第6話/中年のために死にたかった
俺は大剣となったツルヨを勢いのままに灰坂へと振り下ろす。
サイ頭のツノとツルヨ大剣の刃がぶつかり合い、鋭い衝撃音が空間を揺らす。ツルヨ大剣を握る両腕がジンと痺れ、自分の振るった暴力の重さを自覚する。
灰坂は狼狽に表情をぐにゃりと歪めていた。
「ハァ嘘でしょ聞いてないよそんなのぉ!?」
渾身の力で押し出される灰坂のサイ腕、その角に込められた力に押し負けそうになる。
「大丈夫だよ、ジロウ様。遠慮なんかしないで。私をめいっぱい使って、好きなように振り回して!」
その声は大剣となったツルヨから聞こえた。見たところ口なんかないように見えるけれど。
さっきまで死を望んでいた自分の心が、窓越しにぼんやり浮かぶ人影みたく曖昧になっていく。目の前に迫った暴力と殺意をどうにかすることしか考えられない。
焦った灰坂が何か言う声も遠くに感じられる。
「ねえ、一回仕切り直さない? そんなのあったって知らないからさあ、これはノーカンにしてまた今度やろうよ。その方が次郎くんも色々助かるでしょ?」
口ではそんなことを言いながら灰坂はサイの頭になった腕を何度もツルヨ大剣に叩きつける。一撃が重く鈍く、俺の骨と筋肉が攻撃を受けるたびに軋む。内臓に暴力が響く。心が負けそうになる度にツルヨ大剣を握った手を通し全身に力が漲り、戦意が無理やり奮い立たされる。これもツルヨの力らしい。
衝動のままにツルヨ大剣を横薙ぎに振るう。ゴウンと音を立てて灰坂に迫る巨大な血と骨の剣。灰坂はその刃をサイの角で受けるが、踏みとどまることは叶わない。バットに吹き飛ばされるボールのようにすっ飛んで地面に転がる。
情けなく倒れ伏す灰坂を見て、退屈な気分になった。負ける気がしない。蹂躙という言葉、その意味通りのことができてしまう。それだけの力がツルヨという大剣だった。
静かな夜の公園にツルヨの熱っぽい声が響く。
「これが私の力。迫り来る怖いものから幸せを守る武器。それが私なんだよ」
灰坂は俺を恨めしげに睨みながら、足を震わせて立ち上がる。
「こっちがここまでやられたんだから、もう殺されてくれよ……」
弱っちくて悲痛だけど卑怯な中年男の情けない声に、命を捧げてしまいたい自分がいる。それがわかる。思い出す。冷静になる。こんなのは俺の望んだことじゃない。灰坂がその凶暴な右腕を突き出してこちらに迫る。あれを受け入れれば俺は優しい人間になれる。ツルヨ大剣を手離すべきだ。価値のない自分じゃなくなるために。死にたいんだから。突き出されるサイの角。その重さと速さ、風が唸る音。灰坂の血走った目。食いしばった歯。この手にある、ツルヨの重み。迫り来る殺意。死にたくない。
俺は突き出された角を紙一重で避け、灰坂の右肘から先をツルヨ大剣で斬り飛ばす。
斬り飛ばしてしまう。
腕が切断される音は、濡れた段ボールを破った時のそれみたいに聞こえた。バリビシャ!みたいな。そして血がボバァーッと飛び散る。
痛みに絶叫する灰坂。
その叫び声が俺を正気に戻す。
心の窓越しでぼやけていた死にたい俺が、窓をドカンと突き破って戻ってくる。
灰坂の右腕、その断面は錆びた鋸で強引に切り裂かれたかのような汚さだった。血が勢いよく流れ出ている。放っておけば出血死してしまうだろう。それはまずい。俺は慌ててツルヨ大剣を置いて灰坂に駆け寄る。
「痛ってえ~くそ、痛いっ、あぁぁぁ~」
傷みに悶えて転げまわる灰坂。人殺しになるなんて嫌だ。でもどうすれば。血を止めないと。とりあえず右腕の切断面を両手で押さえてみる。えいっ。
「あぁぁぁーっ!」
吠える灰坂。血は俺の指の隙間から流れ出ていく。止まらない。傷口を固めないと。人殺しは嫌だ。どうしよう。こんな価値のない俺が人を殺してまで生きていいはずがない。そうだ!
