第7話/『チチをもげ!』

殺した後、家に帰って、気が付くと風呂でツルヨに身体を洗われていた。二人とも裸だった。ツルヨは口からオエーと40度くらいの丁度いいお湯を吐き、俺の身体を素手でごしごしとこする。こびりついた中年の血を洗い流してくれる。ツルヨのお湯はこんなにも温かいのに、俺は震えが止まらない。

「うんしょっ、うんしょっ」

 さっき剣に変形して人を斬ったとは思えないようなかわいいツルヨの声。それを聞いているうちにあーこれ現実なんだと意識がはっきりしてくる。

「血ってなかなか落ちないんだね」

 きっとツルヨは人が死んだってどうでもいいんだ。俺が生きてさえいれば誰が不幸になろうが構わない。人間らしい良心の呵責なんか寸分もない。あるのは俺の幸せを願うという機能的な感情だけ。

 そんな女の子が剣に変形して、俺を殺そうとする人間たちを殺す武器になってくれる。

 こんな都合のいいことがあっていいはずがない。

「ジロウ様、大丈夫だからね」

 ツルヨは俺を後ろから抱きしめる。裸同士だから彼女の体温が確かにわかる。安らぐ温かさ。肉の密着。ヒトのぬくもり。今の俺には欲しいものすぎて、振り払うことができない。この体温があれば、中年の血の臭いから逃れられる。


 お花畑のにおいがする夢を見る。

 夢の中でも俺はツルヨに抱きしめられていた。

「ジロウ様は世界でただ一人の尊い人間なの。だから何も悪くない。誰かを殺していいんだよ」

 その言葉が嬉しすぎて強く縋りつくと、ツルヨは優しく俺の頭を撫でてくれる。ずっとここにいたい。


 目を覚ますと自室の布団の中で、寝すぎた時のだるさを感じる。洗ったはずなのに中年の血の臭いがして気持ち悪い。ただの血でなく中年のそれというところに地獄がある。俺はツルヨに後ろから抱きしめられたまま眠っていた。窓の外を見ると真っ暗で、真夜中かもしれないし夜明け前かもしれなかった。

「ジロウ様は私にとってただ一人の大事な人。どんなことになっても、私はあなたが生きていてくれれば嬉しいから」

 ツルヨは俺を抱く腕に力を込めて、だいたい夢と同じようなことを言う。怖いけど嬉しい。だから自分が嫌いだ。

 さて、俺は早く死んだ方がいいのだけれど。

 布団の柔らかさで全部がどうでもよくなり、頭の中を真っ暗にするためにまた眠る。

 飲み食いせず目を覚ませば眠るように努めるだけの日々が続く。安らかでいたい。

 そうして何日か過ぎたかもしれないし、一晩しか経ってないかもしれない。

 布団から起き上がれないという地獄の底で、俺は生きているか死んでいるかもわかならい。死んでいる方がいいなと思う。


「ジロウ様~っ! 起きてください~!」

 切実なその声に目を開けると、泣きはらして目を真っ赤にしたツルヨが俺を必死に揺すっていた。

「ツルヨ……」

 生きてるからって安心させるために名前を呼ぶと、ツルヨの顔は顔をパッと輝かせて笑う。

「ジロウ様起きた! もう、死んじゃうかと思ったよ~!」

 ツルヨは涙と鼻水で顔を濡らし、それを俺に擦りつけながら泣く。

「もう何日もご飯食べてないでしょ!? 今日は豪華なの作ったから、食べて? ね?」

 肉の焼けたいい香りがするけれど、死にたいから食べたくない。

 それでも今泣いているツルヨがかわいそうだから、俺は地獄そのものが如くけだるい身体を上げる。

 座卓の上には脂身がよく乗って香ばしい焼き目のついた肉の塊が置かれていた。豚肉とも牛肉とも思えない独特の香りを放つそれに、どこか根源的な不快感を刺激される。しかし湧き上がる食欲に抗えない。これだけの罪悪感を覚えていながら、身体が生きようとしている事実に情けなくなる。

 俺は素手でその肉を掴み、熱さも無視してかぶりつく。口内で弾ける強烈な旨味に、自分がいかに空腹であったかを実感させられる。肉の油が旨味を垂れ流しながら喉を滑り落ち、嚥下の悦びが全身を巡る。

「ジロウ様、おいしい?」

 返事をする余裕すらなく何度も頬張る。口内を火傷するような熱さだが、貪り尽くす自分を止められない。こんなにも死にたいはずなのに。

 気付けば一片も残さず平らげていた。

「……これ、何の肉?」

 ツルヨはよくぞ聞いてくれましたと言いたげに笑い、メイド服を脱ぐ。裸の上半身が露わになる。そこに二つあるはずの乳房、右の一つがまるで削り取られたかのように消失していた。

「おっぱいステーキだよ!」

 自慢げに胸を張るツルヨ。右の乳房があった場所には大きく丸い血塗れの傷痕があり、今も血がダラダラと流れ落ちている。

 それを見た俺は、気が付けばツルヨの髪を掴んで詰め寄っていた。

「なんでそんなもの俺に食わせたんだ」

 ツルヨの髪がちぎれそうなのにも構わず引き寄せる。全部平らげておきながら怒る筋合いなんかないと思いながらも身体が止まらない。

「痛い、痛いよジロウ様……なんで? 私、いいことしてるはずなのに……」

「俺はこんなこと頼んでない」

「私のおっぱいって、ものすごく栄養価が高いの。舌よりもずっと。変なもの食べさせたわけじゃないよ」

「そんなの、おかしいだろ」

「私も変だとは思うけど……だって、そういう知識が頭の中にあったから。ジロウ様、ずっと何も食べてなかったでしょ?」

「俺はお前の身体をこんなに傷つけてまで生きていたくなんかない」

 彼女の舌の肉を毎日食っていながら、どの口がこんなことを言うのだろう。

 ツルヨは血に染まった胸の傷痕を恥ずかしげに見る。

「クレーターみたいでちょっと恥ずかしいけど……きっとすぐ治るよ。舌よりは時間かかりそうだけどさ。だから安心して。犠牲なんかじゃない。私の身体って、ジロウ様の非常食なんだよ?」

