第17話 決意

 その日の夜、応接室には三人の人影があった。

 背筋を伸ばし、浅くソファに腰掛けるアレクシア。

 その向かいには、彼女の話を聞いてうなだれている辺境伯とレニー。二人の顔色はひどく悪かった。


「まず申し上げたいのは、閣下とレニー様のご苦労は察するに余りあると思っております。常に魔獣を意識せねばならず、己を鍛え、領地の運営もする。日々気が休まることもなく、本当にお忙しい毎日だと思います」


 男二人はうなだれたまま言葉を発しない。


「それでも……もう少しだけ、幼いフィオナ嬢に目を向けてあげてほしいのです。仮の婚約者という立場で家族の問題に口を出すなど差し出がましいこととわかっていますが、それでも……」


「差し出がましいなどとは思わない。むしろ感謝しているし申し訳なく思っている」


 辺境伯がため息をつきながら額に両手を当てる。


「授業はどうだと聞けばやりがいがあるし楽しい、困っていることはないかと聞けば何もないと言う。そんなフィオナが無理をしているのだと、どうして気付いてやれなかったのか……。忙しさにかまけて、フィオナの様子の変化に気づいてやれていなかったとは」


 父親失格だな、とぼそりと言った。


「今回はメリンダの件以上の越権行為だと思っております。申し訳ありません」


「その場で解雇を言い渡したわけでもないし、君が気に病むことは何一つない。いずれにしろ解雇して別の教師を探すつもりだ」


 それを聞いてアレクシアはほっとする。

 他家の教育事情にまで口を出すのはやりすぎだが、だからといってフィオナの家庭教師があのような人物のままでいいとは思えない。

 生まれた時から母親がおらず寂しい思いをしてきたであろう彼女に、これ以上つらい思いをしてほしくなかった。


「ちょっと……フィオナと話してくる」


「承知いたしました」


「フィオナを気にかけてくれて心から感謝する、アレクシア嬢」


 辺境伯が立ち上がり、部屋を出ていった。

 応接室に残されたのは、アレクシアと先ほどから一言も発していないレニー。

 置物のように動かない彼をどうしたものかと考えていると、ようやく彼が口を開いた。


「今日ほど……自分を情けないと思った日はありません」


「辺境伯になるという決意をするのは、並大抵のことではないのでしょう」


「いいえ。辺境伯の長男として生まれ、戦う能力もありながら、俺はその役割から目をそらし続けてきました。その結果、まだ幼い、母の愛情すら知らない妹をそこまで追い込んでしまった」


 片手で目元を覆い、長く息を吐く。


「愚かでした。父の言う通り“ヘタレ”以外の何ものでもない」


「……」


 静寂の時間はしばし続いた。

 アレクシアはただ彼の言葉を待つ。


「俺は……腹をくくります。過去がどうの心の傷がどうのと言っている場合じゃない。妹にこれ以上何も背負わせたくない。背負うべきは俺なのです。もう、逃げません」


「ええ」


「そして……少しでもあなたに相応しい男になりたい」


 目元を覆っていた手を下ろし、アレクシアと視線を合わせる。

 アレクシアの心臓が大きく跳ねた。


「仮とはいえ、今の俺はあなたの婚約者を名乗るに相応しくない。こんな男が婚約者とあっては……もしくは婚約者とあっては、あなたに恥をかかせてしまいます」


「そんなことは……」


 そう言うのが精いっぱいだった。

 彼がアレクシアの名誉のためにそう言っているのか、男として好意があるゆえに言っているのか、辺境伯夫人候補としてアレクシアという人間を手放したくないのか。

 アレクシアにはよくわからなかった。

 婚約者だったとあっては、などという曖昧な言葉も、彼の本心をわかりづらくさせている。

 

「……何を言っているのでしょうね、俺は。少し、頭の中を整理したいと思います」


「わかりました」


 彼が立ち上がり、アレクシアの方へと歩いてくる。


「部屋までお送りします」


「ありがとうございます」


「こちらこそ。フィオナのこと、本当にありがとうございました」


 そう言って、ソファに掛けるアレクシアに手を差し出す。その手を取るのに、なぜか一瞬躊躇した。

 そんな彼女をせかすでもなく、ただ手を差し出したまま待っているレニー。

 白くたおやかな手が、肉刺まめだらけの無骨な手にそっとのせられた。


(わたくし、なんだか……この方の前だと弱々しくなってしまう気がするわ)


