第29話 ヴァンフィールドの夕日
レニーが帰還した。
その知らせを受け、アレクシアは部屋を飛び出した。
そんな自分に驚きながらも、彼の無事を確認したくて仕方がなかった。
慌てて城の外へ飛び出すと、以前と同じように彼が騎士団の宿舎がある方から歩いてくるのが見えた。
「……レニー様」
鎧には大きな爪痕のようなものがあり、マントも一部破れている。
太ももに巻かれた包帯には血がにじんでいたが、彼の足取りはしっかりしていた。
アレクシアが彼に向って走り出す。
その姿を見て、レニーは優しい笑みを浮かべた。
「お帰りなさいませ」
「はい。ただいま帰りました」
「お怪我を……されているのですね」
「応急処置はしていますし、そう大きな怪我ではありません」
そう言って笑みを浮かべる彼の顔は、今までとどこか違って見えた。
大きなことを成し遂げた、大きなものを背負った男の顔。
きっとすべてがうまくいったのだろう。
だが何よりもうれしいのは、彼が無事に帰ってきたことだった。
「強敵が現れ、全力で戦い――ありったけの剣気を開放し戦いにのめり込んだため、理性を完全に失いそうになりました」
「!」
「ですが、無事に帰ってきてくださいというあなたの言葉を思い出し、俺は自分を取り戻すことができました」
彼が目を細めてアレクシアを見つめる。
アレクシアも、まっすぐに見返した。
「少しでもお役に立てたのでしたら何よりですわ。ご無事に戻られて本当によかった……」
「あなたのおかげです。何が何でも生きてあなたのもとに帰りたいという気持ちが、自分を保
たせてくれたのですから。理性を完全に失っていたら父に斬られていたことでしょう」
その言葉に背筋が寒くなる。
辺境伯という地位の過酷さをあらためて思い知った。
「それで、その……。俺は今こんなひどい格好なので、着替えてきたいと思います。その後、お時間をいただけますか?」
「ええ、もちろんです」
「では部屋にお迎えにあがります」
「承知いたしました。お待ちしておりますわ」
レニーとはそこで別れ、部屋に戻った。
彼が無事に戻ってきたうれしさと安堵に力が抜け、崩れ落ちるようにソファに座る。
表面上は平気な様子を見せてきたが、好きな男性が命がけの戦いに身を置いていて平気なはずがない。
(それでも、これからは慣れていかなければいけないわ。今回ほどの試練ではないにしろ、ふた月に一度は砦へ行くのだから)
そこでふと、自分が当たり前のように「これから」のことを考えていることに気づく。
着替えた後に時間をとってほしいと言っていたレニー。
試練を乗り越えた今、おそらく「これから」のことを話すのだろうと思った。
自分と同じ気持ちであることは勘違いではないはずと思いつつも、緊張してくる。
気持ちが落ち着かず、立ち上がって鏡台の前に立ち、髪を櫛で梳いた。
そして顔に皮脂などが浮き上がっていないかチェックするためさらに鏡に近づいたところで、はっとする。
(彼に少しでも美しく見られたいと言わんばかりだわ)
急に恥ずかしさが襲ってきた。
そこでふと、第一王子クリストファーのことを思い出す。
浮気発覚前、彼とは穏やかに交流を重ねていた。だが、こんな風に彼と会う前にそわそわしたことなどなかったことに気づく。
(殿下と婚約者だったとき、わたくしは殿下に少しでも良く思われようとしてはいなかった。どうすれば彼ともっと仲良くなれるかを考えることもなかった。けれど、ミレーヌ嬢はきっとそういった努力をしていたのよね)
クリストファーの浮気に正当性などないという気持ちは今でも変わらないが、それでも自分に足りなかった部分をミレーヌは持っていたのだろうと思った。
ミレーヌはクリストファーに好かれるよう努力し、彼はそれを好ましく思って彼女に惹かれた。
そのことに対する悔しさはない。クリストファーに対する未練は少しも残っていないから。
ただ、誰かに恋をする立場になって初めて見えることもあるのだと気づいた。
(とはいえ、もう関係のない人たちだわ。わたくしはこれからは……)
とそこで、ノックの音が響く。
扉を開けると予想通りレニーが立っていた。
入浴まで済ませたらしく、ふわりと石鹸の香りがする。
緊張に胸が高鳴った。
「どうぞお入りになってください」
「その……今日は夕日が美しいので、屋上で一緒に見ませんか?」
「え? ええ、もちろん」
部屋で「大事な話」をするものだと思っていたが、予想外の場所に誘い出され、もしや勘違いだったかと恥ずかしくなる。
だが、実際に屋上に出てみると、そんなことは一瞬で忘れて景色の美しさに見とれた。