「そんな身体、嫌だろ」

「嫌じゃない」

「なんで?」

「私はジロウ様のために生きてるから」

「なんでそんな風に思うんだよ」

「あの日、初めてこの部屋で目を覚ました時からずっとそう思ってる」

「理由は!?」

 ツルヨは困ったようににへ~と笑う。

「えへへ……ごめん、わかんない」

 その声音を聞いて、こんな子の髪の毛を掴んでいいはずがないと実感する。

 俺はツルヨの髪を離し、目を背ける。

「もう俺から離れなよ」

「それは嫌」

 ツルヨがここまで明確に拒絶を示すのは初めてだった。俺の言葉ならなんだって肯くはずのツルヨだと思っていた。

「だってこれからも、前みたいな人がジロウ様を殺しに来るんだよ? 剣になれる私がいないと、ジロウ様が死んじゃう。願いを叶えるためならジロウ様を殺そうとする人たちが、いっぱい来るんだよ!?」

「俺が死んで誰かが幸せになれるなら、それでいい。それがいい」

「そんな悲しいこと、言わないで……」

 何もかもが苦しくて、ツルヨの気持ちなんかどうでもよくなってくる。それより全てのエゴをぶちまけて楽になりたい。それが彼女を傷つけるとわかっているのに、自分を抑えきれない。。

「今までずっと思ってた。生きていたって誰のためにもなれない。この世界のどんなものにも価値を提供できない。生きてていいって思えない。なのに死ぬのは怖い。ずっと、ずっと……そんな俺が誰かの願いのために死ねるなら、幸せなんだよ。これ以上の幸福はない」

「でも、あの時おじさんと戦ってたじゃん。ジロウ様だって、本当は死にたくないんだよ」

 何の言い訳もできない。俺は自分の生き汚さをツルヨに責任転嫁しようとしている。

「……頼むから、どこかに行ってくれよ」

 これ以上、自分の矛盾を直視したくなかった。自分を守るためなら、ツルヨが傷ついても良いと思った。

「私がいない方がいいってこと?」

 純粋な存在否定。これを肯定することは精神的な殺人に等しい。

 それなのに。

「俺はツルヨに、ここにいてほしくない」

 ツルヨが現れてから全部がおかしくなった。それまでは生きても死んでもない幸福があった。社会からの優しい隔絶。それが壊れたのはツルヨが来たせいだ。

 だってツルヨの舌は美味い。ツルヨのお湯は温かい。ツルヨの声は心地いい。俺は幸せになりたくないのに。

 いつの間にか、ツルヨが泣きじゃくっている事に気付く。

「ここにいて、ごめんなさい」

 ツルヨはただ、泣いていた。瞳の奥から流れ出る涙を堪える努力すらできない様子で、呆然と涙を垂れ流している。

「私、ずっと迷惑だったんだ。おせっかいだったんだ」

 涙ながらに俺を見据えるツルヨ。俺はその視線からどうしようもなく逃げ出したい。

「だってジロウ様、私の前で一度だって本当に笑ったことなかったもん」

 ツルヨがそんなことを考えているなんて、思いもしなかった。

「いつもいっつも、私の前でどんな顔すればいいかって考えて、作り笑いの感謝して……ジロウ様が好きだから、一緒にいる楽しさと同じくらいに辛かったよ」

 彼女が俺を好きだという気持ちは機械的で、複雑さを勝ち得ていないものだと決め込んで、その小さな傷つきを予感すらできなかった。

 それを実感してもなお、彼女が傷つくであろう言葉を止められない。

「そんなこと言われたって、しょうがないだろ。俺はお前が何者か知らない、わからない。それなのに好きとか言われて、納得なんかできるわけないだろ」

「だから信頼してもらえるように過ごしてきたよ、私。何度も大好きって伝えた。言葉も態度も尽くしたよ? それなのに疑われたら、もうどうしようもないよ。わからないんだもん。自分がどんな人なのかって。わかるのは機能だけで……私にはジロウ様しかなかったのに」

 ツルヨは嗚咽していた。吐血するように苦しみと悲しみの言葉を絞り出した彼女の顔を見て、俺は初めて死にたいという気持ちを忘れる。

 自分のことなんか全部どうでもよくて、今はただ、ツルヨが傷ついていることが辛い。

 そう感じた時には全てが遅かった。

「今日までたくさんわがまま言って、ごめんなさい」

 まばたきの一瞬の間に、彼女の姿はなくなっていた。

 これまでのツルヨとの全部が夢じゃないのかとも思ったけれど、キッチンに飛び散っていた血と真っ赤に染まった包丁で全て現実なのだと思い直す。

 ここで彼女は胸を切り落とし、それを焼いた。

 俺のために焼かれたおっぱいが、そこにはあったのだ。


☓ ☓ ☓


 ツルヨはビルから飛び降りてみる。

 ツルヨは自分に火をつけてみる。

 ツルヨは手首を切ってみる。

 ツルヨは首を吊ってみる。

 ツルヨは川に潜ってみる。

 ツルヨは切腹してみる。

 色々な自殺を試す。

 ツルヨは死ねない。

 でも死のうとする。

 ツルヨは死ねない。

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