第18話 変わりゆく……
夕日の差し込む書庫で、好みの本を見繕いながらゆっくりと本棚の前を歩く。
アレクシアは、本が好きだ。
本は知識を増やし、心を豊かにし、違う世界へと
だが、今日はあまり本選びに集中できていない。
色々と考えることが多すぎて。
フィオナの家庭教師の件から、二週間ほど経った。
辺境伯もレニーもフィオナをより一層気にかけ、時折父娘や兄妹で庭で遊んでいる姿も見られるようになった。
フィオナはアレクシアをさらに慕うようになり、夕食時もレニーではなくアレクシアの隣に座るようになった。アレクシアもまた、そんなフィオナを愛おしく感じている。
マール夫人について実家の
好きな人と結婚できず一回り年上の男に嫁ぐくらいなら死ぬと。
調べられたのはそこまでだったが、その「好きな人」というのはおそらく辺境伯ヴァージルだろうと思った。
マール夫人の授業を隠れて聞いていたとき、彼を持ち上げるようなことを言いつつ亡くなった辺境伯夫人を貶めるようなことを言いかけていた。
ヴァージル本人に確認したところ、マール夫人との婚約話などがあったわけではなく、彼女については「王都で何度か話したことがあるようなないような」程度の認識だった。
そのころすでにレニーとフィオナの母である男爵令嬢イリーナに夢中だったという彼には、他の女性など目に入ってもいなかったようだ。
だがマール夫人側はそうではないらしく、諸々承知の上で受け入れてくれた子爵と結婚し、子供に恵まれてもなおヴァージルに未練があったのだろう。
だからイリーナの娘であり、彼女によく似たフィオナに八つ当たりをしていたのではないかと推察した。
たしかにヴァージル・ガードナーという男は魅力的である。
四十代半ばに差し掛かろうというのに、いまだ衰えを知らないという剣の腕、年齢よりも若く見える肌、鋭利に整った顔立ち。細身のブラッドフォード侯爵ですら下腹にうっすら肉がついてきたというのに、ヴァージルの肉体は雄々しく引き締まっている。
王宮で彼を見たのは数えるほどだが、マダムたちの熱い視線を密かに集めていたこともアレクシアは知っていた。
かつて恋焦がれた男性が魅力的な姿のまま、独り身でいること。互いに再婚もできる立場であるのに、ヴァージルはやはりマール夫人に見向きもせずいまだに亡くなった妻を想い続けていること。
それらのことが、よけいに彼女の感情を様々な意味で
だが、そんなのは彼女側の事情であり、幼い子供に八つ当たりする理由にはならない。そんな一方的な未練のせいで、どれほどフィオナが傷ついたことか。
アレクシアの母には詳細を報告しておいたから、愛娘の未来の義妹を虐めたマール夫人は、社交界の女王と言われるベアトリス・ブラッドフォード侯爵夫人から“洗礼”を受けることになるだろう。
そんなこんなで家庭教師の件は一件落着し、ガードナー家はひとまず平穏を取り戻した。
だが、アレクシアの心の中は平穏とは言い難かった。
第一王子クリストファーから手紙が届いたのだ。
その内容は、自分が間違っていた、ミレーヌのことは一時の気の迷いだった、君ほど素晴らしい女性はいないと気づいた、まだ正式な婚約に至っていないのは知っているからやり直せないか、というものだった。
(気持ち悪いわ……)
正式な婚約に至っていないことをわざわざ調べているのも不気味だし、あれだけのことを言っておいて一体何をどうしたらやり直せると思うのだと不快にしか感じなかった。
手紙を破り捨てて無視したかったが、相手が王子である以上そうもいかず、渋々返事を書いた。
手紙には、形式的な時候の挨拶のあとに「謝罪は不要です。婚約届がどうであれわたくしは辺境伯子息の婚約者なので殿下とやり直すことはありません。もうこのような手紙は送らないでください」とだけ書いて送った。
王子からの手紙は燃やした。
本を適当に選び終え、気晴らしに本を読もうと席に着き、本を読み始める。
半分ほど読んだところで、アレクシアは顔を上げた。
「……閣下」
「ん?」
「わたくしに何かお話が?」
本を閉じ、向かいの席に座っている辺境伯に声をかける。
本を読んでいる間に彼が書庫に入ってきたことには気づいていた。本でも探しに来たのかと思えば、なぜか向かいに座り、何も言わずにニコニコしながらアレクシアを見ている。