俺は天才的な閃きによって公園の砂場から両手いっぱいに砂を抱え、えっさほいさと灰坂に駆け寄り、その傷口に砂を塗り込んでみる。泥団子が固まるみたいに地で砂を固めて傷口を塞ぐのだ。
子供の頃にやったことがある。
とんとんぎゅっぎゅっで固められるはずだ。
「痛い痛い痛い痛い痛いやめろやめろやめろやめろやめろ」
「我慢してくれ。あなたに死んでほしくないんだ」
「うそつけーっ!」
「絶対にあなたを死なせない。俺がその命を守る……守ってみせる」
「い~~~や~~~!」
バタバタと抵抗する灰坂の首を掴んで締めつけ抵抗できないようにする。
そうすれば傷口に砂を詰めて止血できる。
そうして血が流れ続ける傷口に砂を塗りたくっていたらいつの間にか朝陽が昇り始めていた。
ぼんやりと青い夜と朝の間で、俺はもうとっくに冷たくなった灰坂の傷口をしっかりと砂で固めてあげた。もう血も流れない。とにかく血を止めればよかったんだ。灰坂の顔は睾丸でも蹴り上げられたかのような苦悶の表情で固まっていた。不細工な顔だった。息をしていない。朝が来る。俺は傷口にとにかく砂を詰め続ける。血は止まったのに手を止めない俺は偉い。
いつの間にか剣から人間に戻ったツルヨが俺の背に立ち、その様子を見ていた。メイド服の女の子に、刃であった面影はない。彼女は悲しげに、居心地悪そうに立ち尽くしていた。
「……いつからそこにいた?」
「ずっと見てたよ、ジロウ様の拷問。ジロウ様って容赦ないんだね。ちょっとかわいそうだなって思うけど……殺されかけたんだから怒って当然だと思うよ」
「は? 俺が拷問? なに言ってんの?」
俺は立ち上がってツルヨに詰め寄り、その襟を掴む。
「俺は助けようとしたんだ。血を止めたんだよ」
ツルヨが困惑で震える。
「えっ……でも、やり方が違くない?」
頭のどこかではおかしいなんてわかっているけど、そう思わないと気が狂いそうだった。俺は最善を尽くした。しょうがなかった。
「この人が俺に殺されていい理由なんかない。死ぬのは俺の方だった」
「そんなことないよ。向こうが先に殺そうとしてきたんだから、正当防衛。ジロウ様は悪くない」
「何でお前、あんな剣になったんだよ?」
ツルヨがいなければ、剣になんかならなければ俺はあの中年のために死ねた。
中年のために死にたかった。
そう言いたかったが、怯えた様子で目に涙を浮かべるツルヨにそんな身勝手なことを言いたくなかった。
「それは……頭に浮かんだから。剣になって、ジロウ様の力になるために今ここにいるんだって、パッと思い出したから。絶対、死なせたくなかったの!」
震えるツルヨを見て冷静になる。彼女だってあんな戦いをするのは怖かったはずだ。なのに俺のために剣になって戦ってくれた。俺が死にたかったという都合を押し付けて彼女に理不尽な怒りを向ける前に、俺は感謝しなければならなかった。
言葉が出ず固まってしまう俺を、ツルヨがそっと抱く。その肩は未だ震えていた。
俺はまず、今この場でツルヨの心を守らないといけない。
「ツルヨ、怖かった?」
「うん」
「急に剣に変形して、びっくりしたんだね」
「うん」
「俺のために頑張ってくれて、ありがとう」
ツルヨの頭を撫でながら、俺は言葉を続ける。
「でも、もういいよ。次にこんなことがあった時は、ツルヨは俺を置いて逃げてくれ。俺のせいでツルヨが怖い思いをしてまで戦うなんて、あっちゃいけない」
これでツルヨが俺から離れてくれればいい。
『これから色んな人が、すごい力であなたを殺しに来るの』
ツルヨのこの言葉が本当なら、これから色んな連中があんな風に俺を殺しに来るってことだ。誰かを殺して、ツルヨに戦いの恐怖を強いて、そこまでして生きていたくなんかない。俺が生きるために誰かが死んだり、怖い思いをするなんてあっていいはずがない。
俺なんか早く死ねばいい。生きたいなんて傲慢だ。命なんて贅沢品だ。
それなのに、ツルヨは俺の身体を強く抱きしめて言う。
「こんなこと言っちゃいけないし、思っちゃいけないけど……私はジロウ様が死なずに済むなら、他の人を殺したいよ」
何もかもわからなかった。ツルヨって何なんだ? どうして俺を殺したい奴がいる? 俺がなにをしたって言うんだ。ただ社会のいちばん端にいたかっただけなのに。
寄り添い合う俺たちの足下で、血濡れた中年の死体が打ち捨てられたみたいに転がっている。
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