでムラムラしないの」

「うぅーん……するっちゃする。てか普通にする」

「実際にしたいなぁ…とかは?」

「思わないかな。今は相手もいないし……いたら思ってるのかも」

「なるほどね」

「あきちゃんは、そろそろ恋人とか作らないの?」


 聞かれて、シチューを食べていた手を止めた。


 恋…ねぇ。


 もうかれこれ何年もしていないが、実は最近ほんの少しだけドキドキした出来事はあった。あまりにちょろすぎるかもしれない内容だから、ここでは伏せておくが。


 ただ、恋愛となると私はとことん不器用である。


 相手の気持ちを考え過ぎたり、どう進めていいか分からなくて空回ったり。


 だから相手からグイグイ来てくれないと、なかなか前には進めない。…進みたくても、進もうと思えない。


 仮に恋人ができたとして、不器用な私は結花ちゃんとの生活の中で、恋人との時間をうまく作れるか不安だった。


 きっと未来の恋人も、この関係を維持したままなのは嫌だと言うかもしれない。…そう思うと、余計に。


 少し、怖い。


 手放したくない相手が、ふたりもできるのは。


 結花ちゃんにこのことを話そうか、悩む。


「……今は、いいかな」


 多分、初めて。


 私は彼女に対して大きな隠し事をひとつだけした。


 本当は恋してもいいかな、なんて思ったことは、


「そっか!」


 安心して無邪気に笑う彼女の前では、どうしてか言えなかった。



 











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