テーブルは一脚しかないし、これでは本を読むどころではない。
話しかけてくるわけでもないし、何をしに来たのかと思う。
「すまないな、アレクシア嬢。読書の邪魔をしてしまったか」
「そんなことはありませんとは言えませんわね」
「ははっ、さすがアレクシア嬢。いや、息子のことでうれしくてつい、ね」
「何かあったのですか」
「盗賊が我が領に潜んでるとの情報をつかんで、レニーと騎士団を向かわせたんだがね。つい先ほど、レニーが先頭に立って盗賊を殲滅したとの知らせを受けた。しかも頭目を生け捕りにしたとか」
「まあ、それは素晴らしいですわ」
殲滅と聞くと色々と想像してしまって少し恐ろしくなるが、それでも彼が騎士としての仕事を立派にこなしたというのは素直に喜ばしい。
「しかも今回はレニー自ら自分が行くと言い出した。それは大きな意味を持つ」
「頑張っていらっしゃるのですね」
口元に自然と笑みが浮かぶ。
「アレクシア嬢と結婚するために頑張るとは、実に微笑ましい。愛の力は偉大だ」
その言葉に、アレクシアは手に持ったままだった本を床に落としてしまった。
ヴァージルがくつくつと笑う。
「からかうのはおよしになってください。明らかにフィオナ嬢のためでしょう」
つとめて冷静を装って言う。
本を拾おうと手を伸ばしたところで、彼が「私が拾おう」と立ち上がってさっと拾ってくれた。
「もちろんそれもあるだろうが、やはりアレクシア嬢の存在は大きいだろう。美しく賢く度胸もあり優しい。そんなアレクシア嬢に釣り合う男になりたいと思ったのだろうよ」
頬に熱が集まるのを止められない。
これ以上何か言ってもさらにからかわれそうな気がするので、やめた。
こういった話題に関しては、彼に口で敵う気がしない。
「そもそもまだ真剣を扱えないあいつが戦闘に出られたのはアレクシア嬢のおかげだ」
「わたくしの?」
再び向かいの席に戻った辺境伯を見る。
彼は顎に手を当て、笑いをこらえているような顔をしていた。
「真剣がだめなら殴ればいいとアドバイスしたんだって? ククッ……。実際にあいつはメイスでぶん殴って戦ったらしいぞ、ハハッハッ」
何がそんなに面白いのか、彼が声をあげて笑う。
アレクシアはただ渋い顔をした。
「いやいや、感謝しているのだよ。一歩進むことができたんだからな。魔獣との戦闘においては有効な手段とは言い難いが、今はただ息子の成長を喜んでおこう」
「お役に立てたのでしたら幸いです」
「我が家はアレクシア嬢の存在に本当に助けられているよ。ああそうだ、もうすぐレニーが帰ってくる時間だ。アレクシア嬢が出迎えてくれたら、うれしくて疲れも吹っ飛ぶだろうなぁ」
「……」
「じゃあ私はこれで失礼するよ」
彼は立ち上がり、ひらひらと手を振って書庫から出ていく。
残されたアレクシアは、ため息をついた。
(完全に息子の嫁として狙われている気がするわ。豪快で真っ直ぐな気性の方だと思っていたけど、案外曲者ね……)
レニーと本当の婚約者になるかすら決めていないというのに、ガードナー家に関わりすぎている自覚はある。
だが、今までの行動に後悔はない。
何かすべきときに何もしないのであれば、ここにいる意味はないのだから。
ただ、そろそろ将来について真剣に考えなければならないと思っている。
(彼と本当の婚約者になるのか、帰るのか。一生の問題を決められるほど、彼のことをまだよく知らない。けど……嫌いではないのよね)
顔はもともとアレクシア好みだったし、性格はやや後ろ向きで不器用ではあるが優しく真っ直ぐである。彼のそんな部分に癒され、ときに心を揺さぶられた。
夕闇のような綺麗な瞳で見つめられるのも、落ち着かない気持ちになるが決して不快なわけではない。
低く落ち着いた声も好きだ。
自分など簡単に抱き上げてしまえるであろう立派な体躯も、温かく大きな手も……。
そこまで考えて、自分の心拍数が上がっていることに気づいた。
顔が火照って熱い。きっと今鏡を見たら、自分は赤い顔をしているのだろうと思った。
(閣下が去ったあとで良かったわ……)
そんなことを思いながら、熱を持つ頬にそっと手をあてた。
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