 今までにないほどか弱い女性として扱われるからなのか、それとも。

 彼の隣を歩きながら、彼の顔を見ることができなかった。



  

 響くノックの音に、ベッドに腰かけてぼんやりしていたフィオナが顔を上げる。

 返事をすると、父ヴァージルが部屋に入ってきた。


「お父さま、あの……ごめんなさい……」


「なぜお前が謝るんだ」


 ヴァージルがフィオナの隣に腰掛ける。

 フィオナは戸惑ったような顔をしていた。


「謝るのは私のほうだ。幼いお前が母親の死に責任を感じていること、後継者問題で胸を痛めていること……ちゃんと気づいてやれなかった」


 フィオナはただ首を振る。


「お父さまは何も悪くありません。わたしが、何もいわなかったから……」


「だがそうさせたのは私だろう。私がもっとお前に向き合っていれば、お前もつらいことや悩んでいること、素直に私に打ち明けられたはずだ。すまなかった、フィオナ」


「そんな……」


 フィオナがうつむく。


「なぁ、フィオナ」


「はい」


「お前は母親……イリーナによく似ている」


「そう、なのですか」


 肖像画でしか見たことのない母の姿。

 額縁の向こうの母は、いつも優しく微笑んでいた。

 茶色の髪はフィオナとは違うが、新緑のような瞳は同じ。そのことにうれしさを感じていた。


「イリーナはお前が生まれることをとても楽しみにしていたよ。次は女の子な気がする、女の子だったらフィオナと名付けようと、イリーナが決めたんだ」


「そうだったのですね」


 うれしさと切なさが小さな胸に同時に押し寄せる。


「イリーナは最期の瞬間まで、お前を気にかけていたよ。お前が無事生まれたことをとても喜んでいたし、短い時間でもお前をたしかに愛していたんだ」


 それを聞いて、フィオナの瞳から涙がこぼれる。


「でも、わたしのせいで……」


「それは言うな。誰のせいでもない」


 たしなめる父の声は優しくて、フィオナの瞳からは次々と涙があふれ出た。

 ヴァージルは娘の柔らかな髪を何度も撫でた。


「誰のせいでもないんだ。とても悲しい出来事だが、私もレニーもお前のせいだなんて少しも思っていない。お前は愛した人が残してくれた子だ。愛しいと思いこそすれ、責める気持ちなどあるはずがない」


「おとう、さま……」


 しゃくりあげながら、父のたくましい胸にすがりつく。


「私は言葉足らずな上に外にばかり気が向いていた。ごめんな、フィオナ」


 首を振る娘の小さな背中を、父がさする。


「頼りない父だが、これからはつらいことはつらいと言ってくれ。後継者問題も、今は気にしなくていい。情けない話だが、私はアレクシア嬢のように察するということはきっとできないだろう。だから、一人で抱え込まないでくれ。お前は私の大事な子なのだから」


「は、い……。はい、お父さま」


 フィオナにとって、母親の話題はずっと避けてきたことだった。

 お前のせいだとまでは言われなくとも、父や兄の顔が曇るのが怖くて。

 そしてヴァージルにとっても、避けてきた話題だった。

 母との思い出が何もない娘にイリーナとの思い出を語るのは酷な気がして。そしてイリーナのことを話すことで、フィオナが罪悪感を抱くのではないかと危惧していた。


「もっと早くこうして話し合っておけばよかった。そのきっかけを作ってくれたアレクシア嬢には感謝してもしきれないな」


「はい……わたしもアレクシアさまが大好きです。お姉さまになってくれたらうれしいです」


 ふ、とヴァージルが笑いを漏らす。


「だといいな。まあ、お前の兄の頑張り次第だよ」


「お兄さまにがんばってって伝えておきます」


「ああ、そうしてくれ」


 ヴァージルが笑いながら言う。

 柔らかな頬を濡らす涙を、大きく温かな手がぬぐった。

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