山の向こうに顔を隠しかけている燃えるような夕日が、空をオレンジ色に染め上げている。その逆側を見上げればそこは紫色で、そのコントラストが美しい。
「美しいですわね。夕日がこんなにも美しいものだったなんて」
「俺も昔からこの景色が好きです。あなたと一緒に見られてよかった」
夜ですら魔道具の灯りで明るい、何もかもが煌びやかな王都にいたままでは、夕日の本当の美しさには気づかなかったかもしれないと思う。
自然豊かな風景と、澄んだ空気。城以外はさほど高い建物もない。
そんな環境だからこそ、その美しさが映えるのかもしれない。
そして、レニーも同じである気がした。
アレクシアは、王宮で会ったというレニーのことは覚えていなかった。
社交界で持て囃されるのは、センスの良い服に洗練された話術、整った顔立ちにスラリとしたスタイル、そして優れた血筋を持つ――まさにクリストファー第一王子のような男性。
服のセンスは不明だが、レニーのこの不器用さと実直さでは、曲者ぞろいで駆け引きだらけの社交界ではうまく馴染むことはできなかっただろう。
だが、アレクシアを癒したのは、社交界で輝くことのない誠実さと優しさ。
王都にいたままでは、それがどれほど貴重で美しいものか気づくことすらなかったかもしれないと思った。
それに、最初こそ後ろ向きな部分はあったものの、レニーは一度決意すればどこまでも突き進み、責任を果たそうとする人でもある。
そんな彼と出会えたことに、今アレクシアは心から感謝している。
「わたくし、ここに来てよかった」
風になびく髪を手で押さえながら、隣にいるレニーを見る。
彼が、息をのんだ。
「……俺も、あなたがここに来てくださって本当によかったと思っています。あなたに出会えなければ、俺はきっと情けない男のままでした」
アレクシアを見つめる彼の瞳はどこまでも真っすぐで、夕闇のようなその瞳の美しさに見とれた。
「自分の中に潜む残忍性を恐れ、妹の覚悟も知らないまま、のらりくらりと現実から目を背け逃げ続けていたでしょう。あなたがいてくれたから、現実を知り、また覚悟を決めることができた。そして、もう逃げません。次期辺境伯としての責務からも、この気持ちからも」
そう言ってレニーはアレクシアの目の前に立ち、膝をついた。
白く華奢な手を取り、彼女を見上げる。
「アレクシア嬢。あなたを愛しています。あなたを守り、あなたを敬い、あなただけを愛すると誓います。どうか、私の正式な婚約者となっていただけませんか」
なってください、ではなくなっていただけませんか、というところが彼らしいなと思う。
じわりと涙が浮かんできた。
ああそうか、うれしいからだ、と思った。
「わたくしは、きっと生涯気が強いままですわよ」
「ヴァンフィールドの女主人は気弱では務まりません。そしてそんな気の強さも魅力的でかわいいです」
アレクシアの頬が真っ赤に染まる。
「正式な婚約者ともなれば、城内のことに口を出しますし、辺境伯夫人となったら領地経営にも興味を持つと思いますわ」
「ありがたいことです。是非そうしてください」
アレクシアが微笑する。
青い瞳から一粒、涙がこぼれ落ちた。
「そんなわたくしでよければ、喜んで。わたくしも、あなたを愛しています」
「……!」
レニーが立ち上がり、感極まったようにアレクシアを抱きしめる。
大きな体にすっぽりと包み込まれ、これ以上ないくらいに胸が高鳴った。
同時に、その温かさに安心感を覚える。
レニーはすぐに体を離し、一歩下がった。
「申し訳ありません。うれしさのあまり無礼なことを」
口元を押さえ、横を向く。
赤く染まった太い首筋に色気すら感じた。
「無礼だなんて仰らないでください。わたくしたちは愛し合う仲なのでしょう?」
「アレクシア嬢……」
「アレクシアと呼んでください。婚約者なのですから。わたくしもレニーと呼んでいいでしょうか」
「もちろんです。……アレクシア、愛しています」
「わたくしもです」
二人、見つめあう。
夕日がゆっくりと沈んでいく。
冷えた白い頬にそっとあてられた大きな手が温かかった。
アレクシアは目を閉じる。
……が、いつまで経っても予想した感触がやって来ない。
目を開けると、腰を曲げたままのレニーが赤い顔で固まっていた。
あまりに彼らしくて、思わず笑いがもれる。
アレクシアはレニーの首に腕をまわすと、背伸びして彼に軽く口づけた。
レニーがぽかんとする。
「“へたれ”の名はもう捨てたのでしょう?」
艶然とアレクシアが笑う。
「……あなたには敵いません」
レニーはそう言って笑うと、アレクシアを抱きしめそっと口づけた。
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